19
――――彼が結婚してしまう。
失恋に重ねて、バイトまでも追い出されてしまうかもしれない。
人として最低なことを言ってしまった手前、雛菊は仕事の用件以外は自ら話しかけることはおろか、目を合わすことすらできずにいた。
トリミング室に籠りきりの紫野は、仕事をしている時以外のふとした拍子に、複雑な表情でため息をつく。
もう一度謝ろうと思っても、なかなか行動へと移せなかった。
ホテル犬たちの散歩のひとときが、雛菊の唯一心の休まる時間だ。
全員の散歩を終えると、あがっていいと言われたので、許可を得てから撫子の散歩に乗り出した。
今日は午後にカット犬が集中していたので紫野は忙しく、梓も帰りが遅そうだったからだ。
わたあめの散歩を終えたほたると入れ違いで、雛菊は撫子を連れ出した。
撫子独自の散歩ルートを回っていると、向こうから、紫野に次いで現在二番目に会いたくなかった人物が、真っ白なむっくむくの大型犬と歩いて来るのが見えた。
(あれは確か……グレートピレニーズだ)
そのリードを握っているのは、私服姿のちなみ。
今さら逃げるのも不自然なので、会釈してすれ違おうと思っていたのに、お尻の匂いを嗅いで挨拶を始めた犬たちによって、その場へと縫いとめられてしまった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「撫子も、こんにちは」
ちなみが撫子へと笑いかける。
撫子も嬉しそうにしっぽを大きく振った。
雛菊が来るずっと前からの仲が窺えた。
何か会話を……、と、雛菊はちなみの傍に寄り添うグレートピレニーズについておずおずと尋ねてみることにした。
「……そ、その子は?」
「うちの子ですよ。総次郎です」
(し、渋い……)
総次郎は優しい眼差しでこちらを見つめてくる。
頭を撫でようとした時、総次郎の背中に添えられたちなみが薬指にキラリと光るものがあることに気がつき、中途半端な体勢で固まってしまった。
あの輝きは……ダイヤだろうか。
あまりにも凝視していたからか、ちなみが左手を見下ろし、「ああ」と合点がいったように頷いた。
「仕事中はつけていないので。外出時は男避けにつけていかないと、あの人不満らしくて」
少し面倒そうな口調だけれど、それは照れ隠しのようだった。
彼女は愛しげに指輪を眺めてから、それを誤魔化すように総次郎を撫でる。
失礼にならない程度に会話の相槌を打って、別れた時にはもう、何を話したかも曖昧になっていた。
並んで歩く撫子が度々、大丈夫?と顔を上げてくる。
「……公園に寄っていこうか?」
「わんっ!」
撫子が激しく賛成してくれたので、鬱々した気分を一掃するために、雛菊は無我夢中で走った。
ぜぇはぁしながら公園へと到着すると、へなへなの足腰でベンチへと沈んだ。
いつまでも若いつもりで調子に乗りすぎた。
撫子はまだまだ余裕綽々そうなのに、人間は何て脆弱な生き物なのだろう。
自分のペースで走れたらよかったのだが、撫子の脚力に引きずられるのは相変わらずだった。
敷き詰められた落ち葉の絨毯を、撫子がかさかさ楽しげに踏みしめているのを眺めながら呼吸を整えていると、唐突にスマホが振動した。
発信者は――――海里。
怒らせたままだった弟からの着信に、雛菊は喜色を浮かべてそれを取った。
「海里!」
「ねぇちゃん!大丈夫か!?」
切羽詰まった海里の様子に気圧されて「え?」としか出てこなかった。
海里の声に重ねて、ばたばたと慌ただしい雑音が聞こえてくる。
「何も起きてない!?」
「何もって、何が?」
問い返すと、海里は自分を落ち着かせるように小さく息をついた。
「とりあえず、今からそっちに行くから」
「え?今から来るの?」
「あのクズに居場所がっ……、いや、何でもない」
「……?」
「いいか、ねぇちゃん。よく聞いて。俺が行くまで、絶対に一人になるなよ」
「え、うん。何で?……海里?」
状況が飲み込めないまま、通話を切られてしまった。
海里が一人になるなというのだから、理由はどうあれ誰かといるべきなのだろう。
(今は撫子といるから、いいかな?)
