コンタクト
――空高い秋晴れ。
智哉が榊の合気道場への再入門が許されてから半月経った。白壁の道場一杯に一、二、三と準備運動の号令が木霊する。道場奥の正面には、神棚が祀られており、その下に、丸の中に金魚が書かれた不思議な掛け軸が掛かっている。
その右側の壁には五段の木刀掛け台があり、黒、茶、茶、白、白の木刀が掛けられている。反対側の左側には大きな鏡に太鼓がある。
道場主の榊は神棚を背に正座して、師範代を務める自分の息子が稽古をつけるのを見つめていた。
合気道とは、大正末期に武道家の植芝盛平が創始した武道で、受けや捌きといった体術を中心とする特徴がある。身心の鍛錬を本分として、所謂、試合というものは存在しない。
兄の口添えで、再入門を許された智哉は、ほぼ毎日稽古をしていたが、小学生の頃、一度通っていたせいか、基本的な体捌きは体が覚えていた。初日と二日目の智哉の動きをみた榊は、変な癖はついていないようじゃの、と「打ち」の稽古に入ることを許した。
「榊先生。教えてください」
今日の稽古を終え、正座したまま道場生達の帰りを見送る榊の前に、智哉がやってきて正座する。意を決した表情だ。
「ん、何かの?」
榊が鋭い双眸を投げかける。
「先生、合気道で最強の技を教えてください」
智哉が頭を下げた。
「ほっ、ほっ、ほっ、最強の技を学んでどうする?」
「時間がないんです。一刻も早く強く成らなくちゃいけないんです」
「合気は和合の道、争いの道ではないぞ」
「でも、先生の最強の技を少しでも……」
真剣な眼差しだった。智哉の瞳の奥に宿る強い意志の光を見て取った榊はいった。
「ふむ。梃子でも動かぬ顔をしておるの。確かに合気にも最強の技はある。じゃがこれはそう簡単に身に着くものではない……。お主の兄とてまだまだじゃ。儂とて極めてはおらん」
やはり才能がないと駄目なのか。いや、天下の榊先生ですら極められない技とは一体なんなのか。智哉の心には失望よりも最強の技に対する好奇心が勝った。
その心の声が口に上る前に榊は続けた。
「じゃが、その技は誰もが身に着けられるものじゃ。幼子のような心を持っておればの」
「?」
意味が分からず、怪訝な顔をしている智哉に榊はゆっくりと諭す。
「合気の最強の技とはな、お主を殺しにきた者と友達になることじゃ。心を練ることじゃの」
そういって榊は立ち上がり、「ほっほっほっ」といつもの笑い声を残してその場を後にした。
◇◇◇
榊の謎かけめいた答えを貰ってから、一週間が過ぎた。
道場から帰った智哉は、駆け足で食事と風呂を済ませ、宿題と勉強をこなした後、この日も座禅を組んだ。榊から「心を練れ」と言われた後、考えた挙句、毎日座禅を組むことにしたのだ。
智哉は窓を少し開けて部屋の電気を消した。月明りがフローリングの床を照らす。智哉は、ベッドにクッションを置き、そこにお尻を後ろから三分の二程乗せる形で足を組んだ。左の足首を右の太腿の上に乗せるが、右の足首は左太腿の下に置いたままだ。両足とも腿の上に乗せると足が痺れて長時間座禅を組んでいられないためこうしている。いわゆる『半跏趺坐』だ。
智哉は深呼吸を何度かした後。呼吸を整え目を瞑る。だが、今日の瞑想はいつもと違っていた。智哉の心の中の『彼』が突然話しかけてきたのだ。
――やっとコンタクトできたわ。
(?!)
――あんさんや、あんさんのことや。
智哉は驚いて眼をあけ、顔は動かさずに目玉だけ動かして左右を見た。
――きょろきょろしてもおらへんで、あんさんの心の中におるさかいな。
(君は誰?)
