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 階段を駆け下りると、雛菊は何度も足を踏み外しそうになりながら撫子に引っ張られた。

 それでも必死で足を動かした。――――もふもふ堂へと。

 また紫野に迷惑をかけてしまうかもしれない。

 それでも、撫子だけは彼に返さないと。

 店内へと駆け込んできた雛菊と撫子に、普段なら怒りそうな紫野は、すでに何かを感じ取っていたのか安堵した様子で迎え入れてくれた。


「よかった。さっき彼から連絡が来て――」


 紫野はそこで言葉を途切れさせた。

 呼吸困難になりかけていた雛菊の後ろから、乱暴にドアの開いた気配がした。


「……はぁ、……はぁ、雛。……逃げることないだろう」


 雄一郎が荒い息をついて、店の中へと乗り込んでくる。

 彼が入って来た瞬間、紫野がぐっと眉を顰めた。

 たぶん煙草と香水の匂いを不快に感じて。

 その緊迫した空気の店内に、さらにのほほんとした声が割って入る。


「お兄さーん。お姉さん電話にでないよー……って、あれ?」


 二階からわたあめを抱っこしたほたるが降りて来て、雛菊を見つけると目を丸くした。

 それから店内に漂う空気がどうやら好ましくないものだと理解すると、すばやくカウンターに身を潜めた。それでもさりげなく、目は覗いている。

 雛菊がどう説明すればよいのかわからず、唇を結んでいると、紫野が雄一郎の前へと出て、丁重に頭を下げた。


「すみませんが、お引き取りを願えませんでしょうか。営業は終了しましたし、うちの従業員を怖がらせられたら、困りますので」


 雄一郎は紫野を訝しげに見遣る。


「だったら、出よう雛。外で話し合おう。それとも、また話も途中に逃げるのか?」


 この場で話し合いをするわけにはいかない。

 撫子も彼を完全に敵とみなしたのか、唸って威嚇しているので、雛菊が動かないことには膠着状態が続くことが目に見えていた。

 雄一郎が行くぞと目で告げて、従いかけると、紫野の腕がするりと腰へと回ってきて、ぐっと引き寄せられた。

 カウンターの陰でことの成り行きを見守っていたほたるが、「こ、これが噂に聞く修羅場……?」と囁く声がよく響いた。

 紫野に腰を抱かれた雛菊を見下ろしながら、雄一郎が不快そうに眉を寄せた。


「……その手は?どういうことだ」


 どうもこうも、雛菊が一番驚いている。

 紫野は穏やかに、だが、有無を言わせぬ口調で言った。


「彼女から話しはありません。どうぞ、お引き取りを」


「だから、どうしてお前が口出しをしてくる。自分の婚約者を間違えてるのか?」


「…………は?……婚約者?」


「雛の婚約者は俺だ」


「……それは、元、でしょう。今は雛ちゃんの――――ストーカーじゃないですか」


 言い放たれた言葉に、俯き加減だった雛菊は、衝撃を受けて顔を起こした。


「ス、ストーカー……?」


 それはいわゆる、付きまといをする、あのストーカーだろうか。

 しかしストーカーはいささか大袈裟な気がした。

 雛菊が姿を消してから今日まで、彼の影を感じたことはない。皆無だ。

 しかし……、雄一郎は海里が邪魔をすると言っていなかったか?

 だとするならば、海里が雛菊を守るために、彼を遠ざけていた……?

 海里のおかげで、これまで平穏に暮らして来れたのだろうか。何の実害もなく、怯えることさえなく。

 心優しい弟の、影からの献身に、涙がじわりと目尻に溜まった。

 海里には、見放されたのではなく、むしろ守られていたのだ。

 海里の家を追い出されたのも、雄一郎に家の住所が知られてしまったから。そう正直に言えば怖がらせるから、わざとあんな風に……。

 雛菊が一人感動していると、ストーカー呼ばわりされた雄一郎が冷たく吐き捨てた。


「ストーカー?ばかばかしい。いなくなった婚約者を探して何が悪い?普通のことだろう」


 すると紫野がため息をついて、カウンターに携帯電話を置いた。いつかけたのか、通話中のようだった。


(どこに繋がって……?)


