21
「久しぶりにまともなご飯食べたかも」
食卓に追加された席で、海里がご飯をおかわりした。
あの後海里と紫野がもめにもめた結果、話半分の状態のまま、なし崩し的にここに居座ることになってしまった。姉弟揃ってお世話になることで、雛菊は若干ながら腰が引けている。
ほたると梓は、初めこそ警戒していたものの、いつの間にか海里によってその警戒心がほどかれていた。
人の内側に入るのが上手い、そつのない弟の社交性が羨ましい。
「お姉さんのご飯にはいつもお世話になってます!」
「いえいえこちらこそ、至らない姉が寝食お世話になって。料理教室に通っていたので問題はないと思うけど、何かあれば正直に言ってやってね。うちの姉はきちんと言わないと、話が全っ然伝わらないから」
悲しいことに、全員が「ああ」と納得の表情をした。
そんな自覚がなかっただけに、雛菊としてはただただ申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
それでもほたるが、「いつも美味しいです」と言ってくれたので、少しは心が浮上した。
海里にご飯をよそったお茶碗を手渡しながら、雛菊は気がかりを口にする。
「外食とかインスタント食品とかお弁当とかばっかりだと身体に悪いよ。ちゃんと自炊しないと」
「時間がなくてね」
海里はひょいっと肩を竦めた。
それはわかるが、若くても食事で健康に気を使わないと。
「海里さんは、何のお仕事をしてるんですか?」
この中で海里と一番打ち解けてくれている様子のほたるが質問をした。
思えば雛菊も、海里の仕事内容は守秘義務とかで詳しく教えてもらったことがない。
大学時代からバイトしていた事務所に就職し、特に不満を言わないので、肌に合った仕事なのだとは思って口を出さず見守っていたのだが……。
気にならないかと言えば、そうでもない。
「まぁ、平たく言えば……調査員?――――ああ、そういえば、いなくなったペット探しもしたことあるよ」
ペットを探すなんて話は初耳だった。
たぶんほたるの興味を誘うような会話を瞬時に選んだのだろう。
なぜ血の繋がった姉弟なのに、こうも違うのだろうかと疑問に思う。
梓がふと箸をとめて顔をあげ、海里に固い態度を取っていた紫野は、やや興味深げに耳を傾けだした。
「はい!猫の集会に参加するって本当ですか!?」
ほたるが目を輝かせて、挙手して質問をする。
「猫の集会……は、うーん。何時にこの場所でやってるってわかってればいいけど、そうじゃないから、……どうだろう?」
「そっかぁ……。じゃあどうやって探すんですか?」
「動物によって違うけど、大体はチラシ作って配ったり、その子のテリトリーから捜索範囲を広げていったり、目撃情報を求めたり、まぁ、地道な作業かな。俺がヘルプに入った時は、マンホールの中までは探さなかったけど」
「へぇ〜。その時の迷子は、無事見つかったんですか?」
ほたるが尋ねているのに、なぜか紫野が切ない表情で続きを促す眼差しを海里へと向けていた。
彼の動物愛は、相変わらず徹底している。
海里は一旦お茶で一息ついてから、さもないことのように言った。
「うん。飼い主の彼女が盗んでた」
「「…………」」
予想外な展開に皆絶句した。
誰も口を挟めず、海里だけが一人話を続けていく。
「ペットに嫉妬したんだって。理解できないけど。最近ではペットにマイクロチップを埋め込んで、盗難や失踪対策したりもするらしいけど、個体識別できても居場所が特定されるわけではないから、迷子自体は……減ってないかな」
何とか気を取り直したほたるが、わたあめを窺いながら呟いた。
「ペットにマイクロチップ……?それって、痛くないの?」
それには海里は首を傾げ、代わりに紫野が答えた。
「小さいチップで、楠先生の話では処置自体は大したことないらしいよ。痛いかどうかは、僕にはわからない。注射で入れるらしいから、注射が苦手な子は嫌がるんじゃないかな?撫子にはしないけどね。撫子はまず、いなくならないし」
紫野と撫子の強固な信頼関係は、たぶんマイクロチップを遥かに凌駕している。
しかしやんちゃ盛りのわたあめが心配そうなほたるは、考えるそぶりをみせた。
「それって首輪じゃだめなの?」
「いや、それは普通に、外れたら終わりだから」
