22
紫野と海里がなかなか銭湯から帰って来ないこともあり、話はうやむやのまま後日へと持ち越しとなった。
何でも、二人揃って開けっ放しだったアパートの様子を見に行ってくれていたらしい。
そうだとしても、遅すぎたのは気のせいだろうか。
しかし翌日はから、込み入った会話をするどころではなかった。
忙しすぎた。主に、紫野が。
梓が両親のところへと里帰り(?)をしているので予約は少なめにしてあったのだが、やはり休日は忙しい。かといって平日が暇というわけでもなく、休みなく働く彼は、現在新規で来店した噛みつく子に悪戦苦闘している。
雛菊はバニラを思い出して、切ない気持ちになった。
「ねぇちゃん?今日の昼どうする?作る?」
二階から降りてきた海里が、ひょいっと顔を覗かせた。
ここしばらく居着いている海里は有給を使っているのか仕事が休みで、二階で撫子とわたあめの両手に花でまったりと過ごしている。
ひょいっと乗り出してきた海里は、トリミング室で紫野が奮闘しているのが見えたのか、「まじか」と呟いた。
「何が?」
「だってあれ、すごい嫌がってるから。あれって、耳の中の毛を抜いてるの?普通に、見てるだけでこっちが痛いし。――――あ、噛まれた?……これはどっちも痛いね」
今紫野が鉗子で毛を抜いているのはシーズーだが、プードルなども耳の中の毛を抜かなければならない。
雛菊も初めは可哀想だと思った。
それでも放置するわけにはいかない。耳の中の汚れが元で炎症を起こしたりするらしいので、心を鬼にして見守っている。
「痛いのわかってるから嫌がるんだろうけど。……トラウマみたいな感じ?」
「トラウマ?」
「一回痛いことされたらもう二度と勘弁してって思うし、それに関連する状況だとか道具だとかを見ると警戒するでしょ。……あれだよね。小さい子が病院や歯医者を嫌がって泣いてるのを見てるみたいな気分?本人は嫌がるけど、その子のため、みたいなところが切ないよね」
雛菊はふと思い出した。
海里は注射を嫌がって泣きじゃくったりする子供ではなかった。
その痛みが必要なことを理解して、我慢するような聡い子だった。
雛菊が海里を慰めていたのは本当に幼い頃だけ。記憶にあるほとんどが、慰められる側だった気がする。
この先もきっと、海里には頭があがらない。
「そういえばさ、この店の看板ってセンスおかしいけど、どこかに発注したやつ?」
「え?よく知らないけど……」
紫野が言いたがらないので、そこに関しては雛菊にもわからない。
「何か、文字に既視感があるような気もするんだけど?……気のせいか?」
海里が眉を顰めながら腕組みをして首を捻っている。
その間に雛菊は初めの質問に答えておいた。
「今日のお昼ご飯は作る時間がありそうだから、待ってて」
「ん、わかった」
海里は了解して、長居することなく二階へと戻って行った。
引っ越しのことについては保留状態ではあるが、雛菊がここで働きたいという意思は尊重してくれそうな雰囲気だ。
紫野が雛菊のために説得してくれたのだろうか。
そう考えが至り、顔が赤くなった。
そっちの件もうやむやのままだ。
彼の意中の人になるなんて、マイナス思考を除いたとしてもまだ半信半疑くらいだった。
ぼんやりとしていたら、彼がぞっとする視線を向けてきたので、慌てて仕事脳へと切り替えた。
一日の仕事を終えて二階へと上がると海里の姿はなく、わたあめと遊んでいたほたるが、「気になることがあるからって、飛んでいきました」と説明してくれた。
よほど慌てて行ったのか、上着が置きっぱなしだった。
それをソファの隅に畳んで置かせてもらい、寝そべっていた撫子に癒しを頂く。
すっかりとこの家にいついている雛菊としては、一旦出るべきだとは理解しているのだが、一人きりのアパートに帰るのは寂しいと感じてしまいずるずると好意に甘え続けている。
それに、一人の時に雄一郎が尋ねてきたら追い返せるかどうかわからないので、この安心できる場所から重たい腰が上がらないのだ。
「お姉さんは……」
ふいにほたるに声をかけられて顔をあげた。
「?」
「あ、いえ。……お姉さんは、お兄さんのこと……好きですよね?」
