希望の起源について―乃木坂46「君の名は希望」
希望の起源について―乃木坂46「君の名は希望」
「君の名は希望」という楽曲は、乃木坂46というアイドルグループが2013年3月13日にリリースした。この作品は乃木坂46の一連の楽曲の中でも聴く人々に特に感動を呼びおこすものとして非常に評価が高い。本小論は、この「君の名は希望」という作品についての哲学的な論考である。
■呼びかけ、呼びかけられ
なぜ“君の名は希望”、あるいは端的に君が希望ということになるのだろうか。ここでは希望の起源、発生を大きく問うてよかろう。ある意味で、詩作者が用意した「僕」と「君」の物語は分かりやすい仕掛けになっている。(恋愛の)プロセスを時間軸をおいて図式的に描いているからだ。簡単にまとめれば、①「僕」は「君」に呼びかけられる(発見される)、②君を再度見つける、③君へ向かう(恋をする)、という前半の模様がある。
①について。ここでは、何と言っても、他者たる「君」から呼びかけがあって、それを受け取る「僕」の“呼びかけられ”があって、「僕」が「呼びかけられる僕」という差異化した自己を見出すという点が肝要である。自己の存在性・主体性の確立は、そうしたプロセスにおいてのみ浮上する。ここでは関係性は存在に先立つという関係主義のテーゼというよりも、存在の定立は自己―他者間における呼びかけ―呼びかけられの相互行為のプロセスの中で初めてなされるものだと考えるのが正しい。①は要するに、自己の再定立という側面を持っているのだ。自己の再定立、新しい自分(の存立性)。“こんなに誰かを恋しくなる/自分がいたなんて/想像もできなかったこと”という一連の詩句のように、恋の素晴らしさは何よりもまず差異化していく自己(恋に落ちていなかった自分が恋に落ちている)という現象への“気づき”として描かれるのは、そのような意味合いを持つ。恋愛は何よりも自分にリフレクト=反射してくる。この時、注意しておかなければならないのは、(i)自己が自己の存在性に気づいてやれること、そして(ii)その発端となったのは、他者(「君」)の呼びかけであった、ということである。
②について。自己の最定立がなされることにより、呼びかけー呼びかけられの関係性はひとまず消去する。そのとき、「僕」は、呼びかける存在としてでない、純粋な「君」をふたたび発見する。だが、実際、この呼びかけー呼びかけられ、の関係性(ないしは構造性)は本当に消去されるのだろうか。答えは否である。いわば、この関係=構造は亡霊となって再び現れるであろう。しかし、自己の再定立は少なくともかつて「呼びかけ」た「君」に十分対峙するほどの存在性を自己にもたらす。この次元において、「僕」は初めて「君」という他者と同じ地平に立つことができる。
③について。いよいよ、「僕」は「君」に一つの関係性を構築しようとする。しかし、このプロセスは作品中では必ずしも明確に描かれていない。恋と恋愛を区別するものは他者(相手)からの関わりとしての行為であるが、作品中では僕は片思いの気持ちをふくらませているに留まるだけのようにも見える。それでは、恋をすることの気持ちは何だろうか。これは思うに、「僕」は「君」に、かつて自分がそうされたように、今度は自分が「呼びかけ」をはかり、相手の存在の定立を導いているのではなかろうか。③は、「僕」の「君」への一方向的な「呼びかけ」によって規定される。このときの原動力となるのは、かつては自分がその相手(「君」)によって自己の存在を呼びかけられたことという原初が想起され、無意識の領域において再―反復されようとしているのだ。なぜなら、存在の(再)定立とはかくも素晴らしいものであるから。自己が自己に居場所を幾度も見つけてやること―これこそは、世界参入への、つまり“出会いとときめき”の不断の発生への希望である。つまりこのとき、自己がたえまなく差異化していき、新しい自分をどんどん発生させることで、流れゆく世界に接続し、歩調を並行させ、生きていくことができるようになる。そのことを、確かに希望と呼んでもいいはずである。
以上の記述は、希望の起源の半面を解明したものであり、また他者(「君」)についても半面を解明したものである。まとめるならば、他者の呼びかけがあり、呼びかけられる自己が見出されることによって、自己は存在性を獲得し、世界に基盤を持つことができる。それは希望のひとつの名前である。
存在を与えてくれたこと―その気持ちだけならば、それは「感謝」に終わる。希望とはもっと未来的な、前方向を向いた概念である。
■君への欲望、失敗しても
話を一度脱線させると、例えば次の詩句のパラグラフは素晴らしい一節である。”悲しみの雨 打たれて足元を見た/土のその上に/そう確かに僕はいた” 僕はいたというのは存在(の定立)の再確認であるが、この悲しみの雨と確固たる土との対比は私たちの心を揺るがせる。このパラグラフでは「君」は登場せずとも、不確かな状況の中で自己を何とか確立させてやることのできる事柄を表している。やはりこれも「君」への感謝につながっていくだろう。
更なる問いは、なぜ「君の名は希望」では、「君」と「僕」との恋は成就しないか、または、明確にその可否が描かれていないのかという点に関わってくる。“一人では生きられなくなった”と感じた「僕」は、「君」を能動的に欲する=恋愛を行う、つまり対象を欲望する。ここには、恋の気持ちの発展がある。というのも、かつて呼びかけをおこなった「君」へ、無意識的に関心を反復するという受動的な契機から、私こそが「君」の存在定立をしたいという、能動的な契機に変化するのだ。詩の時間軸上ではさかのぼることになるが、“僕が拒否してた/この世界は美しい”という詩句に示されるように、存在定立のなされた「僕」は、自己の周りの事物への呼びかけすら行っていこうと思うくらい、世界に対して肯定をなしていることになる。“未来はいつだって/新たなときめきと出会いの場”なのであるから。「君の名は希望」は理想を謳歌しない。存在の定立に関わる関係性は、いつも片方からもう片方へ、そしてそれが半永久的に続く連鎖(「存在の連鎖」とでも言うべきであろうか)を示すものである。見返りを求めるものではない、ただしその求める欲望自体は決して否定されない。だから、それを希望と名付けられるのかもしれない。第一の希望は、自己が定立されたことをを原動力として、世界に参入(あるいは構築)することへの期待感であったが、第二の希望はさらなる理想=高みへの、つまり輝かしい生への接続への期待感としてある。
このとき、第一の希望と第二の希望を綜合した、第三の希望とでも呼ぶべきものが出来する。“もし君が振り向かなくても/その微笑みを僕は忘れない”。この時、「君」への想いは続きながらもまた、原動力を駆使して「僕」はこれからも世界に積極的に関わっていき、あるいはまた反対に傷ついたりもしていくだろう。それは感謝と希望のいりまじったものである。そして、「僕」は新たな恋にむけて、この恋をいわば無限に将来に向かって反復=変奏していくだろう。決して届くことのない、しかし何回でも届いていこうとする気持ち。これを、希望とはっきり定義できるのだ。
“希望とは/明日の空”という詩句はつまり、希望とはまったくもって不確かなものであるということも示す。ただ、それが、明日の空という言葉のイメージが喚起するように、とても前向きで肯定感に満ちた可能性を大きく指してもする。それは生のもつエネルギーゆえである。
「君の名は希望」のサビ部分ではとくに、恋は生きることのエネルギーそのものとして措定されている。生の神聖さと生への肯定感と主題である恋愛との3つの点線が絶妙に重なるのが、「君の名は希望」という偉大な作品なのである。(了)