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プロローグ

 ――その娘は、僕をマガンと呼んだ。


 薄暗がりの通路。


 不規則に点滅するオレンジの天井灯が断末魔の叫びをあげる。


 頭上のオレンジがまだらに照らす床を駆け抜ける。


 足に冷たく、堅い感触が伝わってくる。


 先導するその娘は、年の頃は十五、六歳くらいだろうか。燃えるような深紅のショートヘア。癖のあるボリュームたっぷりの髪の間から黄色い角をちらちらと覗かせている。作務衣にも似た茶色の服の片袖は千切れ、ズボンも所々裂けている。砂と泥にまみれたその恰好は如何にもみすぼらしい。


 その娘の顔も泥だらけだったが、一向に気にする素振りも見せない。その綺麗な藍の虹彩が汚れなんて何処吹く風とばかりに澄んだ輝きを放っている。


 その娘は、破れた服の隙間から、よく鍛えられた四肢を惜しげもなく晒して、前を走り続ける。


 どうなっているんだ? 


 なぜ君は、そんな格好なんだ。教えて呉れ。


 その娘は藍の瞳を向けると、もう少しだ、と励ましてくれる。


 走る速度は一向に緩まない。こんなに走っている筈なのに、不思議と苦しくない。


 深紅の髪の娘はこちらを振り返ると、こっちだ、と右への通路を指さす。


 角に来る度に、右に、左にランダムに曲がる。


 そうか。追われているんだ。


 でも、誰に?


 だけど、何処に?


 突然目の前に、金属製の大きな扉が現れた。SF映画に出てくるような、アーチ型のドアだ。右隣の壁に、青く光る六角形がある。その中にはビー玉くらいの緑色した光球が幾つも浮かんでいた。


 この光景は、何度も見たことがある。


 赤い髪の娘は、青い六角形に手を突っ込み、グリーンのボールを指で順番に上下左右に動かしている。その指は心なしか震えている。


 大丈夫。慌てなくていい。


 ドアが開いた。


 急いで中に入るが、部屋は外の薄暗い通路よりもっと暗かった。様子がよく分からない。じっと目を凝らしていると、中央にぼんやりと紫色に光る何かが浮かび上がってきた。


 その娘は、夜目が利くのか、部屋の構造を知っているのか、迷わず扉の横の壁をまさぐった。


 眩しいばかりの白色が天から投げ落とされる。


 よかった。動力は死んでない。 


 部屋は広かった。吹き抜けの天井が高い。


 中央の紫は、人の背丈の二倍はあろうかという、まるで水晶をそのまま拡大したような『六角柱』だ。しかし、その六角柱は、一面だけ抜けていて、中は空洞になっている。人が入れそうだ。


 『六角柱』の隣に銀色の箱がある。ケーブルのようなもので六角柱と結ばれていた。どうやら『六角柱』の端末らしい。


 追っ手が迫っている。


 赤髪の娘は腕を引っ張って、銀の箱に連れて行く。


 端末の外観はのっぺりとしていて、金属っぽい光沢がある。腰までの高さがあり、天面にパネルが填めこまれていた。娘がパネルをなぞるようにタッチすると、端末全体がうっすらと金色に輝きだした。


 天面の濃いグレーのパネルが、明るいグリーンに変わる。六面体や八面体など、様々な形状の立体ホログラム映像が次々とパネル上に浮かび上がる。


 その娘は小さく頷いて『六角柱』に目を向ける。藍の瞳が中に入れと促していた。


 だけど、何故かそうせずに彼女と向かい合った。身に着けていたペンダントを外して、そっと手渡す。


 ペンダントには、鮮やかな深い紫の宝石が填め込まれていた。


 その娘はもう一度、マガンと言った。


 両袖をぐいと引っ張られる。彼女が必死に何かを訴えている。その声は聞こえなかったが、言いたい事は分かっている。彼女の藍の虹彩は潤んでいた。


 別れの時だ。


 彼女は瞼一杯に涙を浮かべていた。


 行かなくちゃいけない。首を振って、彼女の頬をそっと撫でた。


 彼女は頬をつたう泪を拭いもせず、口を真一文字に結んで、ペンダントを握りしめた。


 ゆっくりと、『六角柱』の中に入る。透き通った壁越しに彼女の姿がよく見えた。


 藍の瞳が見つめていた。


 その綺麗な藍色を見つめ返してから頷いた。それが合図だ。


 彼女はコクリとすると眦を決してパネルを弾く。


 端末の輝きが一段と増し、紫だった『六角柱』はオレンジに輝きを変えた。


 虚空に渦が生まれる。周りの景色が、ぎゅるりと歪んでいく。空間が渦の中に引き込まれていく。


 そして全ては暗黒と静寂に包まれた――。


 ――――――――――

 ――――――――

 ――――――

 ――――

 !


