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 次の日、朝早く出勤すれば撫子を洗わしてくれるというので、雛菊は喜び勇んでもふもふ堂へとやって来た。

 昨夜から柴犬の名前を考え続けて寝不足ではあったが、撫子との触れ合いの機会を逃しはしない。

 トリミング室ではすでに、撫子が大人しく台に乗って待っていた。


「撫子〜」


 抱擁をしていると、準備を終えた紫野が言った。


「いいね、撫子」


 もふもふしていることが羨ましいのかと場所を譲れば、変な間の後にため息をついた紫野が寄ってきた。


「いつまで恋人が撫子なのかな……」


「……?紫野さんなら私とは違って、選り取り見取りじゃないですか」


「その市場に欲しい子がいればいいんだけどね……」


 紫野ほどにもなると、理想が高いのだろうか。

 当分は撫子が恋人を務めてくれれば雛菊としてもありがたいのだが。

 紫野が顔回りの健康チェックをし始めたので、雛菊も普段の彼を真似て、撫子の被毛の下にある皮膚を指で確かめた。

 目やにもなく、耳は綺麗なピンク色で、鼻も程よく湿っている。

 足裏も赤かったりすることはなく、こっそりと触れた肉球は弾力があった。

 皮膚にはいぼや湿疹などもなく、当然紫野が嫌うノミやマダニがいるはずもない。

 撫子には何も異常は見られなかった。

 コットンにイヤーローションを数滴落として湿らせ、紫野とは反対側の耳掃除をする。

 撫子はちょっとだけ嫌そうに頭を傾けたが、何とか終えると今度はバリカンが出された。


「……やってみる?」


「……またの機会にお願いします」


 ハードルが高いので、見学のみで許してもらった。

 肉球や水掻きを引っ掻けないように、バリカンを器用に動かす自信はまだない。


「学校だと入学して、割りとすぐにやるけど」


 撫子の前肢を持ち上げながら、紫野は平然としゃべっている。


「慣れだよ、慣れ。わたあめは、ほたるちゃんがちゃんとカット前まで終わらせられるし」


 といっている間に足裏が終わってしまい、紫野は撫子を抱き上げて、大型犬用の浴槽へと入れた。

 耳に綿を詰めて、シャワーの温度を調節すると、ぬるま湯をしっぽとお尻へとかけた。

 それから一旦シャワーヘッドを浴槽の底へと置くと、撫子のしっぽを持ち上げた。

 覗くと、肛門の横を親指と人差し指で絞っていた。


「……それって、何をしているんですか?」


 聞いていいのか悩んだが、たぶん聞かない方がやる気がないと思われそうで、おずおずと尋ねた。


「肛門腺絞り。簡単に説明すると、犬同士の情報交換のための分泌液を溜める肛門嚢があって、それを定期的に絞ってあげないといけないんだ。飛ぶし、臭いがきついから気をつけてね」


 ちょっとだけ茶色い液体が紫野の手に飛び散り、雛菊は興味本意で顔を近づけてすぐに後悔をした。


(うっ、鼻にくる……)


「……変なところで勇気あるよね……。――――雛ちゃん、そこのシャンプーのボトル取って洗って。青いやつ」


 雛菊は指示に従い、ボトルを取ると、水分を含んだ撫子の背中へとかけた。

 背中がなかなか泡立たずに、あくせくしていると、紫野が結構だばだばとシャンプーをかけた。

 わしゃわしゃと懸命に撫子を泡立て、顔は紫野が洗い、雛菊はしっぽ方面を集中して攻めた。

 紫野は撫子の鼻が上を向くように顔を持ち上げると、水流を調節して泡を流し始める。


「目に入ってますが、平気なんですか?」


 撫子はしっかり目を見開いて、水流のベール越しに紫野を見つめている。

 可愛いが、いいのだろうか。


「鼻には絶対に入れないようにね」


(答えになってない……)


