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17


 そこまで迷惑かけられないと何度も断った雛菊だったが、紫野は柔らかな口調でも頑な引かず、とうとう最後の切り札を使用してきた。


「撫子と一緒に、寝たくない?」


 その一言で雛菊はあっけなく陥落した。

 動物と眠るのはある種の夢であった。

 本来ならば明日叶うはずだったのに、その願いを享受することは、もう二度とない。

 それを撫子で体験させてくれるという甘い誘いに、首を横に振れるはずがなかった。

 下宿はまずいが、お泊まり体験くらいなら許されるのではないか。

 自立し甘えないとさっき決意したばかりなのに、情けなくはあるが。

 求め続けた温もりと癒しが、すぐそこ、目の前にある。

 雛菊は手早くシャワーで身を清めてからお泊まりセットを旅行鞄に纏め、その間に紫野もシャワーで浴びて、意思の弱さに目を背けて佐千原家へと身を寄せることになった。


 紫野とともに旅行鞄を下げて帰宅した雛菊に、リビングで宿題をしていたほたるが、数度目をぱちくりとさせてから、ぽつりと呟いた。


「ついに、最終段階……」


(……?)


 紫野はその言葉の意味を理解しているのか、年長者らしい口ぶりで告げた。


「不審者がいたから、連れて来ただけだよ。ほたるちゃんも夜道は危ないから歩くの禁止。わたあめの散歩は夕方までに」


「えー……」


 ほたるぐらい若くて可愛い子が妹だったら、雛菊もきっと同じことを言っただろう。

 わたあめでは……、残念ながら、番犬にはならなさそうだ。

 撫子ならば、不審者も無理して近寄ろうとはしないだろうが。


「どうしてもの時は、僕か梓を連れていくこと」


 ほたるは反発することもなく、聞き分けよく素直に頷いた。

 紫野が彼女を本気で大切に思い、心配しているとわかっているからこそだろう。


「うん、わかった。警察には連絡したの?」


「それはこれから。――――雛ちゃんは、寛いでていいから」


 そう言い残して、紫野は部屋を出ていった。

 しかしいくら慣れつつあるリビングとはいえ、寛いでいいと許可されても、おいそれとできるものでもない。

 とりあえずほたるの勉強の邪魔にならないようにソファの下へと座って、構って!と寄ってきたわたあめの相手をすることにした。

 わたあめは雛菊の匂いをすんすんと嗅いでから、ロープの玩具を引き摺ってきたので、求められるまま、ひっぱりっこの相手になった。

 ロープの端をくわえたわたあめは、スタートの合図もなしにぐいぐいと引き出す。

 慌てた雛菊は力加減を調節しながら、慣れてきた頃に、眉を寄せて難しい顔をしているほたるを窺った。

 真剣に問題集に取り組んでいると思ったら、実際ははわたあめのぱらぱらマンガを描いて遊んでいた。


「絵、上手だね」


 バレた!という顔をしたほたるは、体裁を繕うことをやめて、はにかんだまま大っぴらに書き進めることにしたらしい。


「ありがとうございます。あんまり集中力が続かない方で、ちょこちょこ別のことをしないと落ち着かなくって……」


 といいつつ、絵の方の集中力はなかなか途切れず、わたあめが引っ張りっこに飽きるまで、かりかり続けていた。

 ある程度の量を進めたところで、はたと気づいた様子で、彼女はこちらを向いた。


「あ、ご飯は食べましたか?」


 そう言われれば、小麦のことと不審者とお泊まりのことで頭がいっぱいで、すっかりと夕食のことなど忘れていた。

 それでも思い出した途端、お腹が空いてくるのが不思議だ。


「お兄さんが遅いって言うから、夕飯作っておいたんです」


 彼女はにこりとして、勉強(ほぼ絵)の途中で手をとめて、たまごうどんを温め直してくれた。

 どんぶりによそわれた、少し伸びて柔らかくなっていたうどんは、優しい味がして身に沁みるように美味しかった。

 危うく泣きそうになるほどだ。

 後から来た紫野も、妹の手料理というだけですでに感動し、一口一口噛み締めて食べていた。

 一滴も残さずつゆまで飲み干し完食すると、胃が目に見えて膨らんでしまい、食べ過ぎたかなとテーブルの陰で密かに擦った。


「そういえば、お姉さんはどこで寝るの?」


 他の部屋がどうなっているか知らないが、てっきり空部屋でもあると思っていたのだが、違ったのだろうか。


「私は別にソファとかで――」


「撫子と寝るんでしょう?」


 紫野がすかさず口を挟んだ。

 そうだった。撫子と寝るために来たのだった。

 雛菊が頷くと、ほたるが顔を赤くして、そそくさと勉強に戻っていった。

 しかし興味津々といった具合に、ちらちらと紫野と雛菊を交互に見遣っている。