――わてか、わては『宙の王』いうもんや。
智哉は戸惑った。一体何が起こっているのか理解できなかった。
――あ~、夢やないで、いや夢で会うたな。
(もしかして……)
智哉は入学前から何度も見てきた『彼』を演じたあの夢を思い出した。
――そうそうホンマのことやで、あれ、わてのことやねん。わてな、もうひとつの宇宙から来たんや。
(でも……)
夢の中の『彼』はもっと威厳に満ちていた筈。それがこんなに軽いキャラだったなんて。智哉は思わず吹き出してしまった。と同時に『宙の王』と名乗る心の声に興味を覚えた。
その智哉の心を読み取ったのか、『宙の王』は語り掛ける。
――あほ。あんさんに合わせてこんな喋り方しとるだけや。あんさんの心がとっても固いさかいの。もっと柔らこうしてなあかん。割れたら大変なことになんねんで。
(心が割れるって……)
――あ~、あんたらの言葉で『心が折れる』っていうたら分かるか。あ~なんねん。一度心が折れたら元に戻すのにえらい時間が掛かんねん。でも、心を柔らこうしてたら、そうはならへん。心はプニョプニョでないとあかんねん。
(……心が固いなんて自覚ないんだけど)
智哉は反論した。いきなり心が固いと言われて、はいそうですかとは承服できかねるものがあった。智哉は素直な気持ちを『宙の王』と名乗る心の声にぶつけた。
――あんさん、今、気になっとることが仰山あるやろ。例えば、出来の良い兄ちゃんと自分を比べたり、神楽耶はんと喧嘩したことを時々思い出しては凹んだりしとるやん。それが心を固くする種やねん。
智哉は赤面した。なんでそんな事を知っているんだ。覗かれたくないプライベートに土足で踏み込まれた気がして、無性に腹が立った。
――すまんなぁ。あんさんの心と記憶を読ませてもろたわ。けど安心してええで。あんさんの名誉の為に言わんでおくさかいに。
思いっ切り言ってるじゃんか。智哉は自分の心の中に突っ込みをいれた。
――あんさん、なんやえろう兄ちゃんのこと意識しとるようやけど、そんなんどうでもええ事やねん。あんさんはあんさんでええねん。あんさんがいるから宇宙があんねんで。皆がおるから宇宙やねんで。誰一人欠けてもあかんねん。ええことも、あかんかったことも、みんな全部で宇宙ができとんねん。宇宙に要らん奴なんて一人もおれへん。あんさん一生懸命生きとるやん。それでええねん。簡単なことや。
心の中の『宙の王』は続けた。
――神楽耶はんのこともそうや。神楽耶はんも神楽耶はんで一生懸命生きとんねん。あんさんと同じや。一生懸命なもん同士がぶつかったら、そら喧嘩になるわ。それが普通や。でもええねん。喧嘩したら仲直りしたらええんよ。口がついとるんは其の為なんよ。
(……)
――あんさん、自分の事、好きやないやろ。
智哉はドキリとした。
――あんさん、自分で自分を責めとるんとちゃうかなぁ。自分はこんな筈やないちゅうて。自分を好きになれへんもんは、他人も好きになれへんで。
確かに兄を意識していないと言ったら嘘になる。兄と自分を比較しては、同じ様にならないといけないと思っていた。そしていくら頑張ってもそうなれない自分が嫌だった。智哉は図星を突かれたと思った。
――あんさんは一生懸命生きて来とるやん。それを認めてやってええんよ。歩幅も速度も人それぞれや。前にさえ進んどったら、いつかはゴールにつくねん。
(そんなのでいいのか?)
智哉はまだ納得できなかった。我武者羅に前に進むのが正解だと思っていたからだ。求められている目標と今の自分との差を如何に埋めていくかが全てだった。自分の歩んだ道を振り返って、それを認めるなんて考えてもみなかった。
――ええんよ。自分の道は自分で評価せえへんと誰が評価してくれんねん。あんさんが歩いたあんさんだけの道や。それを認めてやることが自分を好きになるちゅうことや。
智哉は何だか急に自分の心を縛っていた鎖のようなものが解けていくのを感じた。それは今まで一度も味わったことのない感覚だった。
――そうそう。心は自由自在なんよ。固くなったらあかんのよ。
そんな智哉の心境を見て取ったのか『宙の王』は諭すように語りかけた。
――心はな、宇宙と繋がっとんねん。心を柔らこうしとったら誰でもわかるんや。
(誰でもって……)
智哉の戸惑いを読み取った『宙の王』が続けた。
――せやなぁ。一番簡単な方法は、瞑想することや。
瞑想するくらいなら自分にも出来そうだ。智也がそう思った刹那、『宙の王』が提案する。
――ほな、わてが導師してやるさかい、一発瞑想してみよか。
素直に頷く智哉。
――深呼吸してみ。うんうん。で、大きく息を吸ったら、口をすぼめて、蚕が糸吐くように少しづつ息を吐くんよ。
言われた通りにやってみる。
――そうそう。そうして周りの世界を全身で感じるんよ。
静まり返った部屋の外から、かすかな風が草木の匂いを運んでくる。遠くで虫の音が聞こえる。それまで気づかなかった世界を智哉は肌で感じた。
半眼になって正面をみる。全身の毛穴から髪の毛のように触覚が伸び、部屋の隅々にまでいきわたる感覚。まるで眼が全身についているようだ。
――そうそう。心に形はないんよ。好きな形になれるんよ。心を柔らこうして、周りと一つになるんよ。
次の瞬間、智哉は自分が丸い光の珠となって部屋一杯に広がるのを感じた。全ての気配が手に取るように分かる。あそこで葉っぱが揺れている。こっちに野良猫がいる。向こうでは酔っ払いがヨタヨタと歩いている。決して見れる筈のない外の様子を智哉は心の眼で観ていた。
――ええ感じや。あんさん、意外と才能あるかもしれへんな。