梓が冷静に突っ込んだ。
確かに首輪もリードも、外れてしまえばそこまでだ。
「そういえば、迷子の犬とか猫とか、なぜかよくうちに連れて来られるよね?」
「あれは……兄貴が、犬でも猫でも、一回見たら全部顔を覚えてるから。その記憶力だけは、異常だから」
「人の顔を覚えるのと同じだよ。例えば新顔の野良猫を見かけたら、とりあえず迷子じゃないか普通チェックするよね?知ってる子なら飼い主さんに連絡するし、そうでないのなら早めに里親さんを探すか、地域猫として認めてもらえるように避妊や去勢の手術を受けさせないと」
実の弟に異常とまで言われた彼は、怒ることもなく穏やかに説明した。
地域猫の顔まで覚えているらしい。
雛菊には、猫は毛色や柄でしか見分けれない。
動物好きな彼らしいなと尊敬する雛菊とは逆に、ほたるは急に押し黙り、海里は露骨に引いた顔をしていた。
そして梓が真面目な口調で締めくくる。
「そんなんだから、うちの家計は一向に豊かにならない」
「それ、自腹なの?お風呂が直せない理由の一つが垣間見えたー」
「……お風呂が直せない?」
海里が怪訝そうに聞き返す。
「大丈夫です!今月がピンチなだけで、月末には直る予定ですから」
「あー、なるほど。だからここ最近、ねぇちゃん銭湯に通ってたのか……」
「何で知ってるの?」
海里にはやはり、透視能力でもあるのだろうか。
「そりゃGP……ごほん。会話の流れから汲み取ったんだよ」
海里はもう一度咳払いをしてから、お茶で喉を潤した。
血相を変えたほたるがわなわなしながら、慌てて梓に何かを耳打ちする。
「今、GPSって……」
「そこは聞かなかったことにしておくのがマナー」
「マイクロチップどころの話じゃなかった……!」
二人は相変わらず仲良しだ。
微笑ましく眺めていると、紫野もにこにこながら海里に言った。
「雛ちゃんは一日の大半を僕と過ごしますから、ご心配なさらないでください」
海里は頭が痛いのか、こめかみをぐりぐりと押さえている。
「……それが一番の問題なんだよ。ただでさえあの厄介なストーカーまがい男がいるっていうに、ちょっと離れてた隙に、また変なのに言い寄られてるし」
「変なの?」
変なのとは何なのだろう。
「……まぁ、まだ完全に伝わってない内はいいけど」
「え?お兄さんって、まだ……?」
「ここまで来ると、どっちにも問題がありすぎる気がする」
「……?」
雛菊が首を傾げると、紫野はすぅっと、翳りを帯びた暗い笑みを浮かべた。
「大丈夫。逃す気はないから」
「ストーカーよりたちが悪い!ねぇちゃん、早いとこ引っ越そう」
ようやく話がそこへと戻ってきた。
雛菊は、この癒し空間から離れたくはない。……彼とも。
しかし今日みたいなことがあると、と考えると、雛菊はいない方が店のためでもある。
「考えさ――」
「だめ。却下。撫子もそう言っているし」
「わんっ!」
「だからコマンド!」
海里が何か喚いている横で、紫野が撫子をよしよしと撫でる。
するとほたるがまた、梓の耳へと囁いた。
「……梓、一波乱どころか、大波乱になってるよ?そろそろ誰かが口出ししてもいい頃合いじゃないかな?」
「そこは自助努力」
つれなく言って、静かにごちそうさまをした梓は、足元をちょろちょろしていたわたあめを抱っこしてソファへと移った。
ほたるもご飯の残りを一気にかきこんで、ごちそうさまをすると、梓を追いかけていく。
「空気の読める弟と、素直な妹か……。なんで一番上がこんな、変な……」
海里が紫野をあまりにもじろじろと不躾に眺めるので、雛菊が慌てて彼に平謝りすることとなった。
「か、海里!?――――紫野さん、すみませんっ!悪気があるわけじゃないんです!」
「わかってるよ。雛ちゃんの弟は、僕の弟みたいなものだからね」
「断っっ固、お断りします」
「照れてるのかな?お兄さんって呼んでくれてもいいからね?」
紫野の厚意に、なぜか海里がぞわわっと震え上がった。
「だめだ……。いつものやつらとタイプが違いすぎてやりにくい。もう、単刀直入に言うか……。うちの姉にちょっかい出さないでくださいませんかね?」
「海里!さっきから失礼なことを――んぐっ!?」
雛菊が口出しすると、海里によってほくほくのかぼちゃを詰め込まれた。
