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※専門学校の話が出てきますが、架空の学校です。実在する学校とは一切関係ありません。
朝起きて、億劫な気持ちのまま、雛菊は洗面所へと向かった。
そして洗面台の鏡に映る自分を一言で表すならば、『隈が酷い』だった。
明け方には眠れたというのに、この隈はない。
冷たい水で洗ったところで緩和されるはずもなく、何一つ変化は見られなかった。
海里の勤め先の所長が紹介してくれたという仕事の、面接にいかなければならないというのに、この顔ではもはや、行くまでもなく落とされるだろう。
深くため息をついてから、雛菊はメイクのりの悪い肌へと薄化粧を施した。
目の下は重点的にコンシーラーで攻め、どうにか薄まったところで髪を一つに結んだ。
遠目ならば隈までは気がつかれないだろうが、顔色が悪いことは一目瞭然だった。
(もう、だめならだめでいい)
アルバイトでも見つけて細々とやっていければ、雛菊自身は、それでも全然構わなかった。
ペットを飼う余裕さえあれば、他は必要のないことに思えた。
家を出て鍵をかけると、気になり隣の部屋の扉を窺った。
ドアノブは回しても開かれず、室内はしんと静まり返っている。
ぞくりと寒気が背筋を伝い、雛菊はそそくさとその場から立ち去った。
面接は午後からだったので、通勤ラッシュ時を避けることができたお陰で、二人がけの座席へと滑り込めて雛菊は一息ついた。
前の会社は制服で、通勤は私服だったので、どうにもスーツは居心地が悪い。
二十六にもなってスーツを着こなせない社会の爪弾き者が、空いているからといって椅子に座っていいのかと、悲観的なことに囚われかけていると、隣の席へと誰かが腰を下ろした。
その膝の上に置かれたのは、ペットを持ち運ぶためのキャリーバッグ。
隙間から、白いふわふわとした毛がはみ出している。
「可愛い……」
電車が動き出したところで、つい口をついて出た言葉は、しっかりと相手に聞かれていたようで、隣から「……どうも」と返事が返ってきた。
雛菊がそちらへと顔を起こすと、アンニュイな雰囲気をまとった青年と目があった。
どこかで見覚えがあると記憶を手繰り寄せ、すぐにはっと気がついた。
昨日銭湯の前で見かけた彼だ。
彼の方は雛菊のことなど記憶にないないのか、軽く頭を下げただけで、その後は会話もなく手慰みにバッグからはみ出した白い毛を触っていた。
年は二十歳ぐらいだろうか。
それくらいの頃、自分は何をしていたのだろうかと雛菊は過去を振り返る。
漠然と生きて、流されて、流れ着いた先がここだった。
人もまばらな電車に揺られて、わざわざ面接に落とされにいく。
「くうん」
慰めようとしてくれたのか、バッグの中から鳴き声がした。
ただ飼い主の彼に甘えただけなのかもしれないが、雛菊は何となく、都合のいいように考えてしまう。
きっと昨日撫子に救われたから、犬だけは自分の味方だと勝手に思い込んでしまっていたのだ。
「…………大丈夫、ですか?」
そっけない顔で、だが心配するように尋ねられて、きょとんとした。
だけど頬を伝う生暖かい滴の感触に思い至ると、はっとして鞄からハンカチを取り出し目に当てた。
ガタンゴトンという振動の中、奇妙な沈黙が下りる。
こんな年下の男の子にまで気を遣われて、どれだけ無様なのだろうか。
どうしようもなく逃げ出したくなり、雛菊は予定ではなかった次の駅で降りた。
プシュー、と扉の閉まる音が背後てして、電車はみるみる遠ざかっていく気配を感じていると、
「くう、きゅうん」
「……え?」
その鳴き声に驚き、振り返った先にはあの青年が、至極面倒そうな顔で立っていた。
彼はスマホを操作し終えると、雛菊をホームのベンチへと引っ張り、座らせた。
そして混乱する雛菊の膝にバッグを置くと、どこかへと電話をかけ始めた。
「――――あ、兄貴?」
盗み聞きをしてはいけないと思い、雛菊は意識をバッグの中のふわふわした天使のような子犬へと向けた。
黒い瞳と小さな鼻。真っ白な毛色で、耳は垂れている。
しきりに雛菊の方へと手を伸ばして、出して出して!と訴えかけてくる。
電話を終えた彼は無言で隣へと座り、沈黙が辛くなった頃にようやく、雛菊から話しかけた。
「……すみません」
彼は怪訝そうな顔で、こちらを向く。
もはや雛菊自身、何に対して謝っているのかわからなくなっている。
ただ、彼には行くところがあったのだろうし、こうして時間を浪費させていることは事実なので、謝らなければと思った。
「……別に。まだ、午後には間に合うから」
「……学生さん、ですか?」
「専門学生」
彼は端的に言った。
(犬を連れて行ける専門学校……)
「……トリマー、とか?」
そう、と彼は短く答えた。
雛菊にはまるで未知の世界だ。
毎日動物と触れあえて楽しそうだなという、子供じみた想像しかつかない。
「この子は、カットの練習に?」
「いや、……躾の授業に。いつも別のやつが連れてくるポメが、今日は朝から調子悪いっていうから、代打に」
(ポメ……ポメラニアン?)