舞い散る木の葉の一枚をぱくんっとキャッチした撫子を手放しで褒めながら休憩していると、かさりと落ち葉を踏みしめる音がして顔を上げた。
そこには場違いな、色鮮やかな薔薇の花束。
それを腕に抱える男性をさらに見上げて、雛菊は息を呑んだ。
ダークグレイの皺一つないスーツを着た長身の男性が、雛菊の前までゆったりと歩いてくる。
ノンフレームの眼鏡の奥から雛菊を見つめる眼差しは、あの頃よりもさらに熱を帯びていた。
抱き締められた時の、彼の香水の匂いが記憶の底から濃厚に漂ってきて、無意識に気持ちが過去に引っ張られそうになった。
撫子が彼を見据えて、喉の奥で唸りをあげ、雛菊はようやく我に返って言葉を口にした。
「何で、ここに……」
彼――――雛菊の元恋人である藤代雄一郎は、白い歯のこぼれる笑みで、告げた。
「探したぞ、雛。もう障害はない。――――結婚しよう」
それは彼の口から、何度となく聞いた言葉だった。
そのせいで雛菊がどんな目にあったのか、彼にはきっと、一生わからないのだろう。
唇を噛み締めて俯いていると、公園の脇に停めてあった車に乗るように促された。
雄一郎は撫子をちらっとだけ見てから雛菊の飼い犬だと思ったのか、後部座席へと一緒に乗るよう言った。
意思の疎通が中途半端な状態で逃げた負い目もあり、雛菊はきちんと話をするために指示に従った。
撫子は車に乗りなれているのか、素直に言うことを聞いてくれる。
車が動き出し、もふもふ堂のある方角から遠ざかると、急に心許なくなってきた。
しかし傍には撫子がいるので、寂しくはない。
「雛。俺に言うことはないのか?」
「……言うこと?」
「勝手にいなくなって、どれだけ心配したと思ってる?慰謝料のことだってそうだ。俺に何の相談もせずに勝手に払って、そのまま消えて」
相談する暇なく書類にサインさせられたのに。
それに、たとえ猶予があったとしても、きっと彼ではなく海里に頼っていた。
無条件で信用できる、実の弟に。
撫子は座席に伏せた状態で、雛菊へと頭を寄せて来る。
撫子と目で会話していると、彼は自分が責めたことで雛菊が沈黙してしまったと思ったのか、優しい声音で囁いてきた。
「怒っている訳じゃないからな?こうしてまた出会えた訳だ。俺たちは結ばれる運命なんだよ」
………何と返せばいいのだろうか。
もうとっくの昔に終わっているのに、また別れて欲しいと言うのもおかしい気がする。
だから雛菊は素直に自分の気持ちを口にした。
「ごめんなさい。私、今好きな人が――」
言い切る前に、車が急ブレーキをかけて停車した。
咄嗟に撫子は庇えたが、雛菊は前の座席に頭をぶつせた。
体勢を直して一呼吸してから景色へと目を向けると、そこはよく知る、雛菊のアパートの前だった。
「君の家でゆっくりと話をしよう」
声とは裏腹に、その笑っていない目に身震いをした雛菊は、付き合っていた頃のように従順に従うことにした。
車を降りると、彼はすぐに肩へと手を回してきた。
前はそれだけでどきどきしていたのに、今は嫌でたまらない。
彼といると、自分が最低な人間であることを突きつけられているようで、世間に顔向けできないような後ろめたい気持ちになる。
それに、――――比べてしまう。
あのひび割れた、優しい手のひらと。
「雛。鍵」
ぼんやりとしていた雛菊は、慌てて鍵を取り出し、自宅のドアを開いた。
ここのところ佐千原家に入り浸っていたせいか、自分の家なはずなのに、他人の家に訪れたような妙な居心地の悪さを感じた。
雄一郎が我が家のように気負いなく入っていき、雛菊と撫子が後に続く。
撫子は一度このアパートに訪れたことがあったものの、この部屋の中に入るのは初めてだからか、しっぽを下げて部屋の匂いを嗅いで回った。
リードを外して自由にしてみたが、それでも警戒して雛菊の近くを離れなかった。
「……何にもないな」
「まだ引っ越してきたばかりだから……」
彼はテーブルに花束を無造作に置くと、スーツの上着を脱ぎ椅子の背へとかけて座った。
撫子には水を、彼にはインスタントのコーヒーを淹れてから、雛菊は腰を下ろした。
水を飲み終えた撫子は、雛菊の足元で伏せて待機している。
紫野が心配するといけないので、早めに話を終わらせたい。
そう思っていると、彼が話を切り出した。
「それで、だ。さっき車の中で言おうとしたことは、聞かなかったことにしておく。俺も前科があるしな」
