12
「あ、チラシ!」
見慣れないB5サイズの紙束がカウンターに積まれているなと思って近づくと、それはもふもふ堂の宣伝用チラシだった。
綺麗にカットされた犬たちが惜しげもなく印刷されて、ぱっと見でペットサロンの広告だとわかる。
料金やメニューは簡単な表になっていて、アクセス方法、営業時間、定休日、電話番号などは隅にまとめて記されていた。
全体的に可愛らしい印象なのに、屋号が看板と同じ字体なせいで、雛菊は一瞬、言葉を失った。
「そこは気にしないで」
紫野はこの屋号についてだけは、頑なに口を閉ざす。
あえて聞き出そうとはしない雛菊だが、その内ほたるあたりに尋ねてみようかと思っている。
「今日は予約も少ないから、悪いけれどこれを配って来てくれる助かる」
もふもふ堂を世間の人にもっとよく知ってもらうために、雛菊はチラシを抱えると、やる気に満ちた眼差しを紫野へと向けた。
「…………押し売りはやめてね」
「……はい」
捨てられてしまっても悲しいし、興味を持って受け取ってくれる人にだけ渡そうと決めて、雛菊はチラシ配りへと出掛けることにした。
駅前には、英会話教室のティッシュ配りの若い女性が二人いた。
雛菊は彼女たちから距離を取り、一応ペットを飼っていそうな人を選んでチラシを配っていく。
断られたり無視されたりも多いが、受け取ってもらえると、あぁこの人も愛犬家なのかなと想像したりする。
どんな子を飼っているのかとかなども併せて思案すると、より楽しくなる。
そして半分ほど配り終えた時だった。
「――――西奈さんじゃない?」
突然名前を呼ばれて、雛菊は無意識に振り返り、そこにいた女性を目にして驚いた。
前の会社の同僚だ。
会社から遠く離れたこんな場所で昔の知り合いに会ってしまうとは、夢にも思っていなかった。
彼女もびっくりした顔をして雛菊を凝視していたが、すぐに嫌悪で眉根を寄せた。
既婚女性社員から、すこぶる嫌われていたので仕方なくはあるが、未だに傷は塞げずじくじくと痛む。
「何でここに?……それは?」
大事なチラシを一枚、ピッと強引にもぎ取られてしまった。
「会社を辞めて、今はチラシ配りのバイト?」
雛菊はそこであえて否定せず、曖昧に誤魔化した。
もふもふ堂とは関係ないと思ってくれたのならば、その方がいい。彼らまで、自分のせいで貶められてしまわないように。
「ふぅん……。あなたさっさと辞めたから知らないと思うけど、最近まで彼氏、会社にあなたの行方を尋ねに来てたわよ?」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
目を見開く雛菊に、彼女は皮肉っぽく続ける。
「奥さんと別れたって。よかったじゃない。連絡してあげたら?」
言いたいことを言い切ると、彼女はチラシを折り畳み、鞄の中へと無造作に入れた。
そして茫然とする雛菊を残し、まばらな駅内へと歩いていった。
その後ろ姿が見えなくなっても、雛菊は頭の中が真っ白でまともに考えがまとまらない。
(奥さんと別れた……?)