代打の白い子犬は、何もわかっていない顔をして、尻尾をぱたぱたと振っている。
「この子は……」
「ビション。……ビション・フリーゼ」
私がぽかんとしていたからか、彼は親切に正式な犬種を教えてくれた。
『パウダー・パフ』というスタイルだとわかりやすいと、わざわざスマホで画像を見せてくれる。
その真っ白な真ん丸の頭は特徴的で、確かにテレビやどこかで見たことのある犬種だった。
この子もいつかはこうなるのかと、思い描いただけで身悶えそうなほど愛らしい。
「この子の名前は?」
「………………わたあめ」
ものすごく不本意そうに言うものだから、雛菊はくすりと笑ってしまった。
確かにこの子はわたあめのようだ。
白くてふわふわで、ちょっだけ甘そう。
「男の子?」
尋ねるとまた、そう、と返ってきた。
雛菊から話しかけるばかりで、彼らは何も質問されない。
自分でも説明出来ない、ふとした拍子に出てしまった涙について、話さなくていいのはありがたかった。
気を遣われているのかと思いもしたが、おそらくそういう性格なのだろう。
犬については、淡々とだがよくしゃべった。
「プードルの足とかしっぽについている、ぽんぽんみたいなのにも、名称があるの?」
「しっぽは、ぽんぽんであってる。前肢のはフロントブレスレットで後肢のはリヤーブレスレット」
コンチネンタルクリップの腰についたぽんぽんのことをロゼットと言い、ハート型のは本気で可愛かったと、彼は真顔で言った。
雛菊にはよくわからない単語が出てきたが、クールな青年が堂々と口にするほど可愛いのだということだけは伝わってくる。
「わたあめにも、手足のぽんぽん似合いそう」
そう言うと、彼は微妙そうな顔でわたあめを見下ろし、ぽつりと呟いた。
「こいつはたぶん、……短足だから似合わない」
バッグの隅でうつらうつらし出したマイペースなわたあめは、どうやら短足らしい。
それはわたあめのせいではなく、すらりとしたプードルに比べて、ビションはずんぐりした体格なのだとか。
そう弁明していた彼だが、やはりわたあめはやはり他より短足だと、渋々認めた。
逆に、シングルコートと呼ばれる被毛のプードルでパウダーパフスタイルは、できなくはないがちょっと難しいらしい。
それぞれの犬種に合ったカットが確立されているらしい。
しかしプードルなどは新しいスタイルもたくさんあるので、結局は飼い主がどういったカットにしたいかによるよね、ということで話が終着した。
朝鏡を見ていた時にはまさか、面接にも行きもせずに、駅のホームでほぼ初対面の青年に、犬についての受講を受けるとは思っていなかった。
「午前は授業がないの?」
「今日はさぼり。補習に出れば、欠席は消えるから」
彼の話を聞く限り、雛菊にとっては変わったシステムの学校だった。
補習の日に午前に一匹、午後に一匹、最後まで仕上げると、出席日数が一日分もらえるという。
学校にはトリミングの練習用の犬がいるわけではなく、お店のように一般の家庭犬を預かるのだという。
生徒がカットをするので、料金が若干安めに設定してあり、お店では断られるような凶暴な犬も来るらしい。
彼の腕にある生傷は、そういった犬の噛みつき痕なのかもしれない。
そこでふと、昨日撫子を連れていた彼にも、傷があったなと雛菊が思ったその時、
「――――梓!」
階段を上がってきた人物が、隣にいる彼へと手を挙げ呼びかけた。
(昨日の……!)
