王子様は来ない
私の幼なじみは、とても格好良く身分も良く、そしてとても愚かな人。
クラウス・エトワール。侯爵家の一人息子でもある彼と、私は小さい頃はとても仲が良かった。
彼はとても綺麗な顔立ちをしている。銀糸のような髪の毛に、宝石のように輝く碧色の瞳。いくら見続けても見飽きることはない綺麗な顔立ちに、幼い私は見惚れたものだった。母親同士が親しかったこともあり、頻繁に彼の家と私の家を行き来し、侯爵家と男爵家という身分の違いはあったが自然と私達は親しくなった。
幼いクラウスは多少意地悪ではあったものの、いつも私と遊んでくれた。
「ビオラ、外で遊ぼう」
「待ってクラウス、絵本をお母様に渡してくる」
本好きな私は、クラウスと一緒なら外遊びも喜んで行った。たまに彼が意地悪で蛙を目の前に差し出して泣き出したこともあったが、彼はばつの悪そうな顔をしながら心から謝ってくれた。
「ごめん、ビオラ」
「もう、クラウスのばか」
彼が謝れば勿論私は許したし、私達は仲直りして一緒に笑い合った。そんな日々が続いていた。
私達が貴族の子供達が通う学園の初等部に進学して、少しだけ男友達や女友達が出来ても私のクラウスに対する想いは強くなりこそすれ、変わることはなかった。彼が私の王子様だと思っていたのだ。
彼は沢山の女の子に囲まれたが、それでも私と過ごすことを選んでくれていた。放課後に一緒に勉強をしたり、本を読んだり。私が刺繍をしていると、傍に来てずっとそれを見ていた。私が刺繍を入れたハンカチを「大切にする」と照れながら受け取ってくれた。
そんな関係が崩れはじめたのは中等部に入ってからだった。
私は貴族の中では身分の低い男爵の娘であったのだが、侯爵の娘であるリア・オグロームがクラウスに恋をしたらしい。
彼女はクラウスの傍にいる女、特に私に容赦がなかった。荷物を隠されたり頭から水をかけられたり、これが淑女のすることかというような行動を繰り返していた。一人で本を読むことが好きな子供であった私には、親しい人はクラウス以外いなかったが、彼にこんな情けないことを相談できるはずもなかった。
* * * * * * * * * *
そんなある日。天地がひっくり返るような出来事が起こった。
突然私はクラウスに突き放されたのだ。
「悪いけど、もう俺に近寄らないでくれ」
呆然とクラウスを見返すと、彼はリアの腰を引き寄せて言い放った。
「俺はこの子が好きなんだ。変に誤解されたくないんだよ」
私は何も言えずに、二人がいちゃつきながら去るのを見送った。クラウスの急変に驚き、衝撃を受けてその場に座り込んだ。
何故と尋ねることもできなかった。私の初恋はその時砕け散ったのだ。
リアや他の人からの嫌がらせは減ったが、陰口は時々聞こえた。
「男爵家のくせに侯爵家にちょっかいかけようとするとか恥知らずだわ」
そんなとき心が壊れそうなほど辛かったのは、クラウスまでもがそれに一緒に笑っていたことだ。
「ビオラなんて初めから、親が親しいから一緒にいただけだ」
泣いた。家に帰ってからも泣いたし、その後、母がエトワール家へ訪問するときは何かと理由をつけて断った。
けれども時々、彼が物言いたげにこちらを見ていることに気付くと、期待をしてしまう自分がいた。視線が合うと必ず彼はふいと逸らしてしまうのだが。
「もしかして私を庇おうとして、リアと付き合っているのだろうか」とさえ思った。
そう思ってしまうほどには、私とクラウスは親しかったはずなのだ。
思い切って私は、隙をついてクラウスに話しかけた。運良く誰もいなかったから、放課後に階段を下っていたクラウスに、「待って」と声をかけたのだ。何も言わなかったのが間違いだったのかも知れない。彼に私の気持ちを伝えよう。
「クラウス、私はちゃんと強くなるから、前のように仲良くしてほしい」
もう負けない、虐めだろうが嫌がらせだろうが、数倍にして返す。そんな強い意志と共に私は彼に伝えた。