それと一緒にして欲しくはなかった。
「雛は人のものだと燃えるのか?そうじゃないよな?雛の働くペットショッ――」
「ペットサロン」
「……どっちでもいいだろ、そんなことは。雛が好きだなんて錯覚してるのは、そこの店長のことだろう?変わった仕事をしてるから、珍しかっただけじゃないのか?それを恋と誤解しているだけだよ」
「そんなことな――」
「それにその男。もうすぐ、結婚するらしいじゃないか」
雛菊は息を呑んだ。
なぜそんなことを知っているのだろう。
思えば勤め先やこのアパートに住んでいることも、彼はどうやって知り得たのだろうか。
「親切な人が教えてくれたんだよ」
雛菊の疑問にそう答えた雄一郎は、煙草を取り出し、灰皿がないことに眉を寄せたが、コーヒーカップを退けてソーサーへと灰を落とすことにしたらしい。
白いソーサーが、みるみる灰で汚されていく。
(ソーサーが一つ、だめになった……)
百円ショップだとしても、もったいない。
室内に煙が漂い、撫子が煙たそうな顔をしたので、慌てて換気窓を開けて、換気扇も回した。
煙草の匂いは部屋に染み付いてしまうし、臭いだけだ。
雛菊のその反応が気に入らなかったのか、彼の不機嫌さが増していく。
「既婚者がよかったのか?」
俯いていた雛菊だったが、そこにははっきりと首を振る。
「だよな。だからこうして離婚して迎えにきたんじゃないか。本当はすぐにでも雛を連れ戻したかったのに……、あいつが邪魔しやがって……」
雄一郎は憎らしげに、煙草の吸殻をソーサーへと揉み潰した。
「……あいつ?」
「……やっぱり、何も知らないのか。あいつがずっと、雛の居場所を隠してたんだよ。――――雛の弟が」
「か、海里が……?」
隠してたとはどういうことなのだろうか。
確かに海里の家に居候してはいたが、閉じこもってばかりいたわけではない。スーパーに買い物に行ったり、たまに海里に誘われ外食したりと、頻度は少ないにしても普通に外出はしていた。
「あの異常なシスコンのせいで、雛に一目会うことさえ叶わなかった。三ヶ月もかけてようやくあいつの家を見つけたと思えば、もう雛だけどこかに隠して知らぬ存ぜぬ。……可哀想に、雛はあの弟に操られてるんだよ」
切なげな声で訴えかけてくるのに、雛菊の心には響かなかった。
海里がシスコンだなんて、どこを見て判断しているのだろうか。
「海里はそんな子じゃありません。あの子が本当にそういう行動を起こしていたとするなら、きっと何か意味があってのことです。初めから嘘をついていたあなたよりも、私は海里を信じます。―――――もう帰ってください。これ以上、大事な弟を侮辱しないで」
「どこまで洗脳されてるんだ!目を覚ませよ!俺たちを別れさせたのも、あいつだっただろう!」
それは言いがかりだ。海里は事実を調査したにすぎず、それを聞かされた雛菊が怖気づいて逃げ出しただけだ。
きっかけにはなったかもしれないが、それは責任転嫁というものだった。
「出て行ってください」
すげなく言い放った雛菊に、雄一郎は苛立ちを抑えるように深々とため息をついた。
「……案外頑固なんだよな、雛は。前も、部屋にさえ入れてくれなかったし」
「それは……」
「付き合ってるのに、キスしかさせてくれなかったよな?」
雄一郎がおもむろに立ち上がると、小さなテーブルをあっという間に回ってきて、雛菊の顎を捉えると無理やり顔を上げさせた。
足元で大人しくしていた撫子が、不穏な気配を感じ取ったのか、「ぐるる……」と唸る。
一歩でも動けば噛みつく!と脅すように、白い犬歯を見せた。
「…………だから畜生は嫌いだ」
ぼそっと呟いた彼の言葉に、雛菊は愕然とした。
撫子を普通に車に乗せたので、犬は好きなのかと思っていた。
「ほら、あっちに行け!」
そんな指示に従うはずもなく、撫子は雄一郎に飛びかからんばかりの姿勢で構えている。
「わんっ!わんわんわんわんっ!」
撫子が吠えると、彼はあからさまに顔をしかめた。
雛菊の顎から手を離し、テーブルにあった花束を掴み、振り上げた。
「やめてっ!!」
雛菊が叫ぶと、さすがにやりすぎだと反省したのか、雄一郎の腕は宙で停止した。
それでも忌々しそうに撫子を見下ろしている。
(撫子を避難させないと……!)
雛菊はリードを手にすると、手早く首輪につけた。
椅子を倒す勢いで立ち上がり、そのまま後ろを振り返りもせず、撫子とともに外へと飛び出した。