それは昨日会ったばかりの、親切な撫子の飼い主だった。
向こうも雛菊に気づいたのか瞠目し、梓と呼ばれた青年へと説明を求めて目を移す。
彼はわたあめのバッグを持ち上げながら、少し首を傾げた。
「電話で言った通りだけど?」
「途方に暮れた捨て犬を拾ったから、迎えに来いって言ったじゃないか」
彼は口にした直後、雛菊が聞いていたことに思い至ったのか、一瞬しまったという顔をした。
――――途方に暮れた捨て犬。
それは間違いなく雛菊のことなのだろう。
そんな風に見られていたとは露知らず、彼のする新鮮な世界の話を純粋楽しんでしまっていた。
そこへ電車が到着し、梓は用は済んだとばかりに、さっさとわたあめと乗り込んで行ってしまった。
電車が見えなくなってから、取り残された彼は心底申し訳なさそうに言った。
「弟がすみません。昔から、捨て犬や捨て猫を放っておけずに連れ帰って来る子で」
遠回しに捨て犬や捨て猫だと言われているが、雛菊はあまり気にはならなかった。
実際に、そんなようなものだ。
きっと雛菊の内面にある鬱々とした感情がにじみ出ていて、それを見抜かれていたのだ。
「じゃあ、行こうか」
優しく手を繋がれて、わけもわからず促されるままに、階段を下りて改札を抜けた。
もしかしたら家まで送ってくれるつもりなのかもしれない。
商店街で買い物をしていたから、あの周辺に住んでいることはすでに知られている。
何と言えばよいのか言葉が見つからないまま、雛菊は駐車場に停められていた軽自動車の傍まで来てしまった。
荷台が広いタイプの軽自動車だ。
窓からゲージが覗ける。
しかしそれよりも一つ、気になることがあった。
「……もふもふ、堂……?」
白い車体に、『もふもふ堂』と達筆な文字が書かれている。
大きな半紙に、自分と同じ背丈の筆で書いたような文字。
内容と全くもって噛み合っていない激しいその文字に、雛菊は戸惑った。
どう言葉を弄しても、誉め言葉にならなそうだ。
「これは気にしないで」
「……わかりました」
不本意そうな顔は、梓のものとよく似ていた。
彼は当たり前のように、助手席のドアを開けてくれる。
普段なら男の人の車に乗るのは躊躇う雛菊だが、この車に関しては初見で驚かされたせいか、無警戒で乗ってしまった。
彼が運転席に着くとシートベルトを締めて、車は一駅向こうまで発車した。
「……もふもふ堂っていうのは……?」
こればかりは見過ごすことが出来ずに尋ねてみた。
「うちの店の屋号。ペットサロンもふもふ堂」
だから梓はトリマーの学校に通っているのかと合点がいった。
男の子で珍しいなとは思っていた雛菊だが、意外とそんなことはないのかもしれない。
「店長の佐千原紫野です」
信号で止まると、彼は財布から名刺を取り出した。
半分以上が撫子のアップで、彼のプロフィールはちんまりと記されているだけだった。
撫子が可愛くて、ついつい顔がほころぶ。
彼は優しげな眼差しでこちらを見て待っていたので、慌てて言った。
「私は、西奈雛菊です」
雛菊は口頭のみで自己紹介をした。なぜなら単純に、名刺がない。
名前しか持たない雛菊には、名刺なんてものは必要がない。
「雛菊……ちゃん?女の子で四文字って珍しいよね。小さい頃とか、からかわれたでしょう?うちは兄弟揃って女みたいって、散々言われたから」
確かに紫野も梓も、響きからすると女の子っぽい。
しかしそれだけではない気がする。
紫野も梓も、今でこそすらりと長身で体つきも男性のものだが、幼い頃は女の子と見間違われただろうことが容易に想像できた。
癒し系美少女とクールビューティーだ。
逆に雛菊は平穏な幼少期を過ごしていた。
「からかわれたりは、あんまり。ただ菊の花って仏花とかの印象が強かったのか、皆自然と雛ちゃんって呼んでいたと思います」
そんなことが続くと雛菊自身、雛が本名な気がしてフルネームに多少違和感を感じるようになったほどだ。
「ふぅん、雛ちゃんか……、可愛いね」
どきりとしたが、可愛いと言われたのは名前だと気づき、苦笑した。
派手に転んだことも知っていて、涙で剥げたこの惨めな顔を晒しているのだから、彼は同情してくれているだけだろう。
「僕はなぜか、昔から紫野さんなんだよね。人によってはくん付けで呼んでくれるけど」
「紫野さん……」
それはわかる気がした。彼の落ち着いた雰囲気には、さんづけが相応しい。
「スーツって」
突然話ががらりと変わり、雛菊はふと顔を上げて綺麗な彼の横顔を見つめた。
スーツが、何なのだろうか。
この年でスーツに着られているなんて指摘されたら、三日は落ち込める。
「肩凝らない?」
「……凝ります」
「嫌いなんだよね。スーツ」
彼は動きやすさを重視したのかTシャツにデニムのジーンズ。薄手のジャケットを羽織ってはいるが、よく観察すると細かな毛だらけだった。
飾らない服装ではあるが、元がいいと何を着てもよく見えるらしい。
「面接だったんでしょう?」
「え、何で……」
言いかけて、鞄から覗いてしまっていた茶封筒に目を落とした。
そこには履歴書在中と、赤い文字で記されている。
「間に合うなら、送っていこうか?」
「……いいえ」
「じゃあ、このまま帰ろうか」
梓と一緒で、彼も、雛菊の心の中に触れてはこなかった。