 それはスピーカーにされた途端、心優しい弟――海里の、信じがたい罵詈雑言が室内へと怒濤のごとく流れ出してきた。


「――――てっめぇ!!この野郎!しつこく三ヶ月もねぇちゃんの居場所を探ろうとしてて、何がストーカーじゃねぇだ!くそが!てめぇがきなくせぇ探偵雇ったせいでうちの住所がバレて、こっちは泣く泣くねぇちゃんをうちから追い出さなくたゃいけなかったんじゃねーか!追い出したその日に押し掛けて来て、ねちねちねちねちとねぇちゃんの居場所を聞き出そうとしたのはどこのどいつだ!ボケッ!この人間のクズがっ!しまいにはしばくぞ!」


 海里のあまりに汚い言葉の羅列に、よろめいた雛菊を、紫野がそっと支えた。

 雛菊のために、水面下で妨害してくれていたらしいことへの感謝は絶大だが、いかんせんショックが大きい。

 さっきまで天使のように思っていた弟の、普段からは想像のつかないあまりの豹変ぶりに、心が受け入れきれずに何も言葉が出てこない。

 聞くに耐えない罵声が延々と垂れ流されて、紫野が無言でスピーカーを解除した。

 急に静けさを取り戻したことで、絶句していた雄一郎が気を取り直して弁明を始めた。


「俺はストーカーじゃない、雛。信じてくれ。大体雛も、結婚には乗り気だったじゃないか。一緒にウェディングドレスを選んだし、指輪も――」


 そこで、雛菊の左手の薬指に婚約指輪がないことに気づいたらしい。

 目を見張る雄一郎へと、雛菊はありのままの真実を告げた。


「婚約指輪は、……売りました」


 それを元手に、海里と高級レストランでディナーをして、一晩で使いきったことは、さすがに言うのは憚られた。


「……売った?」


「売ったお金なら返します。これできれいさっぱり、お別れにしてください。私は、結婚なんてしません」


 雛菊は強がってはみたものの、引っ張り出して来た財布にはなけなしの三千円しか入っておらず狼狽した。

 すると紫野がカウンターの引き出しから、昨日見たばかりの茶封筒を取り出して雛菊へと手渡した。


「あの、これは……?」


「いくらかわからないけど、婚約指輪なんてそう高くは売れないだろうから、それで足りると思う。使っていいよ」


 封筒の中を確認すると、数万数千円と中途半端な小銭が納められていた。

 これは確かちなみが紫野へと渡していたものだ。

 彼女は、お金を渡しに来たということだろうか。

 なぜ、と考えて、思い当たる節が一つだけあった。


(小麦の、治療費と入院費……)


