閑話。
帰宅すると、兄がソファで死んでいた。
ほたるは慌てず騒がずリビングに入りかけていた身体を引き、スリッパの滑りを上手く利用して踵を返す。そしてそのまま流れるような忍び足で三階へと上って、梓の部屋へと音を立てずに飛び込んだ。
梓はわたあめと一緒に三階に潜んでおり、避難してきたほたるを一瞥すると、寝転がっていたベッドから身を起こした。
「何、あれ!?ダークサイドに堕ちるならまだわかるけど、お兄さんが梓みたいにソファで倒れてるところを見たの、初めてだよ!」
「兄貴だってソファで寝ることぐらいある。……あれは、死んでたけど」
やっぱり死んでたらしい。
ほたるはカーペットに正座して、梓の話を聞く体勢に入った。
「どういうこと?」
仲直りしていちゃいちゃしてたはずが、なぜこんなことになっているのか、さっぱりわからない。
「俺も帰ってきたら、ああだったからわからない」
「あ、お姉さんは?」
それを尋ねると、梓は手を額に当ててひどく複雑そうな面持ちで答えた。
「……なぜか、ペットホテルの犬たちと一緒に犬舎に立て籠ってた」
「何で!?」
兄が好きになるくらいだから、変わった人だとは思っていたけれど。
「ホテル覗いて、本気で心臓が止まりかけた。幽霊を見た時って、言葉も出ないんだな……」
幽霊じみていた未来の姉の姿を想像して、ほたるは身震いをした。
「いい加減まとまると思ってたのに、また拗れたんだよね?何が原因だろう……。わたあめ知ってる?」
わたあめは、とたとた肉球をちら見せさせながら歩き回り、かと思えば今度はごろごろ転がった。
つまり、一人楽しく遊んでいる。
がっくりと肩を落とすと、梓は怪訝そうに問いかけてきた。
「毎回わたあめに訊く意味はあるのか?」
ほたるはわたあめを抱っこして、不粋な梓へと前肢をびしりと突きつけた。
「笑止!全ての物事に理由などない!」
梓がドン引きした顔で、わたあめを連れ去った。
「あー……」
「わたあめをどんなキャラに設定してるんだ」
それはそのつど異なるので、断言できない。
今のところ出現頻度が多いのは、ほたる名探偵のやる気のない助手、わたあめくんだ。
「……わたあめのキャラはいいから、今はお兄さんだよ。どうするの?また夕飯問題が生じるよ?」
「いや、夕飯問題は解消済みだ。昼間の内に仕込みされて味の染みたおでんがあるから、後は火にかけるだけだって犬舎から聞こえてきたから」
「鳥肌よりも、よだれが出そう」
「ご飯は、タイマーでセットしてあるらしい」
つまり夕飯には何ら問題はないということだった。
気が利く彼女をこのまま囲いきれずに手放す結果になれば、一生後悔する。主にご飯面で。
(そうなったら、夕飯問題が永遠に継続されるわけで……)
「死活問題だっ!!」
「わ!?びっくりした、急に叫ぶなよ……」
わたあめも、目をまんまるにさせてぱちくりとしている。
「ごめんなさい……」
「騒ぐと兄貴に聞こえるから。……こっちに来られたら、それこそ対処に困る」
「そうだけど……。昨日まで仲良く一緒のベッドで寝てたのにね。今日はどうなるのかな……」
「普通に親父たちの部屋を貸せばいいんじゃないか?」
梓がさらっと言い、ほたるは何を言われたのかわからず、耳に手を添え聞き返した。
「え?」
「いや、だから。うちの親父と母さんの部屋が、そっくりそのまま空いてるだろ?」
「あ!」
梓に言われるまで、すっかりと失念していた。
ほたるがこの家に来たときには、もう紫野と梓の兄弟二人暮らしになっていたので、思いつきもしなかった。――――ダブルベッドが、二つも余っていることに。
「お兄さん、策士……!」
「策に溺れたな」
「笑止!」
「……さすがにそれは、可哀想」
「お兄さん、ごめんなさい。籠城中のお姉さんを引きずり出してくるから、許してください」
「どうやって引きずり出す?」
「わたあめで釣る」
「……確かに、釣れるな」
わたあめを装備し、店へと出撃していくほたるの後に梓も続く。
二人で階段を下りてリビングを通りすぎかけて、「うん?」と揃って足を止めた。
一旦壁に身を隠してから、そっと中の様子を窺う。
ソファで寝てしまったのか、規則正しく息をする紫野へと、雛菊がブランケットをかけていた。
彼女はしばらくじっと寝顔を見つめてから、エプロンをつけ始めたので、夕食の支度に取りかかるのだろう。
ほたると梓は、ひとまず部屋へと引き揚げた。
「これって、あれかな?怪我の功名?」
「意識のない時にやられても、誰の親切かわからないだろ。名前が書かれてるわけでもないし」
「うーん、だけど何か、余計な心配しなくてもよさそうな気がする。お姉さんもお兄さんのことを、少なからず想ってそうだったよね?」
寝顔を眺めながら、何を考えていたのかは、推測するしかないにしても。
それでもきっと、風邪を引かないようにという心遣いをするくらいには、好意を持っているのだろう。
「だったらお互い空回りしてるだけか」
「じゃあすぐくっつく?」
「……まだ一波乱ぐらいはありそうだけど」
梓の予想が当たらないように、ほたるはわたあめの前肢を合わせて、ハッピーエンドをもふもふの神様へと祈った。




