16
紫野との蟠りも解けて(?)少しの気後れを残しながらも真面目に仕事に勤しんでいると、店の電話が鳴り響き、雛菊は受話器を取った。
「はい、もふも――」
「お前か?俺だ。楠だ。すぐ紫野に代わってくれ」
挨拶もなしに急かす楠に戸惑ったが、雛菊はすぐさま保留にして、トリミング室に滑り込んで紫野へと声をかけた。
「楠先生からです。急いでいる様子で紫野さんに代わって欲しいと」
子機を取って紫野へと手渡す。
代わりに台の上で胴体だけすっきりとしたシーズーのパッピーを受け取った。
「どうかしたんですか?」
初めは普通の口調だった紫野だが、途中から重低音の相槌へと移行していき、遂には苛立ちを露にした「はぁ?」という一撃を落とした。
紫野が怒っている。凄まじくお怒りだ。
雛菊だけでなく、パッピーもぷるぷる震えている。
しかしそれは、ばっさりと被毛を刈られたせいだと気づき、雛菊は静かに暖房の設定温度を一度だけあげた。
他の子も犬舎にいるので、あげ過ぎるとまた紫野に叱られてしまう。
触らぬ黒紫野に祟りなし、だ。
「……わかりました。様子を見て考えます」
通話を切り、紫野は深いため息をついて受話器を置いた。
「何か、あったんですか……?」
おそるおそる尋ねると、初めはは言い渋っていたが、じっと答えを待っていると彼は諦めて重たい口を開いた。
「……飼い主が迎えに来たらしい」
「飼い主?」
「……小麦の」
「え」
小麦を置き去りにした飼い主が、楠動物病院に訪れた、ということだろうか。
「小麦を……連れて行ったって」
「そんなっ……!?何でですか!?」
小麦を一度手放し、そのせいで死んでいたかもしれないというのに、無責任過ぎる。
それに小麦はもう明日、雛菊の愛犬になる予定だったのに。
もう懐きかけていたというのに。
今さら……。
「二度とこんなことをしないと反省して――」
「それでいいんですか!?また小麦がっ……、今度は本当に死んじゃうかもしれないんですよ!?」
「雛ちゃん、落ち着いて」
「落ち着いていられませんよ!今から行ってきます!」
「雛ちゃん!!」
出ていこうとした瞬間、厳しく咎められて雛菊はびくりとして足を止めた。
「今は仕事中」
「でも……」
「終わってから、訪ねてみよう?」
そう優しく諭された。
しかし雛菊の心は小麦の元へと今すぐにでも飛んでいきたがっていた。
あれほど動物が好きな紫野が、仕事があるとはいえすぐに動いてくれないことが、悲しかった。
「…………はい」
返事をするといい子だと頭を撫でられたが、全く嬉しくはなく、雛菊はそそくさとトリミング室を後にした。
真面目に働かなければクビになる。
だから雛菊は閉店時間まで何とか耐えた。
楠から聞き出した住所を目指して車を走らせる紫野を、雛菊は助手席にからぼんやりと眺めいた。
「小麦は平気でしょうか?」
「元々虐待されていた訳ではないから、大丈夫」
「だったら何で置き去りに?」
「それが、小麦は前の恋人からのプレゼントだったらしい。今は新しい彼氏と同棲しているようだから、男に気兼ねして置いていったんじゃないかと思う」
「小麦は物じゃないのに……」
雛菊も婚約指輪は海里に言われて早々に売り払った。
しかしそれとこれとは話が違う。
「楠先生の話では、今の彼氏と二人で引き取りに来たらしい。置き去りにしたことも認めて、もう二度としないと誓ったとか」
「そんなことっ……、口ではいくらでも言えます」
雛菊は頑なに小麦の飼い主を許しはしなかった。
小麦だって、許せないと思っているはずだ。
自分なら絶対に、悲しい思いなんかさせない。
これから先、小麦と支えあって生きていくつもりだったのに。
涙を堪えて唇を噛み締めていると、車は住宅街にある一軒のアパートの前で停車した。
シートベルトを外すと、紫野が先制して言い含めてきた。
「先に様子を見てくるから、雛ちゃんはここで待ってて」
雛菊が出ていくと感情的になり、話が進まないと言われているようだ。