 きっと元の飼い主がそれらを払ったから、紫野がすでに払っていた分を返却しに来たのだ。

 彼らはあの時、雛菊に小麦のことを持ち出して悲しみを思い出させないようにと、二人して気を遣ってくれていたのだと知った。

 それなのに、一人嫉妬していたことが恥ずかしくなった


「これで雛ちゃんからは手を引いてください。それと、これうちに以上居座るようなら警察に連絡することになりますが」


 ここがお店であり、営業妨害だと言われたら分が悪いと判断したのか、彼は、「また来る」と言い残して、後ろ髪引かれた様子で帰っていった。……茶封筒は、受け取らずに。


 嵐の去った静けさの店内に、梓が「もう終わった?」と訊きながら顔を覗かせた。

 ドアの向こうから、密かに様子を見ていたらしい。

 彼はカウンターの陰にいたほたると撫子を手招きして二階へと静かに連れ出した。

 気を遣い、紫野と二人きりで話し合う時間を作ってくれたようだ。

 雛菊は改めて、丁寧に頭を下げた。


「あの、すみません。まさか、こんなことになるとは夢にも……」


「いいよ、そんなことは。でも、これで諦めてくれるといいけど……あれでは、無理かな」


 一旦は引いてくれたが、きっとまた来るだろう。

 雛菊が何度となく別れ話をしたのに、聞き入れてくれなかった時のように。

 紫野は繋がったままだった携帯電話の通話を、ぶつりと切った。まだかすかに海里の声がしていたが、容赦なく。


「そういえば、何で海里と電話を?」


「ああ。彼ね。前々から、雛ちゃんに何かあったら伝えるようにしつこく、それはもう耳にタコができるくらいしつこく、頼まれていたからだよ」


 しつこくがやたら強調されていて、申し訳ない気持ちになった。


「それは、すみません。……海里と知り合いだったんですか?」


「ううん。会ったことはないよ。雛ちゃんがうちで働くことになった時に、わざわざ連絡をくれて。うちの姉はストーカーに狙われているから目の届くところで働かせるつもりだったんだと、これまでのことを懇切丁寧に説明をされて、うちの店に迷惑をかけかねないからと、バイト採用の取り消しを相談された」


(海里は、そんなことまで……。知らなかった……)


「だからね、その後、雛ちゃんにちょっと意地悪を言って試したんだよね。一応彼の顔も立てないといけなかったし。だけど雛ちゃん嫌煙するどころか、むしろやる気を出しちゃったから、ますます手放せなくなった」


 初めて夕食に招かれた日の、帰り道でのことだとすぐに思い至った。

 知らず知らずの内に紫野と海里が繋がっていて、試されていたとは。

 どことなく買いかぶられている気がしていたたまれないが。


「じゃあ、毎日送ってくれたのは、彼を警戒して?」


「半分はね」


 紫野は黒い微笑みを浮かべた。

 残りの半分は何なのだろうか。


「……本当にすみません。何も知らなくて。それに、紫野さんには婚約者がいるのに、毎日送ってもらったり、お家にお世話になったり、申し訳ない限りで……」


「それ、さっきも彼が言ってたけど、何の話?……婚約者って?」


「隠さなくてもいいです。ちなみさんと、結婚するんですよね?」


「………………は?」


 紫野はこれまでに見たことのない、鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔で、雛菊を見下ろした。


「ちなみさんが婚約者じゃないんですか?……別の人?」


「ちょ、ちょっと待って。一旦整理させて。……ちなが婚約者?それは無理だし、ありえないよ。彼女はすでに人妻だから」


「ひ、人妻!?」


「楠先生の奥さんだって、言ってなかったっけ?」


「く、くす、楠先生の!?」


 驚愕の真実だ。

 しかし楠とちなみは、確かに年の差はかなりあっても、二人並ぶとどこかしっくりくる。

 それがまさか夫婦が醸し出していた雰囲気だったとは。


「でも、ちなみさんのネームプレートが『安城』って」


「たぶん面倒くさいから旧姓のまま直してないだけだよ」


「じゃ、じゃあ、紫野さんは誰と結婚を考えていたんですか?」


 てっきりちなみだと思い込んでいたのに、他に誰かいただろうか。

 誰であっても喜べはしないにしても、聞いておかないと。

 紫野は黒々……というよりも、毒々としたオーラをまといながら呟いた。


「まさか伝わってなかったとは……ね」


「……?」


「雛ちゃんの鈍感を、甘く見てた。見すぎていた」


 鈍感と言われて少し項垂れていると、唐突に紫野が距離を詰めてきた。

 雛菊は両手で頰を包まれて、ぐいっと引き寄せられる。

 狼のような目が、逃げることも、逸らすことさえも許さない。

 わずかに傾がれた顔の近さに、心臓がばくんと跳ねた。


(な、にを……)


 長いまつげがゆっくりと伏せられる。

 吐息が触れて、唇が掠めかけたその時――――雛菊は背後から思い切り両肩を引っ張られて仰け反った。

 紫野との距離が開く。

 その彼が、目を見張って雛菊の背後を見つめていた。


「はい。そこまで。――――残念でした」


(こ、この声は……!)


「か、海里!?」


 慌てて振り向くと、スーツ姿の海里がシニカルな笑みを浮かべてそこに立っていた。


「そ。……ねぇちゃん、会いたかった?」


「うん!会いたかった!」


 紫野に詰め寄られていたことが一気に吹き飛んでしまった。

 海里が腕を開いたので、雛菊は飛び込んだ。

 そうすると、背中をとんとんと撫でてくれる。


(久しぶりの海里だ……!)