 智哉は跳ね起きた。春の柔らかい朝日が部屋の中に差し込み、ちゅんちゅんと雀の声が遠くで聞こえる。またあの夢だ。


 夢の中で『彼』になったのはこれで何度目になるだろう。


 臨場感と緊迫感の溢れる夢の後では、現実の平穏な朝の光景の方が夢ではないかと思える。智哉はしばらくの間ぼおっとしていた。


 やがて背汗をびっしょりと掻いていることに気づいた智哉は、気持ち悪そうにパジャマを脱ぎながら枕元の時計に目をやった。


 ――七時三十分。


「やばい! 遅刻する」


 智哉は慌てて制服に着替えると、部屋を飛び出し階段を駆け下りた。



◇◇◇



 智哉は自分の運の無さを嘆いていた。それは大事な日に寝坊してしまったことだけではなかった。


 今日は、超難関とされる名門進学校である翠陽学院高校の入学式だ。二日前に下見もした。通学路を確認した。脇道さえも歩いてみた。事前準備は完璧だった。寝坊さえしなければ。


 智哉の予定では、今日は喜びと期待に満ちた一日となる筈だった。しかし、近道をしようとしたのがいけなかったらしい。


 駅を降りて直ぐ目の前にあるコンビニ脇の狭い道。ここを抜けると、学校に最短距離でいける。だがその小路の先に、柄の悪い如何にも不良然とした三人の男が屯ろしているのが見えたのだ。


「ここを抜けたら直ぐ翠高なのに……」


 智哉には唯でさえ狭い道が、不良達のせいでもっと狭く見えた。


 智哉は、心の中でちえっと舌打ちすると、ちらりと不良達を見やった。いまどき不良なんているのか。合格発表の夜、お祝いの国際電話を寄越した兄に「進学校に不良なんていないよね」と念を押した。兄は「そんな『化石』、俺の時にはいなかったよ」と鼻で笑っていた。


 確かに進学校に不良はいないかもしれない。だが、天下の往来までそうとは限らない。兄も通った翠高の入学式にワクワクしていた智哉の気分は一気に覚めた。


 関わり合いになっちゃいけないと、ほぼ本能でそう判断した智哉は、道を変えようと思うより速く回れ右をしていた。


「おい、お前!なんで逃げるんやぁ」


 びくっ。見つかった。智哉はこのまま見逃してくれと念じながら、そおっと振り返る。三人の不良はゆっくりと近づいてきた。


「べ、別に逃げてなんか……」


 蚊の鳴くような、そして、上ずった声で辛うじて応えた智哉だが、多分その声は届いていない。


「あ~、聞こえんなぁ~」


 不良の一人が往年の名作拳法漫画に出てくる悪党のようなセリフを吐いて、智哉の前に立ちはだかり、腕組みをした。


 ――デカい。


 百八十センチを優に超える背丈に分厚い胸板。組んだ腕は丸太のようだ。その姿にビビった智哉は蛇に睨まれた蛙のようにその場で固まった。


 そして、智哉に立ちはだかった大男の後ろから、同じ背丈だが、更にがっしりした体つきの男が声を掛けた。不良達の態度から、どうやらこの不良仲間のリーダーのようだ。


「兄ちゃん、俺らがなんかしたか」

「ひ、ひゅいぇ」


 声が裏返って、意味不明の音声が口の端から漏れた。ヒーローはこんなときにこそ来てくれるんだろと都合のいい、そして非現実的な願いが智哉の脳を駆け巡る。アニメと現実がごっちゃになってしまっているが、人はいざピンチになったら、案外こんなものなのかもしれない。


 智哉はその場にへたり込んでしまった。


「待ちなさい」


 透き通った声が不良達の背中を貫いた。


 そのツキのない少年を救ったのは、胸に七つの傷を持つ拳法の達人……ではなく、不良の腕を極めて平然としている少女だった。



◇◇◇



 三人の不良達は一体何が起こっているのか状況を理解できないようであった。それは、智哉も同じであったが、はっきりしているのは、大男の腕をその後ろから掴んで離さない少女がいることだった。


 ドラマでも何でもそうだが、普通こういう場面では、手首を掴んで後ろ手に回し、腰のあたりで捩じり上げるのがお約束だ。しかし彼女は、手首ではなく肱の手前あたりを掴んで、そのまま耳の上まで持ち上げている。


「……ぐっ、なんだてめぇ!」

「やめなさい。みっともないわ」

「うるせぇ。手前ぇには関係ねぇだろ!」

「そう……」


 そういうと彼女は、指に少し力を込めて、掴んだ腕を差し上げた。男は躰を仰け反らし、爪先立ちになる。


「っつ痛ッツ、がはっ……」

「まだ止める気はないの?」

「わ、わかった。何もしねぇから離せ!」


 ――どさっ。


 開放された男は尻餅をついた。それでも、掴まれていなかった方の腕で咄嗟に受け身を取るあたり、柔道か格闘技の経験があるようだ。


 仲間の不良達は、思わず彼女に向かって身構える。一人はボクシングのファイティングポーズを取り、もう一人はバタフライナイフを取り出した。


「あぁ。何すんだぁ。このアマぁ!」


 怒りに燃えた表情で少女を睨みつける。


(いくら何でも無茶だ。やられちゃうよ)