それでも紫野ならば、小麦が劣悪な環境にいれば救いだして来るという信頼があるからこそ、大人しく従うことにした。
彼がアパートに消えて、雛菊はふいに見えたフロントガラスに映る憔悴したアラサー女の惨めな姿に、びくりと肩を震わせた。
たった一日で、三十年も老けてしまったかのような衰え具合だ。
これも連れて行ってもらえなかった要因の一つかもしれない。
「小麦……」
きちんとご飯をもらっているだろうか。
寂しい思いをしていないだろうか。
一度も飼ったことはないのに、小麦との数少ない思い出が走馬灯のように蘇る。
きっと小麦も――――、と思った時。
道の先から、若い男女が歩いて来るのが見えた。
薄暗い歩道に、肩を並べて。
ぼんやりと目で追っていた雛菊だったが、彼らが街灯の下を潜った時に、それに気がついた。
彼らを先導し、しっぽを振って軽快に歩く――――柴犬に。
「こ、小麦……?」
それは小麦であり、雛菊の知るあの小麦ではなかった。
病院にいた時とは、表情がまるで違った。
とても……、とても嬉しそうだった。
先を行きすぎて立ち止まり、振り返りながら彼らが来るのを待って、また進んでいく。
何度目かで、女性の方が小麦を撫でたことで、そのまま抱っこをせがむ。
要求通りに抱き上げられた小麦は、幸せそうだった。
そのまま車の中にいる雛菊になど気がつきもせず、アパートへと帰っていく。
彼らの姿が見えなくなってから、とうとう頬に涙が伝い落ちた。
辛そうにしていたら、飛び出して奪い去ったのに。
あれでは、雛菊が入る隙間なんて、少しもない。
(私はいつも、人のものばかり好きになる……)
別れた彼も、……小麦も。
結局最後は、一人きりだ。
だったら初めから期待しなければいいのに、どうして人は何かに心を寄せてしまうのだろう。
小麦とならば、傷を慰め合って生きていけると思っていた。
だけど小麦は、捨てられていなかった。
飼い主が、罪を悔い改めて迎えに来た。
――――愛されていた。
そこでふと、元同僚が言っていた言葉が蘇った。
彼が離婚をして、雛菊を探していると。
彼も一人になって、考え直したのだろうか。
きちんと終わらせられたら、気持ちを切り換えることができるだろうか。
スマホを取り出して、通話画面にする。
連絡先は消しても、十一桁の番号は記憶していた。――――今でも。……嫌でも。
それでも雛菊が電話をかけた相手は、誰よりも近い存在の――――海里だった。
「……ねぇちゃん?今どこにいるの?」
「……何で?」
なぜ遠出していることがわかったのだろうか。
海里は雛菊よりもよほど洞察力が優れているので、周囲の音から普段との違いを感じたのかもしれない。
「というか、え、もしかして……泣いてる?」
「……うん。…………あの柴犬ね、飼い主が迎えに来て、飼えなくなって……」
「あー……あの。ねぇちゃんが楽しみにしてた子か……。それで、泣いてるの?」
「……うん、ごめんね。こんなことで電話して」
「別に、いいけど……。今、一人……ではないよね。またあの店長とやらと一緒?」
「……うん。今は柴犬の飼い主のところに行ってる」
「じゃあさ、今の内に泣いたことわからないようにしておきなよ。見苦しくて恥かくよ」
海里の言う通り、確かに雛菊は今、人には見せられないレベルの酷い顔をしていた。
「でも、暗くて直せない……」
「じゃあ、あんまり顔を合わせないようにしておいたら?ここぞとばかりに攻め込……ごほん。――――気を遣って慰められても、余計辛いだけだろ?」
「……うん」
「雇い主といえど、他人だから。ねぇちゃんが弱味を見せていいのは、俺だけだから」
「……うん。飼えなかったこともだけれど、私だけが浮かれて、懐いていると思いあがっていたことが本当に、馬鹿みたいで……。――――あ、紫野さんが出てきたみたい。ごめんね、切るね」
「待って!弱ってるからって、男の慰めの言葉を、全部真に受けたりするなよ」
最後に、「うん」と返して通話を終えると、紫野が神妙な顔をして運転席へと乗り込んできた。
