14
今後どうすべきか決めかねていた雛菊だったが、店に下りていくと、紫野はトリミングの空いた時間にパソコンを開いたり長電話をしたりして忙しくしていて、なかなか話をする機会も余裕もなかった。
時間の経過と共に指の痛みは緩和してきたが、思い詰めたことにより血の気が引いて顔は蒼白に近い。
責任を取って辞めることは拒否されてしまったので、このままここにいるしか選択肢はなかった。
嬉しい反面、紫野に過去の罪を知られてしまう恐怖が残されたまま解決せずに、生殺し状態が引き延ばされただけのような気がして、いっそう顔色が悪くなった。
途中抜けた分、閉店業務の手伝いまでして、トリミング室の床に箒をかけてながら、雛菊は重たいため息をついた。
「……痛む?それとも、僕と二人きりだとつまらない?」
紫野はトリミング台を消毒して拭きながら、寂しげな呟きをもらした。
「指はもう平気です。それにつまらない訳では……」
「大事になる前に辞めさせてもらいたかった、って思ってる?顔に書いてあるよ」
(鋭い……)
「雛ちゃんに過失があった訳ではないんでしょう?」
その言葉だけで、雛菊の心に溜まった鬱屈した澱が、残らず晴れ渡っていくのを感じた。
「信じて、くれるんですか?」
紫野は宥めるように微笑んで頷いた。
「信じるも何も、それが真実だから」
やけに確信を持った言い方だった。
証拠なんて、何一つありはしないというのに。
それでも信じてくれていると言われただけで、心がじんわりと温かくなった。
だがすぐに、雛菊の顔は曇っていく。
「……でも、私がいたら」
「お客様は雛ちゃんを辞めさせろの一点張りだったけど、一応今日のところは納得してお引き取りして頂いたから大丈夫。それに何とか、対処の目処もつきそうだから。ね?」
しかし結華が納得してくれるとは思えない。
雛菊が辞めるまで、何度も来店するのではないだろうか。
不安に心を絡め取られていると、紫野がどこか神妙に問いかけてきた。
「雛ちゃんさ、バニラのこと以外で、お客様と何かあったでしょう?」
「え!?」
誤魔化す間もなく、驚きの声を上げてしまった。
これでは肯定したも同然だ。
「昨日から様子がおかしかったからね。それもチラシ配りに行ってからだから、何かあったのかと思うのが普通だよ。言いたくなさそうだったから、聞かなかったけど」
初めから何かを感づいていて、これまで黙っていてくれたらしい。
そんな雰囲気は一切感じられなかったというのに。
「素直な反応だね。僕はこういうことには慣れているから、はっきり言うこと。余計ややこしくなるから、正直にね」
言えるはずもなく、雛菊は口を閉ざして沈黙を貫いた。
「……意外と頑固?」
頑な雛菊が俯いていると、紫野は顔を覗き込んできた。
瞳が綺麗だなと見つめていると、頬がだんだん熱を持ち、直視できなくなり慌てて逸らしかけた。
しかしそれを咎めるように、額がこつんとぶつけられてしまった。
「ひぁっ!?」
痛くはないが、体温が直に伝わり胸のあたりに心地よい疼きが生まれる。
額をくっつけたまま視線を合わされて、紫野は黒い笑みで口角を上げた。
「顔、赤いよ」
「うぅ……」
こればっかりは仕方ない。
あまり耐性がないのだから。
紫野にとっては撫子とじゃれ合うような感覚かもしれないが、雛菊にとってはそうではない。
悩みが弾け飛ぶほど、意識が眼前の紫野へと集中してしまう。
意図的にそうさせられているのだろうか。
余計なことを考えずに、目を見てしっかりと白状しろ、と。
しかし吐息が触れる距離で異性と会話できるほど、豊かな恋愛経験を積んでいない。
間違って変なことを口走ってしまいそうだ。
「ずっと、このまま……」
――――ここにいたい。
それだけを伝えたかった。
すると紫野は、何かがふつりと切れたように、急性に雛菊の腰に腕を回して引き寄せた。
雛菊を見つめる瞳が、穏やかさの欠片もない獰猛な獣のように光っている。
「え?――――えっ!?」
急激な変化に戸惑う間もなく、そっと頤に指をかけられた。
顔を背けようにも、力の差が歴然で微動だにしない。
額が触れているのに、くいっと上を向かされかけて、雛菊は困惑した。
そんなことをしたら唇が――――。
その時だった。
入り口のドアが乱暴にに押し開けられて、さらにはトリミング室のドアが全開する。
息を切らし、眦を吊り上げ、綺麗な顔を台無しにして飛び込んできたのは、一度帰ったはずの結華だった。
彼女の登場に驚き、紫野の胸を押した雛菊とは打って代わり、彼は名残惜しそうに身体を離した。
心臓が暴れているのが、服の上からでもわかる。
抱き締められた力の強さは、男の人のそれだった。
そんな場合ではないのに、意識せずにはいられず火照った顔を俯けた。
なのに紫野はただならぬ雰囲気を感じさせる、少し艶とした微笑を作っている。
「……これ、どういうこと?」
雛菊ですらキスされると勘違いしたのだ。結華もきっとそうなのだろう。
「すみませんお客様。営業時間は終了しておりましたので」
「どういうことよ!」
「……おそらく、お客様のご察しの通りだと思いますが。お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」
素直に謝罪する紫野に、結華はキッと雛菊を睨みつけると、約束などなかったかのように、決定的な言葉を吐いた。
「いつもそうやって男をたぶらかしてるの!?奥さんのいる男を落として飽きたら次の男?この淫乱女!さっさとここから出てきなさいよ!」
さすがにその暴言は胸へと深々突き刺さり、気持ちが塞いでいった。
そんなことはしていないと言わなくてはならないのに、唇は震え、言葉も喉でつっかえでてこない。
「紫野さんは、清純なふりしたこの女に騙されてるんです!」
切々と訴える結華に、紫野はにこりとして首を横に振った。
「騙されてはいませんよ。彼女を雇う際に、前の会社を退職した理由をきっちりと調べましたので」
(……え……?)
