18
撫子とわたあめに囲まれ幸せな定休日を過ごした翌日のことだった。
「はい、いつもお世話になっております。もふもふ堂です」
雛菊は午後にかかってきた電話をいつものように丁寧に受けると、質問が返ってきた。
常連客ではなさそうな男性の声だ。
「おたくは、ペットサロン?」
新規のお客様だろうか。
「はい。ご予約ですか?」
「予約っていうか……あんた、名前は?」
「申し遅れてすみません。西奈です」
「西奈……何さん?」
下の名前まで聞かれることは初めてだったので、戸惑いながら雛菊だと答えた。
「西奈、雛菊……。同姓同名ではなさそう……か」
相手は独り言めいた呟きをもらした。
確かに、同姓同名は今のところ出会ったことがない。
しかし世間話をしていると先へ進まないので、雛菊から切り出した。
「ご用件をお伺いしたいのですが……」
「や、また今度にするわ」
そのままぶつりと通話が切られて、雛菊はぽかんとしたまま受話器を眺めた。
何か対応を間違えただろうか。
怒っている雰囲気ではなさそうだったが、それは雛菊の主観なので、本当のところはどうかわからない。
受話器を置いてから、一応トリミング室にいる紫野を窺った。
しかし、スタンダード・プードルと真剣に向き合っているので逡巡し、意見を聞くのは後回しにすることにした。
邪魔すると、容赦なく睨まれる。
彼の地雷ポイントは大体掴んでいるので、今がその時であると直感で感じ取った。
緊急性の低い問題なので、彼の手が空いた時に話せばいい。
また、と言ったので、また今度かけてくるかもしれない。
そう思っていると、ふいに外から視線を向けられている気がして、雛菊はドアを開けて店の前の道路へと出てみた。が、特に変わったことはない。
だが一瞬、風に乗ってバニラの鳴き声が聞こえた気がした。
しかし確証はなく、薄曇りの空を仰いで、雛菊はため息を一つついた。
外に出たついでなので、駐車場側に干されていたタオルを回収して腕へと抱えた。
紅葉した街路樹が木枯らしに吹きつけられて、はらはらと葉を散らす光景をしみじみと眺めていると、トリミング室から殺気が放たれた。
慌てて店内へと駆け込むと、よろしいとばかりに紫野は雛菊へと目を細めて、カットを再開した。
「紫野さん地雷ポイント……」
タオルをしまい、仕事中にたそがれるな!と、すかさずメモしておいた。
それから謝罪のためにトリミング室へと素早く身体を滑り込ませた。
「申し訳ありません」
紫野は鋏を止めて、コームで背中の被毛をしっぽの方から順に逆立てながら、雛菊へとシャンプーとリンスの補充を指示した。
コームを置き、またシャキシャキと鋏が動き始める。
カット中は特に私語を嫌うので、雛菊は浴槽の上部にある棚に並べられたボトルの中で、中身が少なくなっているものだけを浴槽の底へと並べた。
各種シャンプー・リンスの原液と、ボトルを間違えないように注意しながら、水で希釈して補充を完了させた。
今日は大型犬がいるから、シャンプーとリンスの減りが早い。
低刺激用のシャンプーも少なめだったので、一応足しておいた。
原液と水がよく混ざるようにリンスをしゃばしゃば振っていると、電話が鳴り響いたので近くに置かれた子機を取った。
「はい。いつもお世話になっております。もふもふ堂です」
「…………」
相手が話し出すのを気長に待ってみたが、なぜか沈黙が続く。
(無言電話……?)