 全身流し残しがないように、所々絞って出た水が透明かどうかチェックする。

 それからリンスだ。

 撫子がますます淑女らしいさらふわな被毛になるように丁寧に揉み込んでいると、終えた先から紫野が流して来るので急かされている気分だった。

 リンスも間違っても流し残しがないように紫野が厳しく何度も確かめてから耳せんを抜くと、撫子はぶるぶるっと頭を振って水滴を飛ばす。

 雛菊は油断しきっていたので、頭から水浸し状態になり、どっちがシャンプーされたのかわからなくなってしまった。

 腕で顔を拭うと、タオルを撫子にかけて包んだた紫野が、一気に抱き上げて台へと移した。


「その内乾くから、早く撫子を拭いて」


 紫野は基本的に、人より動物。トリミング室にいるとそれが顕著になる。

 びしょ濡れの雛菊は唯々諾々とタオルドライに従事していると、紫野が腰にかけた革のシザーケースから、スリッカーを一つ貸してくれた。

 いつ見ても、そのシザーケースはいかにもトリマーらしくて憧れる。

 ドライヤーをあてながら、スリッカーでひたすら撫子の被毛をとかしていく。

 ぶぉぉ……という轟音の中、黙々と。

 見て想像していたのと、実際に行うのとでは、やはり全然違う。

 ずっと立ちっぱなしでひたすら乾かす作業は、雛菊にもしんどい。

 乾いたかなと思って冷風をあてると、被毛の奥がまだ湿気っていたりして、何度も落胆した。

 紫野はこれを一人で、毎日何頭もこなしているのだ。

 最低賃金ぎりぎりの薄給だとしても、受付や補佐程度で時給を得ることに後ろめたさを感じてしまう。

 撫子が何とか乾き終えると、後は爪切りだけだからと言われ、雛菊は開店業務へと移行した。

 開店直前に仕上がった撫子は、シャンプーのいい匂いともふもふさの増した毛並みでトリミング室から現れ、雛菊は許可を得て抱きつかせてもらった。


「シャンプー体験はどうだった?」


「……率直に、大変だなと思いました。シャンプーの時とか、浴槽の高さに腰が痛くなりましたし、乾かしは果てしなく感じました。紫野さんはあまり疲労とか見せないので、楽しみながら仕事をしているんだと思っていました。撫子は大好きでも、これはなかなかしんどいですね」