彼は、雛菊がしまうのに間に合わなかったスマホをじっと見てから、少し固い声で尋ねてきた。
「電話を、していたの?」
雛菊は海里の言いつけを守って顔を伏せた。
「弟に、小麦を飼えなくなったって。……弟もたぶん、楽しみにしていたから」
海里もきっと小麦と戯れたかったはずだ。
犬を飼うことには、殊の外賛成してくれていた。
雛菊からにじみ出す淀んだ空気を感じ取ったのか、紫野は息を呑んだ。
「……もしかして、見た?」
雛菊は躊躇ってから、こくりと頷いた。
シートベルトを締め、紫野はハンドルに軽く手を添えると、背凭れに身体を預けて深いため息をついた。
「あれだけ嬉しそうにしていたらね……。僕も、二度としないという誓約書を書かせて、破ったら問答無用でうちが引き取ると約束させることしかできなかったよ」
彼は肩を落としているが、そこまでしたらもう十分な気がする。
他に何を強要する気だったのかは、怖くて聞けない。
そんな雛菊が今できることは、次がないことを願うことだ。
このまま会えないということが、小麦が元気でやっているという、何よりの証拠になる。
「……小麦が幸せなら、もういいです。もう……」
雛菊は強がりを言って、自分を慰めた。
小麦のため。そう言い聞かせれば、悲しいことではないのだから。
「うん、それが一番ではあるね。寂しかったら、撫子を自分の愛犬だと思って遊んでいいからね」
「はい……」
寛容な発言をした紫野は、穏やかな微笑を見せてから車を発車させた。
住宅街を抜けて、大通りへと出ると、流れに乗ってみるみる小麦との距離が遠ざかっていく。
お別れを言えなかったことだけが心残りではあるが、会ったら離れられなくなるのは目に見えていたので、きっとこれでよかった。
雛菊は感傷的な気持ちで、窓の向こうに広がる町灯りの幻想的な煌めきを眺めていると、紫野が言った。
「すぐには立ち直れないと思うけれど、いつかまた、自分だけの愛犬でも愛猫でも、見つかる日が来るから」
窓に映った紫野の端正な横顔へと、小さく頷く。
「……はい」
「代わりに僕が、ずっと傍にいるから」
「……はい」
ずっと、だなんて言い過ぎだと思ったが、ただの慰めだと思い直して素直に受け取っておいた。
海里に言われずとも、簡単に真に受けたりしない。
それなのに、ふと、暗い窓ガラスに映る彼から自分の顔へと目を移すと、嬉しそうにはにかんでいて、慌てて視線を足元へと落とした。
「そんなに寂しいなら、……うちで一緒に暮らす?撫子もわたあめもいるよ?」
「……はい。え、……はい?」
(今……何て?)
ぼんやりとしていて危うく聞き流すところだった。
一緒に暮らすとかどうとか、言わなかったか。
困惑のまま見上げた紫野は、冗談を言ったような顔つきではなかった。
「……もしかして、下宿ってことですか?」
口にした途端、紫野の綺麗な顔がかすかに曇った。
どうやら違ったらしい。
ならばあれだろうか。
「お泊まり体験みたいなことですか?」
犬のいる生活体験は、今後の参考になりそうではある。
しばらくは小麦ロスで、他の子を受け入れる余裕はなさそうだけれど。
「……もっと他の考えは、浮かばない?」
「他の……」
雛菊は必死に思考を巡らせた。
自分と紫野との関係性で、一緒に暮らすという意味に心当たりは、その二つ以外にない。
これが恋人同士ならば、同棲や結婚まで意識したかもしれないが、ただの雇い主とバイトの間柄には、やはり下宿が一番しっくりときた。
しかしアパートを借りたばかりなので、どうにも気が引ける。
一緒に暮らす、の意味が、雛菊にはいくら考えてもわからなかった。
わからないからこそ、都合よく解釈してしまいそうで、必死に自分を律した。
これもきっと、真に受けてはいけない話だ。
答えが見つからずに黙り込んでいると、紫野が少しだけ狼狽えた声で尋ねかけてきた。
「雛ちゃん?……まさか、……寝てる?」
「起きてます」
泣いたせいで目の奥ががんがんとして、例え車に心地よく揺られていても、今は眠れそうにない。
