15
恋なんてこりごりだ。
でも、ままならない。
過去のことを知られたくなかったことも、触れ合って胸が高鳴ったことも、理由なんて突き詰めずとも簡単なことだった。
たった数日で、決意が容易く崩壊してしまうだなんて。
前の彼の時に、あれほど酷い目を見たのに。
まだ人を好きになろうとするなんて。
それも、自分とはとても釣り合わない相手に。
動物が恋人な、彼に――――。
*
それは雛菊が退職を免れ、淡い恋心を自覚した数日後のことだった。
「え!?退院ですか!?」
雛菊は歓喜に場所をわきまえず声を上げてしまった口を押さえた。
ここは動物病院の診察室。
怪我や病気の動物がいるのに、憚らずはしゃいでしまったことを反省しながら楠へと問いかけた。
「でも、まだ動けるようになってからそんなに時間も経っていないのに、平気でしょうか?」
楠は診察台に寝そべる柴犬から、雛菊の背後で沈黙している紫野を窺い見ながら言った。
「どっかの憐れなモテ男が、変な鈍感女にはまって、ばっさりふられるぐらいの時間は十分にあっただろ」
「そんな人……いるんですか?」
「案外近くにいるかもな」
楠はそっけなく言ってカルテを捲る。
そんな短期間で恋が始まって終わるなんて、と思いつつ、雛菊は心を見透かされているのかと焦りを隠せず柴犬の被毛に顔を埋めた。
好きになるのに、時間なんて関係ない。
それに、終わっているといえば終わっている。
どう考えても実らない恋など、どれだけ膨らませても、形が悪いと言って収穫されることもなく棄てられる果物と同じだ。
その男性も、こんな気持ちなのだろうか。
切なさに胸が締めつけられたが、柴犬に鼻先でぐいぐい押されて我に返った。
退院の許可が下りたということは、やっとこの愛らしい柴犬と暮らせるということだ。
荒んだ心に潤いをおびていき、雛菊の頬が勝手に緩み出す。
「そんな男は知りませんが、きっぱりと断られなければ、ふられたことにはならないと思いますが」
紫野が妙に低音で反論した。
彼は自分に自信があるから、そんなことを言えるのだろう。
雛菊ならばやんわりと引かれた時点で、ふられたと自覚する。
「その男も、今まで散々蔑ろにしてきた女たちの気持ちがわかってよかったんじゃないか?……お前は犬を優先し過ぎだ」
柴犬の頭を撫でる雛菊を越えて、楠と紫野の会話が飛び交う。
「蔑ろって……、撫子と張り合おうすることがおかしいでしょう。その点僕なら二番手で全然構いませんし、相手にも撫子を優先させて欲しいくらいです」
「相変わらずのキモい偏愛だな。恋人に犬より下の扱いをされて平気なやつなんかいないだろ。そこの顔中毛まみれのお前も何か言え」
「私は……五番手ぐらいで――」
「お前は女としてのプライドがないのか?五番手って何だ。それとも、悲劇のヒロインぶった愛人体質なのか?」
「自分以外の女の人が上にいたら、それは嫌です」
そこはすかさず否定した。愛人も二股も許容する気はない。
ただ、愛犬愛猫は許せるというだけだ。
紫野が、撫子や梓とほたる、それにわたあめを優先させるだろうから、雛菊は五番手と言ったまでだった。
「僕も上に人がいたら嫌ですよ。……それが相手の、身内でも」
身内はいいのではないかと思った雛菊とは違い、紫野はほの暗く呟いた。
「もう鬱陶しいからさっさと押し倒してものにしろよ」
楠がこちらを向いたので、雛菊は恋心を封印して、紫野に押し倒されて柴犬を奪われないように抱き込んだ。
紫野は見かけによらず力が強い。
せっかく雛菊に懐いた可愛い子なのだ。
いくら紫野が相手でも、そう易々手放すことなんて、できるはずがない。
「焦っていませんから結構ですよ。これからじっくりと、攻め落としていきます」
ふふ、と黒く笑う紫野に、雛菊はぶるっと震えた。
やはりまだ、この柴犬を狙っているのだろうか。
「だったら人を介さず直接話をしろよ。やりにくいったらない」
雛菊はおずおずと振り返り、紫野と目が合った途端、お互い同時に逸らした。
あの日からずっと、こんな調子だった。