何も知らなかった。
足に力が入らずよろめき、傍にあったベンチへと腰を下ろす。
海里に言われて、スマホはすぐに解約して新しい物に変えたし、前のアパートもすぐに引き払った。
それに、しばらく転がり込んでいた海里のアパートの場所は、初めから彼には教えていなかった。
それは彼との付き合いを、海里が怒濤の勢いで猛反対したせいだ。
付き合っていることを隠していたことにもだが、「ねぇちゃんを選ぶやつなんて、どうせろくな男じゃない」と、彼の素行を徹底的に調べ上げるほどに激怒した。
そんな様子の海里を彼に紹介できるはずもなく、その前に調査報告書によって既婚者だと判明した。
海里が言った通りの、ろくでもない男だったのだ。
それを見てすぐは、とても信じられなかったが、問い詰めると彼は素直に認め、お決まりの台詞を口にした。
――――妻とは別れる。だからもう少し待ってくれないか、と。
雛菊はそれを拒絶した。奥さんのいる人とは付き合えない、と。
別れを切り出すと、今度は他に好きな男ができたのかと詰め寄られた。
周囲にあることないこと嘘を織り交ぜ吹聴し、二人の関係を明確なものにしようとした。
本当は、深く結ばれた関係ではなかったというのにだ。
今さら誰に話しても信じてもらえないだろうが、お金も心も時間も奪われはしたが、唯一無事なものもあった。
雛菊はやんわりとだが断固として、婚前交渉だけは拒絶していた。
古い慣習の残る、超ど田舎で育ったせいか、結婚するまでは純潔を守り通せ!と物心ついた頃から延々と洗脳され続けたせいだ。
もちろん、この年にもなって……、という悲しさもある。
そんな清い付き合いだったが、その一線を守ってくれていたことに関してだけは、誠実な人であった。
あの時、彼を信じて待っていたら、結果は変わったのだろうか。
(……聞きたく、なかったな)
もふもふ堂のチラシを胸に抱き、雛菊は吹きつける秋風にふるりと肩を震わせた。
背後で白いチワワが、こちらを黙って見ていたとなど、知らずに。
長くかかってしまったチラシ配りを終えてもふもふ堂へと戻りかけた時だった。
後ろからキャンキャンと吠えられ、雛菊は振り返ると、そこにはバニラと、飼い主である結華が立っていた。
(いつの間に……?)
雛菊の疑問などお構いなしの結華は、いつにも増して剣呑な雰囲気だ。
知らない内に何かしてしまったのかと動揺する雛菊をよそに、彼女は侮蔑のこもった口調で、思いもよらないことを口にした。
「あなた、不倫で会社をクビになったんですって?」
内容が頭に沁み渡ると、弾かれたように身を強張らせた。
(……何でそれを)
結華は眦の上がった冷たい眼差しで雛菊を見て、くいっと口角を吊り上げた。
「さっき駅前で話しているのを聞いちゃって。――――あなたの同僚、口軽いわね」
それで理解した。
わざわざ彼女に事実確認をしたらしい。
雛菊は羞恥と後ろめたさに押しつぶされ、悲壮な顔を俯けると、足元で吠えるバニラへと目を落とした。
「そんな人を雇うなんて、それこそお店のためにならないんじゃないの?」
雛菊はびくりと肩を震わせた。
結華は松岡様に言われたことを根に持っているような口ぶりだ。
確かに雛菊のような人間がいると知れれば、客足に響くかもしれない。
それに、もふもふ堂も利益を上げていても、儲かっている訳ではないのだ。
「不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません……」
雛菊は深々と頭を下げた。
「認めるのね?」
「…………はい」
言質を取ったとばかりに、結華は雛菊を責め立てた。
「こんな人がいるところに、うちのバニラは預けたくないわ!今すぐ辞めて!」
「でも――」
「でも、何なの?きっとわたしだけじゃないわ。ペットサロンって女性客が多いでしょ?皆、敵に回すことになるわよ」
溢れそうになった涙を堪えていると、視界の端に紫野らしき姿が映った。
通りをこちらへと向かって来る。
なかなか帰らなかったから、心配して様子を見に来たのかもしれない。
結華も彼に気づいたのか、雛菊の耳元へと顔を寄せ、潜めた声で言った。
「すぐに辞めないと、彼にバラすわよ」
「っ、それだけは……!」
どうしても嫌だった。
紫野にだけは、嫌だった。……知られたくない。
雛菊に向けてくれる微笑みが、別のものに変わってしまうと想像するだけで胸が苦しい。
冷たい目で見られるくらいなら、まだ会えない方がましだ。
結華はにこりと笑みを深めて、「じゃあどうすればいいかわかるでしょ?」と告げると、怪訝そうな紫野に手を振って呼んだ。