ところが彼は私を嘲笑したのだ。
「俺がお前と仲良くしてやっていたのは、お前が可哀想なくらい不細工で身分も低いから、愛人くらいにはなるかと思ったからだよ」
あまりの衝撃に硬直して目を見開く私の反応に満足したのか、形の良い唇が笑みの形に上がる。
「もう話しかけてくるなよ。お前とは高等部が一緒でも、仲良くする気なんかないからな」
「……クラウス・エトワール」
涙は出なかった。私の声も震えていなかった。怒りというものは通り越すと冷静になるようである。
「よく分かったわ。あなたは優しい同情心で私と仲良くしてくださっていたのね。もちろん二度と話しかけないわ。今までご同情ありがとう!」
叩き付けるように言う私に、彼は顔を歪めて低く笑う。
「そうしてくれ、ビオラ・ニナンス。せいせいするよ」
駆け下りた階段の後ろの方で、彼の笑い声が耳に付いた。ああ、本当に。
私の幼なじみは、大変格好良く身分も良く、そして実に愚かな人なのだ。
それ以降、学園の高等部ではもちろん話しかけることも、視線すら合わせることもなかった。彼は、彼の顔と地位に群がる女をまるでハーレムのように周囲に侍らせていた。勉学もトップクラス、もちろん剣術や馬術も他の人間に負けたことはない彼がもてるのは当然とも言えた。
私が一人で愛読書を読みながらお弁当を食べている中庭にまで、彼の姿が見えるのだ。何人もの女達と談笑しながら、私の前を通る。
当然本から目を離さない私であったが、彼は「こんなところで一人で食事しているとは、嫌われ者は大変だな」とまるで蔑むように呟きながら、取り巻きの女達と含み笑いをして去って行くのだ。
小さい頃の私に尋ねたい。誰が王子様だ。
今の彼には私の好きだった輝く笑顔も、何も無い。彼はまるで私を傷つけようとでもするかのように、辛辣に私を馬鹿にするのだ。
まあ好きにすればいい、と私は思う。
誰かが言った。愛情の反対は憎しみではない。
無関心だ。私はもはや彼に向ける関心は一欠片もないのだ。
そう思いながら私はお気に入りの作者の書いている本をひたすらに読みふけった。
* * * * * * * * * *
「……縁談、ですか?」
ある日、家に戻ると母から満面の笑みで伝えられた。確かに私もそろそろ年頃だ。早い人は既に婚約している。
「それもエトワール侯爵家からのお申し込みなのよ! どう、嬉しいでしょう!」
その瞬間私の顔から感情という物が飛んでった。呆然なんてものじゃない。意味が分からない。
「――愛人の申し込みではなくて、ですかお母様」
「まぁ何を言っているの。そんな下品な冗談、エトワール家の方にいうんじゃありませんよ」
母の叱咤に私は心の中で「それを仰ったのは、エトワール家ご長男様ですが」と呟いた。
「良かったわね、クラウス・エトワール様とは昔からのお知り合い。あなたは昔から彼の事が好きだったものね」
「いえお母様。昔から、ではなく『昔は』です」
「まだ申し込みの段階だけど、顔合わせは来週の日曜日よ。ああ勿論どうせ学校で会うんでしょうけど、ご家族とも話し合わないといけないものね」
これは駄目だ。全然何も聞いていない。
私は諦めたようにため息をついて、一応聞いて見た。
「お断りできます? その縁談」
「無理に決まってるでしょう。冗談ばかり言うんじゃありません」
「ですよねー」
男爵家の娘が侯爵家の息子をお断りするなんてとんでもない。先約があるのであればまだしも、そうでないのであれば完全なる玉の輿である。断るような人間は頭がおかしいといわれるだろう。
私は駄目元で一応母に抗議してみた。
「お母様、あのですね。最近女性の地位も向上してきたことですし私はずっと独り身でもいいというか、出版社で働きたいというかですね」
「そうそう、顔合わせはあくまでもまだ非公式だから安心していいわよ」