気まずいことこの上ないのに、接し方までわからなくなってしまった。
優しくされると嬉しい反面物悲しくなり、期待してしまわないようにその手を拒む。
馬鹿で可哀想な人間だと思われていなければ、紫野のような人が心を配ってくれるはずがない。
その優しさに、惹かれてしまった自分は、どうしようもない愚か者だ。
「……もう勝手にやってろ。それでこいつの退院は、……そうだな、明日か明後日でどうだ?」
「ちょうど定休日なので、明後日にしてください」
「明後日なー。……ところで、名前は決めたのか?」
紫野に丸投げしていたが、雛菊も結局どうなったか聞いていない。
「候補はいくつか……。温かいイメージでひなたとか、毛色から小麦とか、女の子だからももとか――」
「あ、女の子だったんだ……」
「見たらわかるだろ!」
見てもわからなかった雛菊は、とりあえず、ももではないかなと一つ却下した。
「せっかく皆植物なので、小麦かな?」
そう思って見れば見るほど、この柴犬は小麦顔をしている。
「皆?」
紫野が仕事のこと以外で、久しぶりに躊躇わず話しかけてきた。
雛菊は冷静さを心がけて振り向き、小首を傾げるような体勢で言った。
「撫子は撫子の花で、わたあめは漢字をあてたら綿飴で綿でしょう?」
しかし答えたのに、紫野はじっとこちらを見入ったまま反応がない。
顔が強張っていたのか、もしくは、柴犬を前にしてだらしなく頬が緩んでいたせいか、とにかく慌てて羞恥に染まったそこを両手で包み隠した。
涙は堪えないと、恥の上塗りだ。
「お嬢さんよ……、これ以上、惑わしてやるな」
楠はなぜかカルテで顔を隠し、その腕はぷるぷると震えて引き攣っている。
後ろを向くと、紫野も顔を背けていた。
(見るに耐えないほど酷い顔だったんだ……)
傷心して診察台にがっくりと項垂れた雛菊の頭を、小麦が舐めて慰めた。
ほたるに誘われるがまま、夕食は佐千原家で取るようになったが、その帰りは気まずかった。
ぎこちなく撫子一匹分を空けて黙々と歩くせいか、自然と足早になる。
紫野は何度言っても、さらにはお願いまでしても、家までついてくるので、こればかりは暗黙の了解となっていた。
変な期待をしてしまい、惨めでどうしようもない気持ちになるから、本心ではやめて欲しい。
これではまるで、一人で何もできない子供のようだ。
「紫野さん」
意を決して呼びかけると、彼はほっとするような笑みでこちらを向いた。
「名前。もう、呼んでくれないかと思った」
あの逃げ出した日以来、彼の名前を口にしたのは初めてかもしれない。
そんなことで嬉しそうにされると、雛菊の決意なんてしおしお萎れて、尻込みしてしまう。
彼が喜ぶのならばと、何度も名前を繰り返してしまいそうだ。
それでもなけなしの勇気を振り絞って奮起し、向き合った。
「全部聞いたんですか、私の……前の仕事を辞めた理由を」
その話をされるとは思っていなかったのか、紫野はすぅっと笑みを消し、答えるまでに時間を要した。
「…………大体は。……ごめん」
「……いえ。紫野さんは、私のことを軽蔑しないんですか?」
「しないよ」
即答だった。
「それにもう終わったことだよね?それとも……前の彼に、まだ想いが残っていたりする?」
「それはないです。今は、もう別の……」
「別の、何?」
他に好きな人ができたと言ったら、呆れられてしまうだろうか。
紫野が続きを待っているので、早く何か言わないと。
「……別の存在、……小麦だけと生きていきます」
揺るがぬ意思で告げると、紫野が一瞬だけ黙った後に、夜風に紛れそうな静かな声音で尋ねてきた。
「……結婚願望はないんだっけ……」
「結婚は……、そうですね。好んでしたいとは、今は思えません。プロポーズイコール結婚詐欺、結婚指輪イコール首輪くらいに思うようにしています」
これは海里の言だ。
あの三ヶ月で、みっちり頭へと叩き込まれた。
二度と間違いを犯さないように。
「結婚詐欺と、首輪……」
「それにどちらにしても、相手がいないので結婚なんて私には関係のない話です」
