13
退職願いを抱えたまま切り出せずにいたところへ、雛菊の様子を窺いにバニラを連れた結華がもふもふ堂へと訪れた。
まだ働いていたことに、顔をしかめたが、すぐにトリミング室にいる紫野へと溌剌とした笑顔を見せて手を振った。
紫野は会釈すると、すぐに集中してカットを再開する。
結華は彼をしばらく見蕩れてから、くるりと雛菊を向いた。
一転して表情はきつい。
バニラもキャンキャンと甲高く吠えてくる。
何もしていないのに、完全に嫌われてしまったようだった。
「まだ辞めてないの?」
詰め寄られた雛菊は、かすかな声で「……はい」と返事をした。
「さっさと辞めてよね。あなたみたいな常識知らずが、いていい場所じゃないでしょ?」
「……はい」
埒があかないと思ったのか、彼女は雛菊をそのままに椅子へとかけた。
頬杖をついて、紫野を眺めている彼女へと、おそるおそる尋ねた。
「本日はどういったご用件で――」
「あなたに接客なんてされたくないわよ!」
結華がテーブルに拳を打ちつけて怒鳴る。
それに驚いたのは雛菊だけでなく、バニラもだった。
突然の打音に興奮して暴れだし、何とか落ち着けようと骨型の玩具を持ってきたのだが、全く見向きもされず、それどころか手を出したせいで指を思いきり噛みつかれてしまった。
「っ……!?」
頭は混乱して真っ白で、対処なんて何も浮かばず、それでも指先の痛みで反射的に腕を引いた。
バニラの犬歯が貫いた中指と薬指の皮膚から、ぷっくりと血がにじみ滴り落ちた。
未だ錯乱状態のバニラの鳴き声に異変を感じたのか、紫野が飛び出してきた。
そして手を庇う雛菊に目を見開く。
「見せて」
ぐいっと手を取られて傷口を検分した紫野に、水で洗って来るように指示された。
一番近い水道がトリミング室の浴槽だったので、そこで血が止まるまで冷水で洗い流した。
(痛い……)
傷自体は大したことがないように見えるが、熱を持ち、殴られた後のようにじんじんと痛む。
それに指が上手く曲がらない。
こんなに痛いものなのかと、初めて知った。
紫野の腕にも噛み傷の古傷がある。
土日しか代わりがいない紫野は、怪我をしても痛みを耐えて、最後まで仕上げなくてはならない。
その後にまだシャンプー前の子がいたら、水にも触れないといけない。
きっと治りも遅くなる。
噛みつかれても飼い主に治療費を請求する訳にもいかないから、彼はなるべく怪我をしないことを心がけているのだろう。
バニラは触ってはいけないと言われていたのに、何とか落ち着けさせれると過信した。
(情けない……)
雛菊は血が止まったことを確認して水を止めた。
トリミング室を出て店内へと戻ると、結華が泣きながら雛菊を睨みつけて、バニラを庇うようにきゅっと抱き締めた。
少し離れている間に、何があったのだろうか。
結華は雛菊に指を突きつけると、激昂して言い募った。
「その人がバニラを怒らせたのよ!ちょっと噛みついたからって、乱暴に振り払って!」
「え……」
バニラを怒らせた覚えも振り払った記憶もなく、呆然として立ち尽くしていると、紫野は雛菊の背を、二階へと続くドアの方へとやんわりと押した。
「悪いけれど、先にお客様の話を聞くから、上で待機していてくれる?消毒と絆創膏は自由に使ってくれていいから」
「……はい」
さめざめと涙をこぼす結華を宥める紫野を、一度すがるように見つめてから、雛菊は泣きたいのを我慢して背を向けた。
リビングのソファに座り、救急箱から消毒を取り出すと、ティッシュを零れないようにあてがい傷口へとかけた。
オキシドールだったので、しゅわしゅわと細かな泡が次々に膨らむ。
痛みは増したが、この泡沫を眺めていると、不思議と安心感が大きい。
撫子が心配して傍へと寄ってきてくれたが、消毒を使っているので、「来ちゃだめだよ」と言い聞かせた。
ローテーブルの向かいへと移動してお座りした撫子に、雛菊は弱々しく微笑んだ。
「心配してくれるのは撫子だけだね」
彼女はぴくぴくと耳が動いて、きちんと話を聞いてくれている。
「撫子は優しいね」
雛菊は仕上げに、二本の指へとそれぞれ絆創膏を巻き、救急箱をぱたんと閉めた。
「私……クビ、かな」
結華の言い分を全面的に信じたら、まず間違いなくクビだろう。
紫野は片方だけの意見を聞くような人間ではないとは思うが、相手はお客様だ。どうなるか、わからない。
紫野は動物第一に考える。
彼は怪我なんて慣れているかもしれないが、少しは心配をして欲しかった。
それに……バニラを振り払う人間だと思われてしまうのだろうか。
それは悲しいし、嫌だ。
どうせなら失望される前に、辞めておけばよかった。
膝に顔を埋めていると、玄関の音がした。
ただいまと言う声がないので、きっと梓だろう。
彼はリビングに入ってくると、顔を伏せた雛菊から救急箱へと目を移して、この状況を把握したらしい。
「大丈夫?」
「……うん」
答えると梓は、肩からかけた鞄を椅子に置いてから、冷蔵庫を開けると、ペットボトルからお茶をコップについでごくりと飲んだ。
「……帰り、早かったね」
ぎこちなかったかなと思ったが、梓は普段通りに返してきた。
「午後シャンプー犬だったから、早く終わった」
「そうなんだ……」
「お茶、飲む?」
訊かれた途端、喉がからからだと気づいて頷いた。
感情をあまり露にしないが、よく気の利く青年だ。
雛菊も多少、彼の表情を読むことができるようになった。
今はたぶん、少しだけ眠たげ。
お茶を飲んでいると、梓が撫子へと問いかけた。
「撫子。わたあめは?」
撫子はすくっと立ち上がるとリビングを出ていき、しばらくしてからわたあめを口にくわえて帰ってきた。
(だ、大丈夫なの……?)