「……何を?」
紫野は戸惑い混じりに、結華へと問いかけた。
「彼女がちょっと、体調悪いみたいでぇ」
事実、端から見ても明らかに顔色の悪い。
その嘘を紫野は信じたのか、雛菊の情けない顔を覗き込んでくる。
「まさか、薄着でチラシ配りをさせたせいで、風邪を引いた?……熱は?」
「いえ、……平気です」
雛菊は首を振り紫野から距離を取るように身を引く。
こんな風に、心配される資格なんてない。
結華が含みのある一瞥をしてから、紫野に言った。
「それじゃあ、また今度バニラをお願いしますね〜」
ええ、と紫野は会釈をして彼女を見送ると、もう一度雛菊へと尋ねた。
「……大丈夫?」
「……はい。あ、お店は……」
紫野がここにいるということは、店に誰もいないことになる。
「ちょっとだけ閉めてきた」
「そんなっ、すみません!」
さっさと帰らなかったばかりに、迷惑をかけてしまった。
申し訳なさといたたまれなさで泣きそうになったが、ぐっと堪えた。
「気にしなくていいよ。まだ五分程度しか経っていないから。……それより、もう今日は帰る?」
「……いえ」
これが最後だと思ったら、帰りたくはなかった。
「わかった。でも今日は忙しくないし、早めにあがってもらうね」
気を遣ってくれる紫野の温かさに甘えながら、雛菊はどうするべきなのかぐるぐる悩みながら、彼の後を追ってもふもふ堂へと帰りついた。
しかし、何て言って辞めればいいのだろうか。
円満に……は、無理かもしれない。
きっと、これまでの恩を仇で返すことになる。
紫野は、失望するだろうか。
期待してくれているとは思っていなかったが、ここまで真面目に従事してきたというのに。
(どうすれば……)
「……――雛ちゃん!」
耳元で怒鳴られて、雛菊ははっとして紫野を見上げた。
「だから、体調が悪いなら帰っていいって言ったよね?」
紫野は腰に手を当てて、呆れと苛立ちをにじませている。
『やる気がなければ、クビ』
その言葉が過った。
これでは自分で辞める前に、辞めさせられるかもしれない。
首を竦めると、紫野は、母親が幼い子を言い含めるような声音で言った。
「帰って、部屋を温かくして寝て、また明日出ておいで」
彼はにっこりとすると、そっと頭を撫でてきた。
紫野は優しい。
それは初めからそうだった。
誰に対しても親切で、誰に対しても酷い言葉は言わない。
嫌なことでもきっと、微笑みの下に隠してしまう。
悲しい顔はして欲しくない。
自分のせいで、彼の大切なもふもふ堂に迷惑をかけることはできなかった。
そうなるくらいなら、この癒しの環境を手放す。
辞めたら、もうここには顔をだせなくなるだろうか……。
しかしそれがお店のためであるならば、今言わないと――――。
「あのっ……」
「どうかした?」
労わりのこもった彼の表情に気づいてしまうと、開いた口は意気込みと共に、みるみる萎んでいった。
「……いえ、お疲れさまです」
「お疲れさま。また明日ね」
にこやかに言ってくれた紫野に罪悪感を抱きながら、雛菊はぺこりと頭を下げてもふもふ堂を逃げるように後にした。
まだ明るい時間なのに家に引きこもり、うじうじと悩みながら、雛菊はスマホを手にした。
海里はまだ仕事中だろうか。
じっと暗い画面を見つめていると、思いが通じたのか、海里からの着信がきた。
「海里?」
「…………何かあった?」
雛菊の状況を見抜いているかのように、海里が第一声から問いかけてきた。
「ううん、何にもない」
弟にまで心配をかけてはいられない。
雛菊は必要ないのに首まで振って否定した。
伝わったのか、海里はさらっと流してくれた。
情けない姉に、興味がないだけかもしれないが。
「なら、そういうことにしとく。バイトはどう?」
「うん……。仕事は楽しいよ」
「仕事は、ね。……じゃあ、人間関係には困ってない?ねぇちゃんとろいから、客に怒られたりとかしてるだろ」
「……うん」
「……へぇ。客、か」
海里が不穏な響きの呟きをもらした。
「海里?」
「何でもない。接客業は大変じゃない?素人だから、嫌なこと言われたりする?」
「あ、うん。でもそれは仕方ないし。まだ覚えきれてない私が悪いから」
「……そっち系じゃない、と」
海里は雛菊へと相槌を打ちながらも、他ごとを考えているような雰囲気だった。
まだ仕事の途中だったのだろうか。
すると、「じゃあこっちか」と独り言が聞こえてきた。
「ねぇちゃんは年配の人には割りと受けがいいのに、若い人からは目の仇にされやすいから気をつけなよ。特に、……女の人に」