「女性からの離婚というものが革新的に騒がれ始めて、ベストセラーもばんばん出ているくらいでして。もちろん私の愛読書の先生も離婚は女性に認められた権利だと」
「ああ、もうビオラ! いい加減にしなさい!」
雷が降ってきた。ぎゅっと首を縮めて私は目をつぶった。
「あなたがいろんな本を読んでいるのも趣味の範囲だと目をつぶってあげていたのよ? いいこと、女は好かれて嫁いでこそ幸せになれるのよ。クラウス・エトワール様と婚約して、高等部を卒業したら結婚するのよ」
頭痛がしてきた。好かれてもいないし、勿論好いてもいない相手である。私は呟くように言った。
「お母様だってお父様に好かれて嫁いだのに、浮気されているじゃないですか……」
「ビオラ!!」
避雷針が必要なレベルの雷が落ちてきた。私は早々に玄関から自室へと走って逃げることにした。自室に飛び込んで鍵をかけると、眉間の皺をのばすようにぐりぐりと押した。
「これはもう、出来るだけ早い離婚を狙うしかないのかしら」
現在、貴族の間では女性の申し出による離婚なるものは許されてきている。昨今の女性による社会進出や、女性の人権について段々と意識改革がなされはじめたのだ。パトリシアという女性作家による「女性の人権~私と旦那の離婚~」という著書が大ヒットし、次々と女性に対する受け皿が現れ始めたのだ。裁判所しかり、働く場所しかり。
だが母はまだ昔の慣習に囚われているのもあり、娘を結婚させようとしている。あの、クラウスと。
私は深くため息をついて、椅子に座るとペンを手に取った。
これがもし十年前のことであれば、この上ない至福の時となったであろうに。
* * * * * * * * * *
「聞いたか? お前と俺は婚約する」
次の日学園で、幼なじみが話しかけてきた。今日は珍しく取り巻きはいないようである。
私は冷めた目でベンチに座ったまま彼を見上げた。
「まだ決まった訳でもありませんが」
「断れるわけないだろうが。それとも尻軽なお前は他に男でもいるというのか?」
その質問には返事をせずに、私は尋ねてみた。
「そもそも、エトワール様。あなたが私と婚約、しいては結婚するなんてそちらには何も益がない話ではありませんか?」
一文以上の言葉を彼と交わし合うのは久々である。彼は鼻で笑って返事をした。
「むろん何の益もない。そんなお前を本妻に置いてやろうというんだ。俺が愛人を囲っても勿論文句など言わないよな?」
文句を言うどころか、どうぞどうぞの状態である。
クラウスにも益はないだろうが、私個人にも何ら良いことが無い。政略結婚が基本とはいえど、これはあんまりだ。
「頭空っぽな取り巻きさんが沢山いらっしゃるエトワール様ですもの。その方達とご結婚なさったらいかがです?」
私の反論に幾分か鼻白んだ様子で、クラウスは眉を上げた。
「あいつらみたいな貞操観念がない女なんか本妻に出来るか。すぐに浮気して誰のと分からない子供を産むに決まっている」
貞操観念がない男が何か寝言をほざいている。
私は手に持った本を閉じて天を仰いだ。ここに殺人許可証があったら殺っていい気がする。
「大変光栄な話ですけれども、エトワール様」
光栄すぎて反吐がでそうだという言葉はかろうじて呑み込んだ。
「私は他に好きな方がいるのでご遠慮させて頂きたいですわ」
私の冷ややかな声に、彼はぎょっと目をむいた。すぐに吐き捨てるように言った。
「ばかばかしい! お前に好きな男などいるわけがないだろう!」
まるで私が彼の気を惹きたいが為の虚言を弄しているかのように、彼は哀れみの視線で見てきた。
「そんな嘘をついてどうするんだ、ビオラ。お前が誰とも仲良くしてないということなど知っている」
学園で女に囲まれる彼に対して、私は男女共に親しいと言える人はいなかった。中等部はもちろん、高等部に入っても独りぼっちである。
そして知っている。それはクラウスが裏で私と仲良くした人に対し、侯爵家という立場を盾に「ビオラと仲良くしたら困ることになる」と囁いているからだと。