梓の好物なので、かぼちゃはよく食卓に並ぶ。人間用は彼に合わせて大きめに切ってあるので、口腔内がぱんぱんになり、咀嚼が大変なことになった。
「……大事なお姉さんにしては、扱いが雑じゃない?」
「こう見えて意外と打たれ強いので。――――で、バイトの件ですけど、お店に何かしらの損失を与える可能性があるので、辞めさせて頂きたいのですが?」
雛菊は辞めたくはないのだが、海里の言うことは正しい。
口をもごもごさせて項垂れている雛菊を、紫野が慰めるように背中を撫でた。
「ちゃっかりセクハラしてるし!」
「ここは君の主張ではなくて、雛ちゃんの意見を聞かないと」
雛菊は何とかかぼちゃを嚥下して、やや涙目で頷いた。
「私は……辞めたくはないです。できることなら、ずっとここで働きたいと思っています。……でも」
「でも、はいらないよ。大丈夫。……雛ちゃんは、僕の、特別で大切な人だから」
そう囁いて、紫野が優しく雛菊を抱き締めた。
ほたると梓がぎょっとして叫ぶ。
「「どさくさに紛れてついに言った……!」」
「な、な、なーーー!」
騒ぐ彼らの声が雛菊にはどこか遠くに聞こえた。
紫野の言葉だけが反芻される。
――――僕の、特別で大切な人。
「も、もしかして……」
顔をあげると、彼がにこりと優しく微笑んだ。
「もしかしなくても、初めからひ――」
「わん!わんわんっ!わわわんっ!」
紫野の言葉にかぶせるように、撫子が突然激しく吠え始めた。
雛菊ははっとして、紫野を押しやった。
飼い主を取られると思ったのかもしれない。
すると海里がやけに勝ち誇った顔をして、撫子に向けていた手をさっと下ろした。
なぜかどす黒いオーラを急に背負った紫野が、褒めてください!とばかりにやって来た撫子を、かたかたと震える手のひらでよしよしと撫でる。
「…………ちょっと、腹を割って話をつけないと」
紫野がぞっとするような笑みを海里へと向ける。
海里は海里で、敬語なのに上から目線な口調で返答をする。
「いいですね?この後銭湯に行くのなら、積もる話でもしながら、背中でも流しましょうか?」
「……ふふ。じゃあ、お願いしようかな?――――梓。僕は先に、戦闘に行ってくるよ」
「戦闘……!?」
急に叫んだほたるの口をすばやく手で塞いだ梓は、複雑そうな顔で神妙に頷いた。
そして紫野と海里は連れだって銭湯に出かけて行く。
雛菊は呆然と見送ることしかできなかった。
なぜなら現状を理解するのに必死だったからだ。
彼に、特別で大切な人、と言われた。
もしかすると、結婚したい人というのは、おこがましいことだが、本当に自意識過剰かもしれないが……自分のことなのかもしれないという結論に雛菊は至った。
海里が来てうやむやになっていたが、紫野にキスされかけたことが鮮明に蘇る。
真っ赤になった雛菊は、撫子に抱きついて熱を逃がそうとした。
しかし撫子のもふもふの被毛で、みるみる体温は上昇していく。
(そんな夢みたいなことが……?)
いや、そんなことあるはずがない。
今浮れると、前の時のように叩き落される。
今度はきっと、再起不能になってしまう。
それにまだ、雄一郎とのことが残されている。
梓とほたるがひそひそと会話を交わしている間、雛菊は撫子に甘えて顔を埋め続けていた。
「あ、梓……?お兄さんさっき、『戦闘』って言わなかった?」
「たぶん、……言った。……はぁ、今日銭湯行きたくない」
「コーヒー牛乳の早飲み対決とかでは……、ないよね、きっと」
「それくらいで済んだらむしろ驚く」
「潜水対決くらいなら、まだ平和的?」
「潜水なんてしてたら銭湯のおばさんに怒鳴られるから」
「あ、そっか、潜水はマナー違反かぁ。うーん。だったら、笑顔で背中の皮がえぐれるまで擦り合うとか?」
「……流血沙汰はないと思う。……たぶん」
「じゃあ長くお湯に浸かってた方が勝ちの我慢対決?」
「それが一番、ありそうではあるか。無難だけど、迷惑は迷惑だな……」
「というかこれって、あれ?娘さんを僕にください!ばっかもーん!っていう定番の、あれ?」
「……。ほたるのそういう、どうしようもない古い知識は、何から得てるのかが地味に疑問」
「ど、どうしようもない古い知識っ……!?」
傷心のほたるは、雛菊の真似をしてわたあめに顔を埋めたのだった。