上目遣いで躊躇いがちに訊かれて、雛菊は硬直した。
顔は全面、赤くなっているだろう。
するとほたるは自分で訊いたのに、ぱちくりと目を瞬かせた。
「あれ?もしかして予想外に好感触?だったら……えーと。告白もしてないのに結婚情報紙を買っちゃう先走りすぎな兄ですが、見捨てないであげてください」
ほたるが抱っこしていたわたあめの頭を、ぺこりと下げた。
可愛すぎて頬がゆるんだが、内容が頭に入ってくると狼狽した。
「えっ、見捨てるなんて、そんなことは」
「本当ですか?」
ほたるに潤んだ瞳を向けられて、うんと力強く頷いた。
「よかったー!」
安堵したのか、彼女はわたあめとソファに背中から転がった。
彼女の話からも、紫野が好きなのは自分だという結論に達しそうになる。
(期待したらだめ。後で奈落へと落とされる)
後ろ向きな雛菊は、何も考えてしまわないように、その後は夕食作りに没頭した。
いい匂いに、わたあめがきゅんきゅん言い出した頃、紫野があがってきて、梓も疲労困憊な様子で帰宅した。
海里がいない食卓に、ほんのり寂しさを感じながら食事を終えると、紫野に呼ばれてどきどきしながら従った。
ソファに座るよう言われて腰を下ろすと、紫野も隣に腰かけた。
その彼の手には宝飾店のロゴの入った小箱があり、雛菊は内心パニックに陥っていた。いけないと思っていても、鼓動は期待に早鐘を打つのをやめてはくれない。
雛菊は何も言えないまま俯いていると、紫野がぱかりとふたを開けた。
「これ、雛ちゃんにと思って」
おそるおそる視線をあげ、目を瞬いた。
そこにいたのは予想とは趣の異なる、可愛らしい犬――の形をしたペンダントだった。
柴犬らしき犬が、丸いイミテーションの玉の上に前肢をかけているデザインだ。
傍で事の成り行きを見守っていた梓とほたるが揃って、頬杖をついた手のひらから、ずこっと顔を滑らせた。
「あの、これは……?」
「小麦の代わりにはならないけど、この子が雛ちゃんを守ってくれればと思って。お守り代わりにもらって欲しい」
身構えていただけに拍子抜けして、さほど考えずに受け取ってしまった。
柴犬が「受け取って!」と訴えかけるような目をしていたからかもしれない。
「でも、これ高くは……」
「それ自体は高くはないから、気にしないで」
「これ自体は?」
「ううん。何でもないよ。それより、貧乏でごめんね?おもちゃみたいで、呆れた?」
肩を竦める紫野に、雛菊はぶんぶんと首を振った。
「そ、そんなことはないです!嬉しいです……!」
小麦のことを気に病んで、こんなプレゼントまでしてくれて、何ていい人なのだろうかとしみじみ噛みしめていたところだ。
「お風呂以外は着けていてね。じゃないと、意味がないから」
「意味?」
「ううん。こっちの話」
やや黒いオーラでにこりとした紫野は、銀のチェーンを外して、正面から雛菊の首へとそれをかけた。
彼の髪が頬にふわりと触れて、あまりの近さに心臓の音が聞こえてしまわないか心配になる。
「はい。できたよ」
チェーンが長めで、ちょうど服の下に隠れる。
仕事中でも問題なく着けていられそうだった。
ちょんとつつくと、柴犬が胸元で跳ねた。
この子が幸せな未来へと導いてくれそうな気がする。
「紫野さん。ありがとうございます」
心からの感謝をすると、紫野も嬉しそうに微笑んだ。
「今度は指輪を――」
その時の、彼の声にかぶせてスマホが鳴った。
それは海里からで、すみませんと断ってから出る。
「あいつに知られた以上どうせ帰れないし、アパートは解約しておいたから」
「お金は――」
「ねぇちゃんは何にも気にしなくていいよ。『親切』なうちの所長に後始末をさせ……ごほん。全て任せたから。あと、荷物はうちに送っておいた」
結局いつまでも経っても弟に頼りきりだ。情けなさすぎて顔向けできない。
海里のところの所長にまで迷惑をかけてしまった。
「それと。すっごい不本意で危険極まりないけど、しばらくはそこにいて。さすがにあいつも店で揉め事は起こせないだろうし」
しかし、もう何日もお世話になっているのに、いいのだろうか。