紫野はしばし難しい顔で思案してから尋ねてきた。
「相手がいたら、その考えはかわる?例えば、誰か好きな人ができたりとかして――」
不意打ちに顔を覗き込まれ、雛菊は心臓が言うことを聞かずに激しく脈打った。
素直な反応で熱が顔へと集まり、虚を突かれたように目を見張る紫野から急いで目を逸らした。
しかし次の瞬間、問答無用で顔を挟み込まれ、目を合わすように彼の方を向かされた。
狼に似た琥珀色の瞳がうっとりと細められ、唇が綺麗な弧を描く。
「ひーなちゃん」
「あの、離してっ……」
鼓動が加速し心臓が持たずに、ぐいぐいと、彼の意外と固い胸板を押すが、いっこうに抜け出せない。
「だめ。一つ、聞きたいことがあるから」
「な、何ですか……?」
「僕に触られるの、嫌?」
しっかり触っているどころか、痛くないように手加減されているにしてもがっちり顔を挟んでおいて、今さら嫌も何もない気がする。
「この間、触らないでって言われたから」
「あ、あの時は――」
「嫌われたかと思った」
「え」
「でも今の反応で、嫌われていなかったことがわかった」
「え?」
切ない表情になったり、嬉しそうにしたり、紫野の目まぐるしい変化についていけずに、雛菊は混乱しながらも、どうにか逃れようと顔を振るが微々たる動きしかできなかった。
「それで、嫌?」
今度は照れたように尋ねられて、雛菊は瞳だけそっぽを向かせ、正直に白状するしかなかった。
「嫌じゃ、ない……です」
紫野はにこりとすると、ようやく顔を解放してくれた。
「仲直りしよう?」
喧嘩していた訳ではなく、雛菊が一方的に避けていただけなので、彼を悩ませていたのかと思うと申し訳なくなった。
差し出された手を、そっと握り返す。
「……はい」
「よかった」
なぜか握手したまま離してはもらえず、雛菊は顔を火照らせながら手を引かれて歩いた。
相手がいたら、また結婚したいと思えるのだろうか。
ちらりと紫野を仰ぐ。
彼とだなんて、きっと想像しただけで天罰が下る。
「急がないから」
唐突に言われて目を瞬いた。
「何をですか?」
柔和な笑みが雛菊を向く。
「混乱するだろうから、今は言わない」
「……?」
優しく包み込む手のひらが温かい。
(安心する……)
こうして手を繋いで、のんびりと夜空を眺めながら歩いていると、ここに居場所があるのだと、ここにいていいのだと、許されているような不思議な心地がする。
前は少し背伸びをしていたのかもしれない。
嫌われないように、必死だった。
努力しなくてはふられてしまうと、いつも怯えていた。
彼のことは好きだったが、いつかは破綻していたのではないかと、今ならわかる。
紫野には初めから、ひったくりに遭ったり、転んだり、梓に拾われたりと、情けない部分ばかりを見せていたからか、飾らないでいられたのかもしれない。
この関係が続けばと、浅ましくも思ってしまう。
アパートの前まで来ると、名残惜しく紫野と結ばれた手を解いた。
彼もそう感じていてくれたら嬉しいのだが、実際は道の先を険しい顔つきで見据えていてこちらを見てはくれなかった。
「何か……ありました?」
雛菊もそちらへと目を向けたが、特に何も変わった様子もなく、閑散とした夜の町が佇んでいるだけだった、
紫野は柔らかな笑みをして、首を緩く振る。
「何でもないよ。ちょっと……煩わしい蚊が飛んでいただけ」
「まだ蚊がいますか?」
「いるみたいだね。……部屋の前まで送っていくよ」
身体の向きをくるりと反転させられて、肩を抱くように添えられた手に押されて、アパートの玄関口を潜った。
ポストにはチラシの類いが入れられていたが、転居の届けを出していないので、重要なものは何も入っていないだろうと見過ごすことにした。
紫野もちらっとそちらを窺いはしたが、気にならなかったのか何も言わずに階段を上がっていく。
靴音が響かないようにぎこちなく歩いていると、紫野は少し笑う。……撫子を見るような優しげな眼差しで。
「気にしすぎじゃない?」
「いえ、気になる人は気になりますから、なるべく音は立てないようにしないと」