どきりとして、思わずその場でしゃんと正座して身構えてしまった。
「う、うん。私って、何で嫌われるのかな……?」
ノリが悪いからだろうか。はたまた流行に鈍感なせいか。
「そりゃあ、ねぇちゃんがかわ……あー、ごほん。……人のイライラを刺激する容姿と性格をしてるからじゃない?」
人に不快感を与える容姿と性格……だめだ。もう立ち直れない。
この鬱屈した性格がいけないのだろうか。
容姿に関してはどうにもならない。
整形する勇気もお金もない。
それに、手術は怖い。麻酔から覚めなかったら、と考えてしまう。
「だからって、顔も性格も変えようとしなくてもいいから。姉弟に見えなくなると困るし」
「海里……!」
今でもそこまで似ていないから、これ以上離れていくのは雛菊としても寂しい。
まさか海里もそう思ってくれていただなんて。
海里はこんな姉がいることを嫌がっているのだと思っていた。
それでも、たった二人の姉弟。
血は水よりも濃かった。
「…………ああ、そうか。ということは、対象がいる訳だな」
海里の手元で、こつこつとペンが軽やかな音を立てている。
「もしもし?さっきから何を、ぶつぶつ言っているの?」
「となると相手は――――」
海里は通話中なのに、完全に一人の世界に入り込んでしまった。
「急所を突いてくるなら、まず間違いなくあのことを持ち出すよな。となるとそこから――――あー、はいはい。なるほどね。背景は何となく見えてきた」
自己完結した海里は、ようやく雛菊へと声をかけた。
忘れられていなかったことに安堵した。
「ねぇちゃん」
「うん?」
「バイト辛いなら、新しい仕事先斡旋するから辞めていいよ?元々ねぇちゃんが勝手に決めたやつだし」
(何だろう……この、迷いが筒抜けな状態は……)
「……でも、あんまり、辞めたくなくて……」
「辞めたくない、と」
海里は親身になって話を聞いてくれている。
雛菊は鬱々とした胸の内を吐露した。
「……うん。でも、私みたいなのがいたら……皆迷惑だよね……」
「何か……、いつも以上に落ちてない?真っ先に頼られるのはいいとしても、内容がな……。――――まぁ、男に迫られるよりはましかもだけど」
独り言めいた海里の呟きに、雛菊は息を飲んで、おそるおそる尋ねた。
「……か、海里?まさか、男の人に……迫られているの?」
「…………。これも冗談みたいだけど、まじなんだよなー……」
何てことだ。
大事な弟が男性に迫られているなんて。
自分のことばかりで、何も気づいてあげられなかった。
「どっ、どうするの?彼女がいるなら、ちゃんとお断りするんだよ?」
「彼女がいなくてもそれは断るから。……それと。今はちゃんと付き合ってる子はいないよ」
「そうなの?私とのツーショット写真とか使ってもいいからね?彼女……には見えないかもだけど……」
「大丈夫。大丈夫。スマホとパソコンの画面も、デスクの上にだってもう飾っ……ごほん。そもそも男に迫られてないし」
澄ました声で、海里は言った。
雛菊はどっと息を吐き出した。
偏見がある訳ではないが、海里に男性を紹介されたら、頭が真っ白になる。
「ねぇちゃんこそ、迫られてない?店長とやらに」
「まさか。そんなことはないよ。海里は面白いこと言うね」
その冗談に笑うと、海里もつられたのか笑った。少しだけ、嘲笑っぽく。
「それならいいけど。ねぇちゃんがそう断言するってことは、どの道伝わってないってことだし」
「本当なのに」
「はいはい。あんまり気落ちせずにね。俺はまだ面倒な仕事があるからそっちには行けないけど、片づいたらすぐに駆けつけるから」
「うん。海里も、無理しないでね。心配をしてくれてありがとう。――――海里が弟で、本当によかった」
真摯に告げると突然、向こうでがたんっという椅子が倒れたような音が響いた。
海里はどこか打ったのか、押し殺した呻きが聞こえてくる。
「打ったの!?」
「し、心臓が……」
「心臓を打ったの!?」
どうやったら心臓を打つのか。
器用すぎる。
「いや、平気だから。むしろ…………、花畑が見える」
「今すぐ病院へ行きなさい!!」
病院に行け、行かないの問答をする内に、海里は症状が治まり、雛菊はほっと胸を撫で下ろしながら通話を終えた。
こうして海里と話していると、一時でも嫌な現実を忘れられる。
それでも結局は退職願いを書かないといけないことに変わりはない。
嘆息をこぼし、雛菊は涙が紙に落ちてしまわないように気をつけながら、筆を取った。