足元に来てくれた撫子の頭に顔を擦り寄せると、雛菊の背後から紫野が囁いた。
「ずっといてくれていいからね」
それは通話中の海里にも聞こえたらしい。
「近い!何でくっついてるんだよ!」
「二人で撫子を可愛がっているから、仕方がないよね?」
雛菊は撫子を独占しすぎていたと反省して、慌てて場所を譲った。
彼が少し暗い表情になったのはなぜだろうか。
「……ねぇちゃん。動物好きに悪いやつはいないって言うけど、撫子に釣られてとんでもなく計算高くて執拗な変態を引き当てたんだから、常に警戒心をもって――」
「わん!」
撫子が耳の近くで吠えたことに驚き、ついスマホを落としてしまった。
紫野が親切に拾ってくれたものの、残念ながら通話は切れてしまっていたらしい。
「部屋にある充電器に差しておくね」
と、紫野が親切にスマホを持って充電器のある寝室へと行ってしまった。
どの道、海里からしか連絡は来ない。
雛菊には有り余る電子機器だ。
だからすっかりとその存在を忘れて、お風呂の時間まで撫子と戯れた。
馴染んだとはいえ、赤の他人である雛菊としては、ほたると一緒に入浴というのが毎回ハードルが高い。
いくらタオルで身体を隠しても、洗う時や湯船に浸かる時は外さないといけないので、あまり意味をなさない。
それはほたるも同じらしく、いつもは一緒に湯船に浸かりながら明後日の方角を見ながら会話しているが、今日の彼女はお湯に視線を落としてため息をついていた。
ほたるの吐息で波紋が広がる。
悩みでもあるのだろうか。
聞いていいものか悩んでいると、彼女は憂鬱そうにそれを口にした。
「はぁー……。テストの結果が微妙すぎて、お兄さんに怒られそうです……。もしもの時は、助けてください!」
懇願されて、雛菊は押され気味に安請け合いしてしまった。
他人が口出ししてはいけない家庭内の問題だというのに、いいのだろうか。
しかし普段温厚な彼は怒ると人が変わる。可愛い妹にそこまで怒るかは不明だが、他人が間に緩衝材として入ることで、少しは空気を変えられるかもしれない。
しかし実際に盾となろうとしたところで、結局怖じ気づいて、しっぽを巻いてすごすご退却してしまったらどうしよう。
黒いオーラを背負う紫野の姿を想像してふるりと震え、雛菊は心の安寧のために話を別の方向へと変えた。
「ほたるちゃんは、大学だったよね?ペット関係は興味がないの?」
「うーん。興味がない訳じゃないですけど、将来の夢とか大層なほどじゃなくて。だからやりたいことがないなら大学に行きなさいって言われてるんです」
「紫野さんに?」
「お兄さんにも梓にも、……お母さんにも」
ほたるから初めて親の話が出てきて少し戸惑った。
勝手に両親はなくなったとばかり思っていたのだ。
雛菊の表情からすぐにそれを察したのか、彼女は華奢な肩を竦めて話し出した。
「うちのお母さんは、お兄さんのお母さんでもあるんですけど、何て言うか……飽きっぽくて。とにかく男の人と長く続かない性格で。お兄さんのお父さんともわたしのお父さんとも結局離婚して、その後も恋人がころころ変わって、今はすごーく若い旦那さんと暮らしてます。びっくりすることにお兄さんよりも年下なんですよ?さすがにお父さんって呼べないし、向こうも高校生の娘がいきなりできて困惑してたから、わたし、春休みに家出してきたんです」
「い、家出?」
「むしろ出奔?です。それから一回も家には帰ってません。お兄さんが休み中に色々と手続きしてくれて、この近くの高校に転校しました。……お母さん、迎えに来てはくれなかったけど、大学進学の費用は貯めてくれてて、ちゃんと進学するならここにいていいって言ってくれたから、今はあの家で暮らしてるんです」
彼女は過去の話を振り返り、しみじみと語る。
かなり複雑な家庭環境で育ったらしい。
それでもすっきりとした顔をしているので、あの家に来てよかったと思っていることが伝わってくる。
「お兄さんは、お母さんとはほぼ没交渉で、お父さんのことは嫌っててほとんど会ってないらしいけど、育ての親である梓のお母さんのことは慕ってて、その影響でトリマーになったんです」
「梓くんのお母さんがトリマーだったの?」