「すみません、もしもし?聞こえていますか?」
「…………けた」
耳を澄ませると、かすかな呟きが聞こえた気がした。
「もしもし?」
聞き返すも、結局その後は何も言うことなく、通話はぷつりと切れてしまった。
子機をじっと見つめていると、紫野が訝しげに尋ねてきた。
「……誰だった?」
「いえ、それが――」
言おうとした時、入り口のドアが開いて予約のお客様が来店した。
「後でいいから行って」と紫野に言われて、雛菊は胸がもやもやとする奇妙な心地悪さのまま、笑顔を心がけて受付へと向かっていった。
「無言電話?」
それを報告したのは、本日最後の一匹をお客様へと引き渡した後でのことだった。
「何も言わないで切られてしまって。悪戯でしょうか?」
「無言電話か……」
紫野は悩むように眉を顰めている。
心当たりでもあるのだろうか。
「昔からない訳ではなかったから。だだそれが、店に対してなのか……僕か、もしくは――」
雛菊はちらっと見遣られて、肩を竦めた。
彼に好意を寄せる女性からの、雛菊に向けての警告かもしれない。
あれから顔を見せなくなった結華。
紫野のことはもう、諦めたのだろうか。
紫野はあれでよかったような物言いであったが、彼女のプライドを傷つけたことに違いはない。
しかしかすかに聞こえた声は、女性のものではなかった気がするのだ。
(そういえば……)
「無言電話の前に、男性の方から電話がありました。予約もせず、私の名前だけ訊いて切ってしまわれて……」
紫野は訝るように眉を寄せたが、それでも雛菊を安心させる優しげな微笑みへとすぐに転じさせた。
「雛ちゃんは何も気にしないくていいから」
そう言って浮かない顔をする雛菊の肩を優しく叩く。
紫野の心遣いへそっと笑みを返すと、羽を抱くように軽く肩を引き寄せられた。
動作が緩慢だったせいかタイミングを見誤り、逃れる機会を失った。
今さら押し返すのも失礼だし、かといって彼へと腕を回すのもおかしい気がする。
そんな勇気はないにしても、突っ立っていることが、今の雛菊にできる精々だった。
彼が耳朶に唇を寄せて、何か言葉を紡ごうとしたその時、大きく扉が開かれ、姿を現したのは意外なことに、楠動物病院の看護師のちなみだった。
彼女ともふもふ堂で顔を合わせるのは初めてだ。
ちなみという来訪者に、雛菊は慌てて紫野を押し退けた。
彼は不服そうに彼女を一瞥する。
「営業時間は終了しましたが?」
「だからこの時間に来たんだけど?……まぁ、正解だったかしら、ね」
彼女は不快そうに眉を顰め、ちらっと雛菊を見遣った。
もしかしたら、今の光景を目にして、誤解を与えてしまったのかもしれない。
(まさか、紫野さんのことを……?)
「……それで、用件は?」
ちなみは肩からかけた鞄から茶封筒を抜き取ると、紫野の方へと突きつけた。
何も説明がなくても彼はそれが何かわかったのか、「ああ、あれか……」と言って受け取った。
そして二人して、気まずげに雛菊をちらりと見る。
彼らがこれからする話は、他人には聞かれたくない類のものだと瞬時に悟った。
「わ、私、お先に失礼します」
頭を下げると、紫野はちなみに目配せしてから、
「ああ、うん。もうあがっていいよ」
とにこやかに言った。
二人きりで話し合いたいという雰囲気は顕著であり、厄介払いされたことに対して、思ったよりもとショックを受けながら雛菊は二階へと上がった。
二人はおそらくずっと前からの知り合いなのだから、目だけで意思の疎通ができてもおかしくはない。
これまでも、お互い飾らずに素の自分をさらけ出していたし、特別な関係であることは明白だった。
紫野のことを変態だとかしつこいだとか言っていたが、あれはもしかして牽制だったのだろうか。
(昔付き合ってたんじゃなくて、今も付き合ってるとか……)
ただの憶測なのに、胸の奥がずくりと疼いた。
(そうだったら……嫌だ、な……)
ちなみ相手に、勝ち目なんてない。
彼と同じ道を進む彼女の、きっと足元にも及ばない。
何を話しているかがどうにも気になって、マナー違反だとわかっていても、ドアに耳を当てて盗み聞きをしようと階段を引き返しかけた雛菊を、タイミングよく現れた撫子が咎めた。
服の裾をぱくんと食まれ、リビングへと引き摺られる。
撫子はくわえていた服を離すと、今度は手のひらをぺろぺろと舐めてきた。
甘えられているようで顔がほころぶ。
仕事が終わるまで大人しく待っていたのだから、遊んで欲しいのかもしれない。
それとも――――。
「撫子も、寂しいの……?」
紫野に恋人ができたら、撫子も嬉しい反面、心のどこかで切なさが募るのだろう。
雛菊はその場で膝を突いて撫子を抱き締めると、安心させるように背中を撫でた。