「それともずっと俺を好きだったとでも言う気か?」
彼の目がぎらりと光った。お前は人の話をちゃんと聞けと口から飛び出る所であった。
「ですから、他に好きな人がいるからあなたとの縁談はご遠慮申し上げたいと言ったでしょう?」
「ビオラ、じゃあ言ってみろ。お前の好きなやつとは誰なんだ?」
私は口を閉じた。すぐに彼は勝ち誇ったように言う。
「ほら言えないじゃないか。まったく……本当にお前は女として駄目だな。嘘をつくほどに性格も悪く、身分も低いのに気位だけは高い」
彼は低く笑った。
「俺以外の誰もお前のことなど嫁にするわけないだろう。せいぜい愛人だ。俺に感謝して、誠心誠意尽くせよ」
「……」
手に持った分厚い本は、決して人を殴るためのものではない。そう自分に言い聞かせないと思わず撲殺してしまいたくなる。
「クラウス・エトワール」
私は勝手に冷たくなる声で言った。
「呼び捨てにするな。なんだ」
「私ね、あなたのこと」
彼は私の唇が開くのをじっと見ていた。
「正直、本気で大嫌いですの。無理矢理結婚させられたとしても、絶対離婚しますわよ」
「……」
クラウスは、私の言葉に目を泳がせるようにして、視線を下へと向けた。
今までさすがにきちんと言ったことはなかった。けれどきっぱりと言い切りたい。私はこの目の前の愚かな人に、全く興味がない。嫌いという言葉を使ったものの、本当に興味がないのだ。
綺麗な顔立ちの素敵な王子様。彼の事を好きだったのは、あの中等部の日。勇気を出して彼に訴えたあの時までである。
「……仮にそうであろうとも」
彼は吐き出すように言った。私を見つめる目に、燃えるような色が見える。
「お前は俺のものになるんだ。嫌いでも知ったことか。離婚なんて出来ると思うなよ」
そう言い捨てて彼は校舎へと戻っていった。
「……」
私は小さなため息をついた。
話すうちに何となく気付く。彼はただ、私を傷つけたいのだろうか。
彼は私が傷ついた顔や苦しそうな顔をすると喜んだような笑みを浮かべる。何て性格の悪い男だ。何故私を、とも思うがどのような理由であろうと理解できないだろうし、理解しようとも思わない。
男爵家が侯爵家の縁談を断ることなどできっこない。それは常識だ。
また彼と結婚したとして……証拠を集めて裁判所に訴えるという手順が本当に取れるのだろうか。完全なる籠の鳥として家から一歩も出られないとすると証拠もなにも役に立たない。逃げ出したとしても母がいる以上、我が家は安全地帯ではない。
私は手に持った本を抱きしめて、もう一度ため息をついた。
* * * * * * * * * *
「本日はお日柄もよく……」
「あらおほほ、緊張しているのかしら。ビオラったら」
無表情を通り越して氷の仮面をつけたような私と、不敵な笑みを漏らしているクラウスは対面した状態で食事をしている。
私の隣には両親が座っていて、あちらにもエトワール家のご両親がいる。
あっという間に来週の日曜日が来て、まさかの顔合わせである。出来れば冗談であってほしかったが、本気でこの縁談をすすめようとしているようなのだ。今朝も何度も止めたのだが、母に引きずられるようにして連れて来られた。身売りをされている気分である。
私がクラウスをちらりと見ると、彼は鼻を鳴らして笑った。その目は「さあどうだ、もうどうしようもないだろう」と語っていた。
無言の私を捨て置いて、両親とエトワール家の話し合いは進み、さくさくと婚約の話になっている。
「まぁうちの娘を貰ってくださるなんて本当に光栄で……」
「いいえ、クラウスったらビオラさんじゃないと嫌だと言っておりますの」
なにやら笑いさざめく声が聞こえるが、意図的に右から左へと流しているので会話の内容は聞こえない。聞きたくない。
「では卒業したらすぐに結婚でよろしいかしら?」