「そうです。あのお店、元々は梓のお母さんのお店だったらしいですよ」
「じゃあ、梓くんのお母さんは……」
「あ、辞めたとかじゃないです。ペットカフェつきのもふもふ堂二号店を、今もバリバリ経営してるみたいですから。たまに梓が駆り出されたりするくらい繁盛してるみたいですよ」
(もふもふ堂の二号店があったなんて。……知らなかった)
素直な驚きと、教えてもらっていなかったことに拗ねるように、雛菊は口元まで湯へと沈んだ。
しかしよくよく考えてみれば、紫野の肩書きは店長であり、オーナーの存在があることに気づくべきだった。
そこで海里との会話に看板の話が出たことを思い出し、ずっと気になっていたので尋ねてみた。
「そういえば、あの看板は?紫野さんが何も言いたくなさそうにしているのはどうして?」
「あれはお兄さんたちのお父さんが、お店を出すときに調子に乗って書いたっていってました」
「お父さんが?書道の先生か何かなの?」
「たぶん趣味じゃないですか?お父さんは確か、事務所か何かを経営してるらしいので」
嫌そうにしながらも紫野は看板を新しいものにかけ替えようとはしないので、少なからず父親のことを思っているのではないだろうか。
改めてあの店が紫野にとって大切な場所であると知った気分だ。
だからこそ、海里が言うように厄介者は辞めた方がいいのかもしれない。
彼が想っている人についてはきちんと明言されていないのだから。
話をしている間にのぼせてきた雛菊は、ほたるに断り先にあがらせてもらうことにした。
着替えを終えて外に出たが、男湯の前に人影はなく、まだ紫野と梓も出てきてはいないようだった。
中へ戻ってもよかったが、夜空を見上げると唯一わかるオリオン座がきらめいていて、しばらく眺めていることにした。
ぼんやりとしながら、雛菊はペンダントの柴犬に触れた。
小麦は元気に暮らしているだろうか。
きっともう、雛菊のことなど忘れてしまっただろう。
(自分だけの愛犬がいたらいいのに……)
白い息をついて視線を下に戻すと、道の先の電柱の陰から、チワワがこちらを見ていることに気がついた。
「もしかして、……バニラ?」
何となくそんな気がして足を踏み出すと、チワワはぱっと逃げてしまった。
慌てて後を追いかけると、今度は曲がり角にしっぽが消えていった。
そのまま走って角を曲がったが、残念なことにもうバニラらしきチワワはどこにもいなかった。
もしかしたら愛犬が欲しすぎて、見間違えたのかもしれない。
諦めて踵を返した雛菊は、背後に人が立っていたことに驚き小さく悲鳴をあげた。
しかもそれはよく知る人物、雄一郎であった。
「どうして……」
「少しでいいから、話をしないか?……会いに来るのは、これで最後にするから」
皆が出てくるまで、少しくらいは時間があるだろう。
雛菊は少しならと頷いて、近くに停めてあった彼の車の助手席に乗り込んだ。
あらかじめ買ってあったのか、彼は缶コーヒーのプルタブを開けて雛菊へと差し出してきた。
前はこんなことをしてくれなかったのに、と思いつつ少しぬるくなったそれに口をつけた。
ほんのりと甘さの残る微糖コーヒー。
知らず知らずの内に喉が渇いていたようで、雛菊は三分の一ほど一気に飲んで息をついた。
「……それで、話って……何ですか」
「どうしても俺のところに戻って来る気はないか?」
「ありません」
「あの顔だけが取り柄みたいな男を選ぶのか?婚約者がいるのに?」
「婚約者なんていません。本人がそう言っていました」
きっぱり言うと、雄一郎は怪訝そうに眉を顰めた。
「いるだろ。あの、何とかっていう犬を連れた女が」
「……何とかっていう、犬?」
「昔流行ったあの……」
(昔流行った……?何だろう……)
思いつくままに口にしようとした雛菊だったが、突然急激な眠気に襲われ、まぶたが重く落ちてきた。
「……あ、れ……?」
おぼろ気になる意識の中で雄一郎を見上げると、彼は雛菊にシートベルトをきっちり締めさせ、缶を手から取り上げた。
「家に着くまで寝てればいい」
いつになく優しく告げた彼の手のひらで、雛菊の薄く開いた双眸は、完全に閉ざされた。