 しかもいつもよりも優しい。


「ねぇちゃん怖かっただろ?だから男は信用したらだめだって言ったんだよ。……すぐに弱みに付け込んでくるから」


 最後の台詞はなぜか、紫野に聞かせるように言ったように聞こえた。


「君が弟、ね。……想像通りで」


「あなたが店長ですか。いつもうちの姉がお世話になっております。……色々と」


 初対面だからか、二人の挨拶があまりにも不穏で淀んでいたので、雛菊は海里の腕から抜け出し会話に割り入った。


「この子が私の弟の海里です。それで、こちらが、このお店の店長の紫野さん。……あ、でも、電話では話したことがあったんでしたね」


 ならば紹介は不要だったかもしれない。余計なことをしただろうか。

 雛菊は、ちらっと彼らの様子を窺った。

 紫野は鉄壁の営業スマイルを浮かべ、対抗するかのように海里が優等生のような笑みを見せている。


「ところでもう、営業は終了してますよね?姉は大変怖い思いをしたと思うので、帰らせてもらって構いませんよね?」


「家に帰るのは危険では?これまでのようにうちに泊まってもらっても結構ですよ?」


「いえいえ、これは西奈家の問題なので、よそ様のお手を煩わせるわけにはいきません。……だよね、ねぇちゃん」


「え?う、うん」


「遠慮なさることありませんよ。雛ちゃんはもう家族のようなものですから。うちの弟たちや愛犬たちも懐いていて、今さら離れるのは寂しいと言っているので。ね?」


「わんっ!」


 撫子が肯定するかのように返事をして、雛菊は感極まった。


(撫子に家族だと認められた!)


 撫子に抱きつくと、海里が低い声で何かを呟いた。


「犬で釣りやがって。コマンド出してたの、見えてたからな……」


「何のことかな?……ああ、雛ちゃんは好きなだけもふもふしてていいよ」


「……!」


「くっ……!ねぇちゃん、うちでも犬飼おう!」


 撫子をもふもふする雛菊を羨ましく思ったのか、海里が力強くそう宣言した。


「海里も撫子触りたかったの?……紫野さん、いいですよね?」


 訊くと紫野は鷹揚に頷いた。


「うん。もちろん。撫子の可愛さに溺れてくれたら、もっといい」


 雛菊は場所を譲った。すると撫子は、純粋無垢な眼差しで海里をまっすぐ見上げた。


「うっ……」


 海里はあっという間に撫子に籠絡された。

 スーツに毛がつくのも気にせず、悔しそうにもふもふしている。


「卑怯だ。こんなもふもふで……!」


 にこにこしている紫野を睨みあげながらも、撫子の首に抱きついている海里は、子供のようでちょっと可愛い。


「撫子。あの狼から……を守れるのは、おまえだけだ」


 海里は撫子と、何やら密談し始めた。

 撫子はぴこりと耳を動かして、海里の話を聞いている。


「残念だけど、撫子は僕の言うことを優先するから」


 海里が撫子の虜になりつつあったので、紫野が自分の愛犬であることを主張した。


「……シェパードの雄を、飼おっかな」


 海里がぼそりと呟き、それを耳にした紫野が戦慄した。


「も、もしかして……、撫子を誘惑する気じゃ……?」


「それで、若くて元気で性格もいい、イケメンな雄にしよう」


 海里は撫子のお婿さん候補を自ら育てる気だ。


(そこまでして撫子を手に入れようと……?)


 雛菊には到底思いつかないようなアイディアだった。

 撫子を奪われかけている紫野の顔が、珍しく悲愴なことになっている。


「まぁ、冗談はこのくらいにして。――――ねぇちゃん。予想以上に早かったけど、あいつに居場所がバレたんだから、また移動しないとね」


「えっ」


 海里は撫子に顔を埋めてにこりとして言った。


「今度はもっと、遠くに引っ越さないと」



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