「……?」


「僕がソファで寝るから、安心して撫子と寝ていいよ」


 彼は撫子と寝る権利を譲ってくれるつもりらしい。

 だがこの流れだと、撫子だけでなくベッドまでを奪うことになるのではないか。

 雛菊は焦った。


「それは悪いです!紫野さんはベッドを使ってください」


「だけどソファでは、撫子と寝れないよ?」


「そうですが……」


 だったらどうすればいいのだろうか。


「床で……」


「女性を床には寝かせられないよ。そうだね……どうしようか?一緒に寝るスペースはあるけれど、僕と一緒では雛ちゃんが嫌だよね」


「あ、嫌では――」


「嫌ではない?だったらいいのかな?」


 ……いいのだろうか。

 ほたるに助言をを求めようとした雛菊だったが、彼女は問題集を立てて顔を隠してしまっていたので断念した。


「……撫子が、真ん中なら」


 撫子が川の字の真ん中にいてくれるのならば、きっと大丈夫。

 そもそも紫野が変なことをするはずもない。

 問題は落ち着いて寝つけるかの一点に限られている。


「それなら、撫子を挟んで寝ようか」


 その瞬間、ぱたんと問題集が倒れて、真っ赤な顔で狼狽したほたるが、すぐさま問題集を立て直した。

 しかし覗くように、目だけはしっかりとこちらを見ている。

 紫野は微笑ましそうにその様子を見つめ返して、兄らしく言い聞かせた。


「邪推しないこと」


「そ、そんなことは……。ね、ねぇ?わたあめ」


 わたあめはひっぱりっこで疲れたのか、ソファで半分寝かかっていて、肯定するかのようにこくこくと頷いていた。

 紫野との間に色めく事態は起き得ないが、ほたるの挙動が初心で可愛い。

 くすりと笑うと、紫野が至福そうに目を細めた。


「今、とても家族みたいだね」


「あの、お兄さん?わたしは賛成してるよ?」


「僕も賛成だよ。……ただし!手を繋ぐ以上のことは、高校を卒業してからね」


「な、何でそれを……!」


 ぎくり、と効果音のついた表情で固まったほたるは、首まで真っ赤に染め上げて、問題集とわたあめを抱えて逃走を図った。

 ほたるが手を繋いでいたといえば――――梓だ。

 ならば二人の恋を紫野が公認していることにならないだろうか。


「ほたるちゃんと梓くんって、兄妹じゃないんですか?」


「言ってなかったっけ?僕の両親が離婚して、再婚先でそれぞれ産まれたのが梓とほたるちゃん。二人は、血は繋っていないよ」


 ならば初めから何も問題はなかったということか。

 何も知らずに、隠さないとと焦っていた雛菊の取り越し苦労だったようだ。

 ほっとしていると、入れ代わりで梓が顔を出した。


「――――兄貴、来週だけど……って、何?その、生暖かい目は」


 訝しげな梓へと、雛菊は何でもないと首を振った。

 知らず知らずの内に、そんな眼差しを向けていたらしい。


「……?まぁ、いいや。来週あっちに行くから、バイト出れない」


 紫野はカレンダーに目を遣り、鷹揚に頷いた。


「わかった。母さんには、よろしく言っておいて」


「……親父には?」


「特にない」


 紫野がテンションを下げて素っ気なく言い、いつものことなのか梓は気にする素振りもなく「了解」と言って部屋へと戻っていった。


「ご両親はどちらに?」


「ああ、うん……。その内紹介しないといけないだろうけど……」


 紫野が口ごもり、あまり言いたくなさげな雰囲気だったので、雛菊はそれ以上深く訊くことはしなかった。

 どこの家にもそれぞれの事情がある。

 そろそろ寝ようかと言って、彼は話を切り上げた。

 雛菊は寝巻き用の部屋着に着替えてからリビングへと戻ると、「パジャマの買い置きをしておけばよかった……」と、彼はどこか残念そうに呟いた。

 色気の皆無な薄手のグレーのスウェットを見下ろして、それほどだめなのだろうかと項垂れた。


「……ほたるちゃんとお揃いもありか。あれは耳つきでもこもこで、可愛かったし。……ネグリジェも捨てがたくはあるけど」


 紫野がパジャマのことで真剣に悩み始めてしまった。


「いえ、あの。そこまでお世話になる訳には……」


「ほたるちゃんは猫耳だから、雛ちゃんはうさぎかな」


 紫野の瞳が狼めいた光を帯びた。

 ぞくりとした雛菊の腰が引ける前に、紫野はすかさず撫子を呼び、逃げる間もなく寝室へと案内された。

 彼らの後をどきどきと弾む胸を押さえて続く。

 小麦の顔を思い出すとまだ胸がチクリと痛むけれど、撫子が寝室に入る前にちらっと振り返り待っていてくれたことが嬉しかった。

 しかしベッドを見た瞬間、感傷だとか期待だとかが丸ごと吹き飛んだ。


(ダブルベッドって、以外と狭い……)