ひょこひょこ登り切り、部屋の前まで着くと、断られるのはわかっているが儀礼的に「お茶でも」と誘った。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
予想外の言葉に雛菊はぽかんとしたが、慌てて紫野を中へと招き入れた。
普段ならば、何かしらの理由をつけて固辞して帰るのに。
部屋を掃除しておくんだった、と今さらな後悔をしながらお茶を入れる。
紫野は和室の窓から外を眺めていて、雛菊が二人用の小さなダイニングテーブルにお茶を置くと、カーテンを閉めて電気を消し、戻ってきた。
「中が明るいと外から丸見えだから、夜はカーテンを閉めておいた方がいいよ」
防犯意識が高そうな紫野の言うことなので、今度からしっかりと閉め切ることを決めた。
殺風景な室内で、向かい合ってお茶を飲みながらまったりと過ごしていると、あっという間に時間が過ぎていった。
「あ、紫野さん。銭湯の時間が終わっちゃいませんか?」
紫野はちらちら時計へと目を遣っていたのに、お風呂のことは頭になかったらしい。
かといって入らない訳にはいかない。
近寄らなければ気づかないが、ほぼ全身細かな毛まみれで、申し訳ないが……獣臭い。
「シャワーでいいなら、うちで浴びていきますか?」
紫野は真顔になると、
「そういうことは、他の人に絶対に言わないこと。いい?」
「は、はい」
「でも申し訳ないけれど、借りていってもいいかな?」
「ど、どうぞ」
海里がこちらに来たら泊まれるように、いくつか服を用意しておいて助かった。
浴室に案内し、着替えとタオルを置いてそそくさと脱衣場を飛び出した。
紫野がその挙動に、くすくす笑っていた気がする。
真っ赤になった雛菊は、すっかりと冷めたお茶を啜ってため息をついた。
シャワーの水流が肌にあたる場所がずれるたびに、打つ音の響きをくるくると変えて、落ち着かない。
意外と壁が薄いのか、リビングが静寂過ぎるせいなのか。
(テレビでも点けようかな……)
全く内容の入って来ないドラマを眺めて意識を散らしていると、タオルで髪を拭きながら紫野が現れた。
濡れた前髪越しに目が合うと、なぜか妖艶に微笑む。
できればその色気は、どこかに隠しておいて欲しかった。
「服は洗って返すね」
「あ、はい。紫野さんの着てきた服は、うちで洗っても問題ないですか?」
「さすがにそこまで甘える訳には……」
紫野は渋ったが、雛菊は珍しく強引に押し切った。
服を入れれるような、ちょうどいい手提げ袋を持ち合わせていなかったからだ。
レジ袋では、さすがに申し訳がなさ過ぎる。
「ドライヤーは洗面所に……」
「いいよ。そろそろ帰らないと、梓あたりがやきもきしていそうだから」
「やきもき?」
「そう。雛ちゃん家にこうしてあがって――」
黒紫野の、にぃとした笑みが近づいてきた。
のけ反る雛菊の髪を一房掬い、
「いけないことをしてるんじゃないかって、ね」
やや腰を屈め、間近で顔を突き合わされて、雛菊は心臓が暴れて止まってしまう前に、慌てて彼の肩を両手で押した。
髪がつんと引っ張られ、彼の手のひらから、するっと滑り落ちる。
「近づかないでください……!」
紫野は押された肩を竦めると、「嫌だった?」と聞いてくる。
「……嫌、というか……」
(困る……)
俯いた頭に紫野が手が伸びかけて、ふと思い直したかのようにとまる。
見上げると、紫野が苦笑して彷徨わせていた手をぐっと下ろした。
「……早まるな……」
「……?」
「戸締まりは、しっかりね」
「はい……」
彼はスニーカーを履きながら、「こういうのもありかな……」としみじみとした呟きをもらした。
「おやすみ。また、明日ね」
「はい。おやすみなさい」
手を振り見送った紫野が、一度思い出したかのように振り返って、チェーンを指でとんとん叩いてから、にこりとした。
閉まりゆくドアを見つめながらしばらく余韻に浸って、ぼぅっしていた雛菊は、我に返ると指示通りに鍵とチェーンをしっかりと掛けた。