「もし……もしだよ?撫子が、紫野さんに見切りをつけたら、……うちに来てもいいからね?」
撫子はふぉんふぉんと大きくしっぽを振ったので、受け入れてくれたと破顔したが、それは大きな間違いだった。
知らぬ間に雛菊の背後に立つ、紫野を見つけての行動だった。
「――――雛ちゃん」
紫野の尋常じゃない低い声に、雛菊はぎくりとして、おそるおそる振り向いた。
瞬間、振り向いたことを後悔した。
鬼だ。笑顔を引きつらせた鬼が、そこにいる。
「撫子を、取る気?」
「め、滅相もない……!」
恐ろしさに腰を抜かして尻餅をつくと、紫野の威圧感がうっすら霧散した。
「大丈夫?」
心配したように屈み込んできたが、さりげなく撫子の肩を抱いて、渡さないよオーラをにじませている。
「と、取りませんから、その盗人を見る目はやめてくださいっ……!」
「……僕から撫子を奪おうなんて言ったのは雛ちゃんが初めてだったからかな、…………感情のやり場が見つからない」
「ごめんなさい。二度と申しません」
正座して己の罪を懺悔していると、撫子がぺろんと頬を舐めてきた。
落ち込んでいると思ったのかもしれない。
「撫子……」
「あげないよ?愛犬だと思ってもいいけど、撫子の一番は僕だからね?」
肯定するように、撫子は紫野の顔をぺろぺろしている。
見ようによっては、怒りを半減させるために彼を宥めてくれているようだ。雛菊はそう、都合のいいように解釈しておいた。
「じゅ、重々承知しております……」
「…………よろしい」
ただでさえ動物が絡むと人が変わるのに、溺愛する撫子を奪おうものなら、この世から抹殺されて野生動物たちの餌にされてしまいそうだ。
「それで、僕の撫子に逃避行を持ちかけた理由は?」
「……つい、出来心で」
「撫子は可愛いから、連れ去りたくなる気持ちはわからなくはないけどね。……そんなに撫子が好き?」
「好きです」
「もう離れられないくらい?」
「離れられないくらいです」
「撫子と離れたくないなら、いい方法があるよ」
くれる気なんてこれっぽっちもないだろうに、紫野は名案を思いついたとばかりに微笑んだ。
「雛ちゃんがうちに、お嫁に来たらいいんじゃない?」
絶句した。直後、ふつふつとした怒りが湧き上がった。
「からかわないでください」
腹の奥から低い声を響かせた。
雛菊の双眸に怒気がこもったことに気づいたのか、紫野が目を見張る。
そんな話を冗談半分にしないで欲しかった。……人の気も知らないで。
「失礼します」
立ち上がると、やや腰の引けた様子の紫野に腕を掴まれて引き止められた。
「どこ行く気?」
「自宅に帰ります」
「それはだめ。何かあってからじゃ――」
「何もありません。失礼します」
彼の腕をほどこうとしたのだが、明確な力の差にびくともせず、残念ながら締まらない結果に終わった。
珍しくむすっとしている雛菊を、彼は一旦ソファまで連れていって座らせた。
「人の話は最後まで聞いて。今は嫌でも、この家にいてもらわないと。……安全が確保されたら、帰ってもいいから」
切実な顔で諭された雛菊は、根負けして渋々頷いた。
不審者が捕まるまでは、確かに一人ではいたくなかったからだ。
一時の感情で彼の善意を無駄にしようとしたのは浅慮すぎた。
ほっと安堵する紫野は、寄ってきた撫子を撫でながら言った。
「よかった。――――それと、……ごめん。そんなに不快だったのなら、さっきの話は忘れて」
悄然とした面持ちで撫子に抱きつく紫野に、怒られて傷つくらいなら、初めから言わなければいいのに、と雛菊は苦言を呈した。
「……あんまり、人に期待を持たせることを口にしない方がいいですよ」
それを粛々と受け取った彼は、それまで俯き加減だったのに、ふと顔を上げた。
「期待、したの?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。
紫野は完全に捕食者の目をしていた。
「期待するってことは、雛ちゃんの気持ちが少しは結婚に傾いたってことだよね?」
「そんなことはっ……」
紫野の顔が近い。雛菊を閉じ込めるようにソファに座る雛菊の膝の横に両手を突き、ぐいっと身を乗り出してくる。
下から見上げられ、その普段と違った表情に、紅潮が止まらない。
「近いですから!」
完全に逃げ腰の雛菊なのだが、背凭れに阻まれ身動きが取れずに、なす術なく腕を突っ張り彼との距離を保った。
「愛人は嫌です!」
「愛犬ならいい?」
「愛犬なら……って、そういう問題じゃなくて!」
足をばたつかせると、床に積んであった雑誌の束に軽くぶつかった。
山は崩れなかったが、ずれた動物雑誌の隙間から、雛菊でも知っているような有名な結婚情報誌の端が覗いた。
(え……、これは……?)