 そこに二人と一匹が並んで寝なくてはならない。

 いささか窮屈ではないだろうか。

 それに――――。


「あの、紫野さん……?撫子が端に……」


 そこが撫子の定位置なのか、ベッドの真ん中ではなく、足元の方で丸くなってしまった。

 てっきり紫野との間に撫子の顔がある予定だったのだが、これでは彼と並んで眠るのと何ら変わりない。


「雛ちゃんは奥ね」


「は、はい」


 指示されて、つい従ってしまった。

 布団が一つで、なおかつ撫子が上から乗っていて端に引っ張り上げることもできず、仕方なく彼の方へと背中を向けて横になった。


「襲わないから、普通にしてて」


 ため息混じりに言われて、自分だけが意識していたことを気づかされて急激に恥ずかしくなった。

 穴があったら入りたい。

 雛菊は壁を見つめて悶々と眠れない夜を過ごすことに――――はならなかった。

 結局早々にに眠気が勝ち、あっという間に微睡みにたゆたう。

 身体はすっかり休んだ状態であったが、意識の残滓がうっすらと残っていた。

 ぎし、とかすかにベッドが軋み、小さな揺れを感じた。

 紫野が気を遣い、振動を最小限に押さえてベッドから起きてくれたことは何となくわかった。


「……着信履歴、三桁とか……」


 彼の戦慄めいた呟きに、雛菊は無意識に耳を傾けた。

 携帯電話でも操作しているのだろうか。

 それにしては、カチカチ聞こえない。

 彼はガラケーだったはずなのに……。


(そういえば、スマホどうしたっけ……?)


 海里に電話をかけてから、その存在を見かけていなかった気がする。


「……ふふ。仕返しは、必要だよね?」


 紫野の意地悪口調に、雛菊の足元で撫子がしっぽを振っている気配がした。


(紫野さんが、また……黒く…………)


 雛菊はふるりとして、深い眠りに沈んでいった――――。





 寝ぼけていた時の記憶はさっぱりなく、目覚めると朝日の差し込む部屋には、もう紫野と撫子の姿はどこにもなかった。

 サイドテーブルにある時計に目を向けると、そこに雛菊のスマホが置かれていることに気がついた。

 わざわざアラームのために持ってきてくれたのだろうか。

 スマホを持ってぼんやりとしていると、すっかり着替え終えていつも通りの紫野が寝室へと顔を出した。


「雛ちゃん、おはよう」


「おはよう、ございます」


「……いいね。こういうの。――――ああ、そういえば。夜、電話が鳴っていたよ?弟さんじゃないかな?」


 雛菊は着信履歴を見ると、確かに海里から一件だけ、着信が入っていた。

 紫野にお礼を言って海里へと電話すると、恐ろしいことに、一コールで怒声が聞こえてきた。


「ねぇちゃん!?着拒してんじゃねーよ!!」


「えっ、ちゃ、ちゃ、……着拒?」


 雛菊はスマホを耳から遠ざけて、おろおろとした。

 海里を着信拒否するはずがないのに。

 知らない内に変な操作をしてしまったのだろうか。

 スマホは使い慣れていないので、わからない。


「しかも!今どこだよ!!何で一晩中店にいるんだよっ!」


「な、なぜそれを……!?」


 雛菊がきょろきょろすると、紫野がくすくすと笑ってベッドに腰かけた。スプリングが軽く弾む。

 長い足を組んで、膝に頬杖を突き、朝から色香を惜しげもなく漂わせて、こちらを面白そうに眺めている。


「何してたんだよ!」


「ね、寝て……」


「迂闊に寝てんじゃねーよ!忠犬のふりした狼が傍にいるんだろ!」


「お、狼……?」


 ふと紫野と目が合い、ぱっと逸らす。

 彼の瞳は、どことなく狼っぽいからだ。


「雛ちゃんそこ、乱れてるよ」


 やたら妖艶な声音で髪を指差されて、慌てて手櫛で梳いた。

 寝癖が酷すぎて引かれていないだろうかと思っていると、海里の絶叫がスマホの向こうで轟いた。


「な、な、な、なーーーー!!」


 海里が壊れた。よくわからないが、激しく壊れた。


「か、海里!?どうしたの!?」


「…………」


「海里?」


「………………ぜってぇ、潰す」


「何――」


 最後の呻きめいた呟きが上手く聞き取れず、聞き返そうとする前に、切られてしまった。

 茫然としていた雛菊は、清々しい笑顔の紫野に誘われ、気がつくと何だかわからない内に朝食の席についていて、ぼんやりとトーストに噛みついていた。



三桁超の着信履歴は一件を残して全部削除し、海里の番号を着信拒否に設定して、安眠を。もちろん黒いあの人の仕業です。

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