隣にいるのが海里だったのならば、もしかしたら寝ていたかもしれない。
しかし雛菊は海里以外にあまり気を許せる友人もいなかったので、誰かの運転中に寝たためしはなかった。
「何も言わないから、寝てしまったかと」
「他人の車では、あまり寝れないので……」
「……他人」
なぜか紫野が傷ついたような呟きをもらした。
「またさらに溝が深まった気がする。……何でなのかな」
独り言に口出しするのは野暮かと、雛菊は聞かないように意識を逸らした。
「……裏で糸を引く、彼のせいか」
黒い響きが聞こえた気がするが、やはり雛菊は聞かなかったことにしておいた。
「雛ちゃん」
呼ばれて紫野を仰いだ。
「こんなこと言うのもあれだけど、いつまでも弟さんに頼るのはどうかと思うよ」
気を抜いていたところに、横っ面を引っ叩かれたような衝撃を受けた。
雛菊は小麦を失ったショックに併せて、精神が気絶寸前まで追いつめられ、瀕死の金魚のように涙目で口をぱくぱくとさせた。
「弟さんだって、これから新しい家庭を築いていくよね?」
「……はい」
涙を我慢して、震える手のひらでシートベルトを握り締めて答えた。
「奥さんや子供たちを差し置いて、姉である雛ちゃんが頼れないでしょう」
「……おっしゃる通りで」
嫁小姑問題に発展する前に、雛菊からしっぽを巻いて撤退するだろう。
できれば、性格のきつくないお嫁さんをもらって欲しい。
叶うなら、ほたるのような子を希望する。
「雛ちゃんは弟離れをしないと。せっかく離れて暮らしているんだから」
あまりに海里に頼りすぎていたせいで、紫野に呆れられてしまった。
たぶん自立を促されているのだろうことはわかる。
小麦なしでも、一人で強く生きていけと。
「……わかりました」
これからは、誰にも頼らずに生きていかなければいけない。
恋はしても、結婚に消極的な雛菊には、もはや頼るべきは自分自身しかありはしなかった。
「今後は何かあれば、僕に――」
「安心してください。紫野さんには、迷惑かけたりしませんので」
「……」
「たぶん甘えてしまうので、下宿の話もお断りします」
「…………」
「まず手始めに、仕事帰りの付き添いをやめてください。いつまで経っても自立できません」
「………………自分の首を、絞めてしまった」
「自分の首を絞めたら苦しくないですか?」
表情だけはにこやかな紫野は、首の代わりなのか、ハンドルをぎりりっと固く握り締めた。
黒々としたオーラが車内に漂い、雛菊はびくつく。
その後、無言のまま、重々しい空気に萎縮している間に、アパートの前の路肩に車が停車された。
「ありがとうございます。おやすみなさいっ……!」
そう言って逃げるように飛び出した。
アパートに入る直前で車のドアが閉まる音がし、振り向くと、なぜか紫野が勢いよく降りてきた。
「雛ちゃん!」
ふいに視界が暗転した。
全身が何か温かいものに包まれて――――。
「し、紫野さ――」
「黙って」
押さえ込まれた頭の上から潜めた声がし、そこにわずかな警戒を含まれていたので、雛菊は身じろぎできずに口を閉ざした。
しばらくそのままでいて、彼の体から強張りが解けた頃、一台の車が道の先を右折していくのが腕の隙間から見えた気がした。
紫野も、そちらを見据えている。
「あの車が、何か……?」
「ああ、うん……。写真を、撮っていたから」
どうやら雛菊の顔が写らないように隠してくれたらしい。
「月を撮っていたとか……?」
「こんな住宅地で?」
雛菊の予想はあっさりと否定された。
「それなら……盗撮、とか……」
ここは完全に女性しか住んでいないアパートだ。
誰が狙われているにせよ、気持ちのいいことではない。
悪寒にに震えた手が、知らず知らずの内に紫野のシャツを握り締めて、すがりついていた。
「雛ちゃん」
「……はい」
仰ぐととても素敵な笑顔の紫野がそこにいた。
「さっきの提案の続きなんだけれど、お泊まり体験でもいいから、しばらく家に来ない?」