「もうやりたくない?」


「そんなことはないです。撫子と密に触れ合えて嬉しかったので」


 そう言うと、紫野は安堵したように言った。


「それならよかった。もう嫌だって言われた、どうしようかと思ったよ」


 嫌だと言っていたら、クビになっていたのだろうか。

 紫野の笑顔が優しいのでほっとした。


「――――ところで。撫子がそんなに大好き?」


「大好きです!撫子可愛いくて優しいから、大好き」


 雛菊はきゅっと撫子を抱き締めた。

 すりすりする頬にあたる、柔らかな首周りの毛並みが堪らない。


「……これは、くるね」


 何がかと思っていると、駐車場から車のエンジン音が聞こえてきた。

 お客様が来店したという意味だったらしい。

 紫野は愛しげに目を細めて、雛菊が張りつく撫子を見つめていて、自分までセットで慈しまれているように錯覚してしまい、どきりと心臓が高鳴った。

 相手が雛菊なので、誤解しないで済むものの、他人にやったらどうなることか。

 朝から感情が定まらず、そのせいで何となく落ち着かない気分のまま、一日を過ごすことになってしまった。





 仕事を終え、動物病院で柴犬のお見舞いをし、もふもふ堂へと帰宅し夕食を共にして、アパートまで送ってもらうのが日常化しつつある。

 だけど断ると悲しい顔をされてしまう。

 なので雛菊は流されるまま夕食を作りながら、柴犬の名前を考えていた。

 なかなかいい名前が思いつかないので、皆に相談しようと考えていたのに、梓もほたるも揃って帰りが遅い。

 紫野は閉店後の業務で店にいるし、室内には雛菊と撫子とわたあめだけだ。

 家の住民がいないのに、勝手にキッチンを使用していて本当にいいのだろうか。……撫子とわたあめがいるにしても。

 そのわたあめは、時折ドアを見つめてほたるの帰りを今か今かと待ち構えている。


「わたあめは小さいから、寂しいよね……」


 わたあめを抱っこして、窓のカーテンを開けると、窓越しに店の裏通りを眺めた。


 するとちょうど、ほたると梓が二人、肩を並べて帰って来るところだった。


「あ、わたあめ!ほたるちゃん来たよ!よかっ……た、あれ……?」


 二人が近づいてきたことで、気がついた。恋人同士のように、手を繋いでいることに。

 雛菊も海里に手を引かれたりするが、彼らの纏う空気はそれとは明らかに違う。

 特にほたるは頰を赤くして、『恋しています!』という、初々しくはにかんだ表情をしている。

 雛菊は慌ててわたあめの目を隠した。


(見てはいけないものを見てしまった……どうしよ――)


