水音
「みーきっ」
現れたのは、友達の咲子だった。私はホッと胸を撫で下ろした。
この世に存在しない、オカルトめいた何かに恐怖を抱いた自分が少し恥ずかしかった。「咲子、こんなところで何してるの?」
私は妙に機嫌の良さそうな咲子に尋ねた。
「資料室に教科書忘れてきちゃってさぁ、取りに来たのはいいんだけど、やっぱりここって不気味じゃん?だから今、美紀を見付けてホッとしたんだあ」
あたしも怖かったよ、と心の中で思ったが、私らしくないと思って黙っていた。
「別棟に行くんだけど、新校舎まで送る?」冗談のつもりで言ったのだが、咲子は笑顔で、
「うん!」
と頷いた。
「ところで、何でそんなにニコニコしてるの?」
咲子の横顔を見ながら尋ねた。
「え?分かる?えへ、実はね、さっき中等部のバッチをつけた綺麗な男の子に会ってね。あたしが忘れた教科書持ってきてくれたの。それであたしの顔を見て笑ってくれたんだ!これってさぁ、絶対気があると思わない?」
咲子は自慢気に目をキラキラ輝かせて言った。
「でも変じゃない?中等部の子が旧校舎にいるなんて。それに、中等部の生徒は高等部の校舎には無断で入れないはずよ」
私はいぶかしげに咲子を見た。
実際、中等部の校舎は別にあって、委員会活動や部活動はそこで行われるのだ。
用があったにしても、新校舎の職員玄関で許可を取らないといけないし、そんな校則がある中で、旧校舎を、見ず知らずの上級生の教科書を持ってふらついているだなんて、何だか怪しいのではないか。
「うーん、考え過ぎじゃないかなぁ?ま、とにかく。綺麗な男の子だったんだあ」
私の話など聞いていないかの様に、咲子は依然自慢気にその少年のことを話し続けていた。
帰宅した頃には、時刻はすでに夜の九時をまわっていた。
なんせ電車で片道一時間かかる道のりを、委員会やら何やらですっかり下校時間を過ぎた後に帰るのだから、無理はない。
「ただいまぁ」
玄関で足枷を取り外すように、スニーカーを脱ぐと、真っ直ぐに省吾の部屋に向かった。
「お兄ちゃーん」
真っ暗な部屋に、うっすらと月明かりが射し込んでいる。
誰もいない。
私はとりあえず、省吾の分の夕食を作ることにした。
キッチンに入ると、カウンターテーブルと椅子で間仕切られた一角が小窓を挟んで目の前に見える。
そのような小窓はこの家のいたるところに設置されていて、その一つにはキッチンとバスルームを繋ぐ物もあった。
なぜこのような小窓が沢山付いているのかというと、以前この家の主人が重度の障害を持った息子と住んでいて、常に監視していなくてはならないためにそのような構造にしたのが、今でも残っているのだ。
冷蔵庫を開けると、中から冷気がまとわりつくように溢れてきた。(ザー…)
冷蔵庫を開けていた時には気付かなかったが、キッチンとバスルームを繋ぐ小窓の方からシャワーの音がする。
「お兄ちゃんいるの?」
私は小窓に近付いていった。
シャワーの水が、人体に当たって跳ね返るような音が、微妙な振動となって耳に届いた。
「ただいまー」
玄関の方から、省吾の疲れきった声がした。「え、お兄ちゃん?」「美紀?何してるんだ?」
「だって、シャワーが…」
いつの間にか、シャワーの音は止まっていた。
「…気のせいかな」
「え、何?」
「ううん、何でもない」
「…美紀、疲れてる?」
後ろから抱きしめられた私は、この後の展開を容易に想像する事ができた。
「お兄ちゃん…」
私は胸元の省吾の手を、両手で包み込むように握った。
「好きだよ、美紀」
そう言い終える前に、すでに省吾の手は私の着ていたセーラー服の中に滑り込んでいた。
「待って、鍵閉めてくる」
私は省吾から離れようとした。
「いいよ、どうせ誰も来ないし」
後ろから羽交い締めにするように省吾は私をきつく抱きしめた。
「美紀…」
首筋に省吾の唇が触れる。
「あ…ちょ、ちょっと待って。シャワー浴びよ。一緒に、ね?」
十月とはいっても、残暑の厳しい毎日だ。
せめて汗を流したいと、私は慌てて省吾の手を掴んだ。