雛菊は想像もしなかった驚愕に、瞠目したまま固まった。
(知って……た?)
言われてみれば、バイトであっても前職を辞めた理由を気にするところもあるだろうし、雛菊の場合、調べれば簡単にわかることでもあった。
それにしては、採用が即決であった気がするのだが――――。
(あ、もしかして……あの時の電話が?)
初めて自宅に招かれた時、紫野は誰かと電話で話している様子だった。
親しい人との会話ではなさそうな固い声だったので、妙に記憶に残っている。
まさかそれが……?
切り札が無駄だと知り、結華は動揺を露にしていた。
「そんなっ、でも……!この人はバニラを乱暴に扱ったんですよ!?そんな人のいるところに、大切な愛犬を預けたくはないです!」
紫野はそこも、やんわりと否定する。
「申し訳ありませんが、当店としましては、そのような事実はなかったと判断しております。お客様にそのような誤解を与えて、不快な気持ちにさせてしまったことにつきましては、店長として心よりお詫び申し上げます」
全面的に雛菊の言い分を認めたことに、結華と同じくらい驚いた。
信頼されていると、思ってもいいのだろうか。
「わ、わたしが嘘をついてるって言うの!?」
「双方の意見に食い違いがあるようなので、映像を見て判断させていただきました」
「……映像?」
「申し訳ありません。割りと見てわかるところにつけたのですが、あそこに防犯カメラが……」
「「えっ……!?」」
雛菊は結華と揃って、呆けた顔を店内の片隅へと向けた。
そこには天井から店内の様子を静かに見守る、防犯カメラが佇んでいた。
なぜそのことに気づかなかったのだろうか。
予期せぬ出来事だったせいか、二人ともそこまで頭が回らなかったと言うしかない。
「映像を確認しますか?」
さっと結華の顔から血の気が失われた。
映像を見たら何が事実であったか一目瞭然だ。
雛菊を追いつめる要素はもうなく、紫野に嘘も露呈した。
「……っ!」
結華は雛菊を睨んでから無言のまま店を出ていき、静寂に溶け込むように紫野の深いため息が落とされた。
「よかった……。あのカメラ、実は偽物なんだよね」
「えっ!?だったら――」
「そう。実際は映像なんてないから、見るって言われたらどうしようかと思った。……彼には頼りたくなかったし」
「彼?」
「こっちの話。――――あ、ペットホテルについている防犯カメラは本物だからね」
ペットホテルに預けられている子たちの様子確認や盗難防止のため、そちらは本物だと言う。
店側は犯罪抑止用の精巧な偽物らしい。
そんなことよりも、と雛菊は切り出した。
「私のことを、知ってたんですか……?」
ばつが悪そうに、紫野は頷いた。
「まぁ、ね」
「そんな人間雇っていて、いいんですか?客足に響いたりとかは……」
すると紫野は、大袈裟にため息をついてみせた。
「そんなことぐらいで敬遠されるほど、飼い主さんたちとも愛犬たちとも、信頼関係は薄くはないよ」
……どうやら怒っているらしい。
自分のことで精一杯で、そこまで考えてはいなかった。
愛犬を預けるのだから、信頼が第一。そんなことは当たり前だった。
おまけのような雛菊が憂うこと自体が、そもそも間違っていたのだ。
しかし安堵と同時に、過去を知られていたショックが、じわじわと追いついてきた。
普通ならば蔑む。なのに、彼は初めから一貫して優しかった。
だったらこれまでの優しさは、もしかして同情だったのだろうか。
婚約者に騙され、慰謝料まで取られた馬鹿な女だと、憐れまれていたのだろうか。
「想定外の事態だったけど、大事に至る前に対処できたかな……。雛ちゃんを、利用したくはなかったんだけど……」
紫野がほっとしたように呟いた。
彼女を誘い出すためか、激昂させるためか、どちらにしても雛菊はいいように使われたらしい。
それもそうだ。紫野が雛菊相手に、あんなに情熱的にキスをしようとしてくるはずがない。
どきどきしていたさっきまでも自分が酷く滑稽で、いたたまれなくなった。
「もう悩まなくてもいいよ。だから、さっきの続――」
抱き寄せるように伸びてきた腕を、雛菊はするりと躱した。
「触らないでください!」
誤解してしまうようなことはやめて欲しい。
慰めでも、悲しい。
驚いた顔をした紫野から目を逸らし、雛菊はその場から立ち去った。
こんなペットサロンありません!フィクションです。