梓やほたるが結婚を考えているとは考えにくい。
ならばこれは紫野が買ったことになる。
男性がこれを買うぐらいならば、かなり話が進んでいてもおかしくないのではないか。
(紫野さんが……結婚……?)
雛菊の脳裏に浮かんだのは、やはりちなみの姿だった。
さっきの封筒の中身はもしかして……。
思案に耽っていた雛菊が視線を落として硬直していたからか、紫野がそっと覗き込んできた。
「どうかした?」
顔が青ざめていそうで、見られたくなくて咄嗟に目を逸らした。
なのに紫野は逃してはくれずに、頤を掴まれて目を合わさせられる。
感情で輝きを変える綺麗な瞳。
今は雛菊の好きな、優しい瞳だ。
それを見ていたらふいに視界が緩み、目尻から生暖かい滴がにじんだ。
慌てて拭おうとした手を取られ、そのまま顔を近づけてきた彼が、目元に唇を寄せて吸い取った。
期待を持たせるような言動で、人を惑わせないで欲しい。
「……ずっと守るから」
(結婚するくせに……)
やっぱりまた、愛人にされてしまうのだろうか。
それとも、犬だと思われて可愛がられているだけのだろうか。
撫子が自分よりも愛されているのは許容できても、他の人は無理だ。嫉妬してしまう。
嫉妬で、どうにかなってしまう。
「ちなみさんとは……」
口にしてしまった瞬間、かっと頬が熱くなった。
聞くつもりなんてなかったのに。
ちなみの名前がここで出てきたことに怪訝そうな紫野だったが、ため息をついてから重たげな口を開いた。
「ちなは、幼馴染み……みたいなものかな」
愛称で呼んでいるなんて、知らなかった。
雛菊の中で、完全に終了の合図が打ち鳴らされた。
幼馴染みでお互いを理解し合い、高め合える関係性の、どこに割り込める要素があるというのだろうか。
嫉妬すること自体、お門違いだった。
「そう、ですか……」
「今は、ちなのことはいいから」
優しい表情をしているが、そのほんのりと不機嫌さを含んだ声音に雛菊は肩を竦めた。
愛人の前で本命の話をしたくないのだろう。
雛菊の視線が、結婚情報誌へと向いているに気づいたのか、紫野が視線を彷徨わせてから、誤魔化すようにこほんと咳払いをした。
少し身体を離して、真摯に見つめてくる。
そして彼は、はっきりとそれを口にした。
「少し前から結婚を考えてる」
爆弾を投下されたほどの衝撃が脳天を貫いた。
決定的な言葉に、雛菊の恋心が脆くも崩れ去った。
「…………そうですか」
何とか絞り出した震えた声は、聞き取れないほど掠れていた。
それでも、彼には伝わったらしい。
ちょっだけ照れ臭そうに、尋ねてきた。
「……嫌、かな?」
正直に言えば嫌に決まっている。
それでも彼が幸せになることに、異を唱えていい人間なんていない。……でも。
「……嫌です」
紫野の表情が凍りついた。それを見て、罪悪感がじわじわと胸を占めた。
「ご、ごめんなさい……!紫野さんはどうか、お幸せになってください!」
うわべだけの祝福した雛菊は、茫然とした紫野の拘束から抜け出し、一目散にリビングから逃走した。