「雛ちゃん?」


「ひぅっ……!?」


 知らぬ間に背後に紫野がいて、不思議そうに挙動不審な雛菊を見ていた。

 もう少し寄られたら、窓の外にいる彼の弟と妹が覗けてしまう。

 雛菊はわたあめを床へと逃がすと、素早くカーテンを閉めきった。


「外に何かあったの?」


「何もないです!何にも、全く」


「……怪しい」


「怪しくないです……!」


 これは決して他言できることではない。

 二人は兄と妹。いわば道ならぬ恋。

 彼らの兄である紫野がその事実に、ショックを受けないとは思えない。

 そして常識的に考えれば、恋慕い合う兄妹は引き裂かれてしまう。

 二人の恋路を死守し、紫野の心を乱すまいと、衝動に突き動かされて雛菊は彼の前に立ちはだかった。

 カーテンを後ろ手に握り締めて、追い詰められた小動物のように震え、首を竦めた。


「意地悪しないから、おいで」


 心を閉ざした野良犬にするように、紫野は無害をアピールして腕を広げた。

 もうそろそろ梓とほたるも自宅へと着く。

 そうすれば窓から姿が見えなくなるので、カーテンから手を離しても平気だろう。

 紫野はどこまでも優しい瞳をして待っていて、雛菊は導かれるように距離を詰めた。

 一歩ほどを残して足を止めると、紫野はどこか落胆をにじませ静かに腕を下ろした。


「これが今の限界か……」


 そう言って雛菊の足元へと目を落とす。

 そのには撫子一匹分は隙間があった。

 そんな時、例の二人が仲良く帰宅した。

 もちろん今は、手は繋がれていない。

 梓は普段のままの様子だが、ほたるの頬は赤い。

 雛菊は秘密の恋を胸へとしまい、今後はただ、傍で見守ることを決意した。



 食卓を囲みながら、雛菊は二人の様子を気にしつつも意識を逸らそうと、柴犬の名前を相談をしてみた。


「茶色だから、チョコちゃん何てどうですか?」


「わたあめの次はチョコか……」


 梓は安直過ぎて呆れたように呟いた。

 ほたるは拗ねて、テーブルの下で密かに梓の脛を蹴ろうとしたが、さっと躱されて不発に終わって唇を尖らせる。

 何て微笑ましい光景なのだろう。


「それなら梓は、どんな名前がいいと思うの?」


「顔を知らないから、思い浮かばない」


 梓は至極もっともなことを言った。

 ほたるも、そう言えば……、というようにわたあめへと目を遣る。

 顔を見て名付けられた代表例なのだろう。

 わたあめは満腹で眠くなったのか、ソファとローテーブルの間あたりでうとうとしている。

 わたあめを目を細めて眺めていると紫野が言った。


「そういえば、雛ちゃんもいくつか考えていなかった?難しく考えず、そこから選べばいいと思うけど」


「でも、私……絶望的にセンスがなくて」


「例えば?」


「……しばちゃん、とか」


「まんまだな」


 梓にずばっと切り捨てられて、他の候補を発言する勇気は一気に霧散してしまった。

 消沈する雛菊を、ほたるが気を遣って慰める。


「一生ものですから、じっくり考えればいいと思いますよ?」


「いや、じっくり考えてもセンスは磨かれない」


「……おっしゃる通りで」


 項垂れていると、紫野が梓をやんわりと諭した。


「梓。そうだと思っていても、口にしていいことと悪いことがあるよ」


(とどめを刺された……)


「だけどそのセンスだと、ベタに赤ちゃんに赤ちゃんってつけそう」


 梓は冗談ではなく、真顔でそう言った。

 さすがの雛菊も、赤ちゃんに赤ちゃんとはつけない。


「雛ちゃんは気にしなくていいよ。僕がつけるから」


 紫野がさらりと言い切ると、梓が箸を伸ばしたまま一時停止し、ほたるはたまごスープを気管に詰まらせごほごほと咽せた。

 雛菊が慌てて背中を擦り、お茶を渡すと、涙目でそれに口をつける。

 紫野が心配そうに平気かと尋ねると、ほたるは胸を叩きながらこくこくと頷いた。

 何とか呼吸は正常に戻りつつあるので、雛菊はそっと安堵した。

 そんな雛菊を一瞥し、梓がやや引いた口調で切り出す。


「兄貴……、先走り過ぎてないか?」


「撫子に名付けたときの生命判断の本が、まだどこかにあるから……」


「いや、そうじゃなくて――」


 呆れたのか、梓は大きなため息をついて雛菊を見た。

 雛菊からも何か言えと、その目が告げている。

 せっかくの紫野の好意を無駄にしないように、雛菊はありがたく引き受けてもらうことに決めた。

 このまま悩んでいても、自分ではいい名前が浮かばないだろう。


「それじゃあ、お言葉に甘えて紫野さんに柴犬ちゃんの名付け親になってもらいます」


「いいよ。柴犬の名前もね」


 紫野はどことなく黒い微笑で名付けを請け負った。


「も、ね」


 梓がごく小さく呟き、言葉数の少なくなった彼らの代わりに、ほたるがどこか捨て身の様子で場を盛り上げて、雛菊は団欒な一時を感謝しながら過ごした。






 楽しいだとか幸せを感じると、次に何か不幸が訪れるのではないかと悲観的な想像してしまうのが、雛菊の昔からの悪い癖だった。

 しかし実際は、想像よりも残酷だ。

 雛菊は身構えていた以上の落差で、幸福の絶頂で奈落へと突き落とされた。

 同じことが二度ないとは、言い切れない。

 怯えるなという方が無理だった。

 和室に敷いた布団の中で膝を抱えて丸くなり、まぶたを閉ざす。

 少し前ならば、その裏に浮かぶ顔は、あの彼だった。

 でも今は、たくさんの顔が映し出される。

 昔から傍にいてくれた海里。嫌な顔一つせず抱きつかせてくれる撫子。眠たげなわたあめと、抱っこするほたるや、無関心なように見えてよく人を見ている梓。雛菊を選び頼ってくれる柴犬。そして、優しくて時に黒い、根っからの動物好きの紫野。

 四人で食卓を囲むと、まるで家族の一員になったような錯覚をしてしまう。

 そんなはずが、ないのに……。

 雛菊は所詮、代役だ。

 そう言い聞かせないと、後で辛い思いをするのは自分。

 それでも、明日はどんな犬に会えるのだろうとか、夕飯は何にしたら喜ぶかなとか、考えるとついつい顔がほころんでしまう。

 せめて夢の中だけは、悲しい出来事が起こりませんようにと願いながら、雛菊はたった一人きりの部屋で意識を手放していった。




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