 智哉は、少女が不良達に酷い目に遭わされるに違いない、怪我程度で済めばいいほうだと思った。


(どうしよう……、どうしよう……)


 奥歯がカチカチなる。腰が抜けて、その場から動けない。


「鉄男、よせ」

「だけど、安藤はん」

「俺がよせっていってんだ!」


 安藤と呼ばれた不良のリーダーは、右手を左手で抱え込むように押さえながら、憤る仲間を制した。そして、よろよろと起き上がると、ゆっくりと大通りに足を向ける。残りの男もしぶしぶその後に続く。不良達は、それでも多少の恰好をつけながら、そして忌々しげな捨て台詞を残して、その場を去っていった。


「大丈夫?」


 流れる黒髪を左手で耳の後ろにかき上げて、彼女が手を差し伸べる。気恥ずかしくなった智哉は、その手を取らずに自分で立ち上がった。


(えっ)


 彼女の前に立った智哉は思わず声を漏らしそうになった。


 彼女の目線は智哉の上にあった。ちらっと足元をみる。台に乗ってるわけでも、ヒールを履いているわけでもなかった。智哉は自分の身長の百七十センチと比べながら、彼女のそれは百七十五センチを超えているだろうと目算した。


 ありきたりな言葉だが、改めてみると彼女はぞっとする程の美少女だった。肩にかけて軽くウェーブの掛かったミディアムロングの黒髪に透き通った肌。赤くて分厚いフレームが剥き出しの眼鏡のレンズを支えている。その奥には大きな深いブルーの瞳が落ち着いた光を湛えていた。真っ直ぐ通った鼻筋の下に、小振りで艶のある唇が控えている。

 

 長い手足にやや細身の体つき。服の上からでも抜群のスタイルであることが分かる。街中を歩けば、必ず振り返る人がいるであろうと思われた。


 ややあって、少し落ち着きを取り戻した智哉は、ようやく少女の胸元に紺地に薄紫と白線のポイントが入ったリボンが結ばれていることに気づいた。翠陽学院高校の制服のリボンだ。


 智哉は、彼女の大人びた雰囲気から、きっと「先輩」に違いないと思った。


「あ、ありがとうございます。大丈夫です。大したことありません」

「そう。気をつけてね」

「あ、あの……」


 智哉の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、彼女は踵を返すと足早にその場を離れていった。互いに自己紹介するという定番の展開はついぞ訪れなかった。


 智哉は、次第に小さくなる彼女の後姿を見送りながら、同じ学校ならまた会えるかもしれないと心の中に期待が膨らんでいくのを感じていた。意外と運は良いのかもしれない。


 小道はほんの数分前の騒動など、まるでなかったかのように静まりかえっていた。後には名前も聞けなかった少年と彼女が置いていった仄かな石鹸の残り香だけが取り残されていた。



◇◇◇



 住宅街の外れにある一本の坂道。その両脇の桜並木は、満開までの幾日かを心待ちにしているかのように、辺りを見事なピンクと白に染めている。晴天に恵まれた空は青く、主役の桜の脇役を完璧に演じていた。


 出勤するサラリーマンは駅へと坂道を下り、ランドセルを背負った小学生は学校へと元気に登り坂を駆け上っていく。その坂道には高校生らしき制服に身を包んだ男女の姿もある。


 智哉が入学する翠陽学院高校は、この坂道を登り切った台地にある。


 通学する生徒達に混じって、一際綺麗な姿勢で歩く一人の少女がいた。


 すれ違う人が思わず恐縮して避けてしまいそうなオーラを身に纏った彼女は、智哉がそうだと思い込んだ「先輩」ではなかった。智哉と同じ翠陽学院高校の一年生、立花神楽耶(かぐや)。それが彼女の名だった。


 智哉を助けた神楽耶は、自分の運の良さを天に感謝していた。まさか最初の学校の入学初日に出会えるとは思っていなかったのだ。この分なら思いのほか早く済むかもしれない。嬉しさに思わず足取りも軽くなる。桜並木の坂道は、まるで祝福の調べを奏でてくれるプロムナードのようだ。


 しかし、直ぐ行動に移すわけにはいかない。すべては準備が整ってからだ。慎重に事を運ばなければ全てが台無しになる……。そうとは分かっていても、神楽耶はこぼれる笑みを抑えることができなかった。


「……ミツケタ」


 颯爽と校門をくぐった神楽耶は、小さくそう言って、くすりと笑った。

 

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