雛菊と反対側のソファにかけた梓の足元へと、優しく下ろされたわたあめは、きょとんとした顔をしていた。
「兄貴には内緒だからな」
梓はそう言って鞄から何かを取り出した。
ガサガサという袋の音だけで何かわかったのか、わたあめが目をキラキラと輝かせ、彼の足へとしがみつく。
袋は市販の犬用のおやつで、梓はそれを二匹にそれぞれ与えた。
伏せをして前肢でおやつを挟む二匹は、くちゃくちゃと懸命に食み食みしている。
これこそまさに癒し。
雛菊は指の痛みを忘れて、二匹が紫野に隠れておやつを食べる様子を目を細めて見続けた。
「市販のおやつあげると兄貴怒るから、内緒で」
「うん。人間と同じで、たまにはジャンクフードも食べたくなるよね」
「そう。……ファーストフード店のポテトはやたら美味いし」
「ポテト?」
「じゃがいもは、カボチャの次に美味いと思う。でも、カボチャに一歩及ばない理由は、デザート分野に進出できないからだ。――――カボチャプリンが最強過ぎる」
梓のカボチャ愛を聞いていると、紫野が階下から上がってきて、雛菊は身を固くした。
その機微を感じ取ったのか、腰を上げかけていた梓は居座ることに決めたらしい。おやつを食べ終え満足げなわたあめを、膝の上へと乗せた。
撫子は優雅に伏せたまま、紫野へとしっぽを振っている。
「梓、早かったね」
「ピレ、ダックスだったから」
「……それは確かに早いね」
短い会話で通じ合ったらしく、紫野は梓の隣に腰を下ろすと、少し難しい顔をして尋ねてきた。
「まず、怪我は大丈夫?」
雛菊は右手を隠すように左手で覆った。
「……はい。平気です」
本当はまだ痛いし、発熱している。
だが、それを言ったところでどうにもならない。
「そう、痛みが引かないようなら早めに病院に受診してね」
「はい」
きっと病院に行くほどではない。
紫野や梓ならば、行かないだろう。
紫野は雛菊の症状確認を終えてから、ようやく口火を切った。
「それでバニラのことだけれど、怒らせて振り払ったっていうのは本当?」
確認のためとはいえ、こうして聞かれると信じてもらえていないようで悲しくて胸がじくじくと疼く。
「怒らせても、振り払ってもいません。……でも、興奮したバニラを落ち着かせようと、余計な手出しは……しました」
「そっか……」
頷いたきり浮かない表情をする紫野に、梓が首を傾げた。
「何だ、兄貴。客と意見が食い違ってるのか?」
「……まぁ、有り体に言えばね」
「それで、向こうは何て?」
「…………雛ちゃんを辞めさせて欲しいと」
やっぱりそう来るのかと、雛菊は事前にそう要求されていたからか冷静に受け止めていた。
「また面倒な」
「すみません……。私がいけないんです。私が辞めれば――」
言いかけた言葉へと、紫野がすかさず被せてきた。
「それはだめ」
「え、だ……だめ?」
まさかだめの一言で終わらされるとは思っていなかったので、間の抜けたおうむ返しをしてしまった。
顔は鳩が豆鉄砲を食らった感じに仕上がっているはずだ。
「だめ。今さら辞められても、困る」
あまり役立つ人間でなくても、急に辞めるといわれたら確かに困るかもしれない。
雛菊は自分のことばかりで、そこまで考えていなかったことを恥じた。
紫野に向けられる視線が妙に黒く、背筋が凍えそうだった。
きっと無責任過ぎて、怒らせてしまったのだ。
雛菊は、追い詰められた野うさぎのように身体を竦ませた。
すると彼は、ごく小さく何かを囁いた。
「頃合いを見計らって、……う就職させるつもりだったし」
するとお茶を飲んでいた梓が、うぷっと吹き出しかけて、何とか堪えた。
しかし揺れたコップからぽたぽたとお茶が零れて、わたあめがぴょんっと逃げ出した。
雛菊が慌ててティッシュで彼のジーンズを拭いていると、紫野が至福そうに目を細めて呟いた。
「姉弟みたいだね」
「いや、待て兄貴。外堀から埋めようとしなくても、俺は別に反対はしてないから」
「僕も、反対はしていないから」
それを聞いた瞬間、梓は珍しくさっと頬を赤く染め、唇を結んで紫野を恨みがましく睨めつけた。
「もちろん、泣かせたら許さないけど……ね」
黒く微笑む紫野とむすっと拗ねた梓の兄弟の会話に入っていけず放置された雛菊は、静寂に紛れながら、さっきの彼の言葉を頭で反芻していた。
(何とか就職って言った……?正社員として雇ってくれるつもりだということ?)
しかし雛菊にそんな資格も資質もない。
後数ヵ月もすれば梓が就職するし、店の負担にならないようにバイトで満足だった。
それに今はまだ、失職寸前であることに変わりはない。
いくら今回の件で紫野が辞めることに異を唱えても、雛菊にはまだ隠していることがある。
膝へと目を落とすと絆創膏の貼られた指が、いっそう惨めさを醸し出していた。
「そろそろ店に戻らないと。雛ちゃんは少し休んでからおいで」
紫野が席を立ち、雛菊は結局口を開けないまま彼を見送った。
梓にはしっかりと、「永久就職」と聞こえていました。