エトワール家のお母様が私の母に尋ねる。母はもちろん頷いた。
「ええ、喜んで。ねぇビオラ、ありがたいことですわね」
「……大変ありがたいお言葉なのですが」
やっと口を開いた私に、エトワール家の父母は安堵の表情だ。逆にうちの母は青ざめた。余計なことを言うなとばかりにテーブルの下で私の足を踏む。痛い。
「わたくし、他に結婚の約束をしている方がおりますのでご縁がなかったということでお願いします」
両親も、エトワール家の父母も、そして勿論クラウスも目をこぼれ落ちんばかりに丸くして言葉を失った。
衝撃からいち早く立ち直ったのはクラウスだった。
「……っまたそのような戯れ言を! いい加減弁えてはどうだ、ビオラ!」
「戯れ言ではありませんよ、エトワール様」
彼は私が家名で彼の事を呼ぶと、嫌そうに顔を顰める。
「他の男と約束なんてしている訳がないだろう! そもそも、うちからの縁談を断れるとでも思っているのか!」
叫ぶクラウスにゆったりと笑って私は手に持った手紙を開いた。もちろん、侯爵家の縁談は断れるはずがない。普通なら、だ。
「アルデミ公爵家からの結婚のお申し込みを受けております。三男のケイト・アルデミ様と結婚します。当主のアルデミ様からの直筆の親書もこちらに」
今朝届いたばかりの手紙を広げて周囲に見せてあげた。正直間に合わないかと思った。
小躍りする思いで手紙を胸に抱きしめて、今日のこの場に望んだのである。
「っ!?」
奪い取るようにその手紙を見て、みるみる顔を青ざめさせるクラウス。勿論その手紙にはしっかりとアルデミ家の押印がある。偽物ではない。
取り落とすようにしたそれを、エトワール家の父母、そして私の両親が見る。もはやクラウスの顔色は青を通り越して真っ白だ。
「……っビオラ。君は、その男の事を」
縋るような目で私を見てくるクラウスに、満面の笑みで答えてやる。
「勿論、ずっと心から尊敬し、愛している方ですの」
彼の絶望の表情を、何ら心動かされるはずもなく見やって、私は席を立った。
* * * * * * * * * *
「……ビオラ」
突然の出来事にやはり両親からはお小言を貰ったが、それでも侯爵家より公爵家。母は飛び上がって喜んだ。
そんな夜に人知れず、男が忍んで来た。消沈した様子はいつもの彼らしくはないが、勝手に深夜、女性の庭に忍び込むあたりに彼のいつもの自分勝手さが現れていると思う。
「話が、あるんだビオラ」
いつになく神妙な顔をしたクラウスである。
私は窓の鍵を開けることなく応じた。
「聞くだけでしたら聞きますけど、返事は先にしておきますね。絶対いやです」
「……」
彼は唇を噛んで俯いた。
「君が、好きなんだよ」
「好きな子を虐めるような子供じみた愛情を向けられても困りますわ」
彼のしたことは度が過ぎている。これで愛しているんだと言われたところで驚きすぎて目玉が落ちる。
「君が中等部の頃に、リアから嫌がらせをされていたとき、どうして俺を頼ってくれなかったんだ?」
「あなたに迷惑をかけたくなかったんです」
それは確かだ。私は遠慮した。彼に迷惑をかけたくなかったし、他人に嫌われるような女だと思われたくなかった。彼の前ではいつでも笑っていたかったのだ。
「俺はそんなに頼りないかと思った。同時に一人でなんとかなると思っている君に腹が立ったし、俺に頼らせたかった。依存でもなんでもいい、俺のものになってほしかった」
さすがに一人でなんとかなるとは思っていない。あの頃はクラウスに知られたくなくて必死に虚勢を張っていた。それが彼には強がっていると思われたのだろうか。
「君から貰った刺繍のハンカチもずっと持っている。頼む、お願いだ……ビオラ」
クラウスの手が窓の硝子にそっと触れて、彼は涙を流した。
「君が好きなんだ。俺と結婚してくれ」
私はその様子を見て思った。
私の幼なじみは、大変格好良く身分も良く、本当に愚かな人なのだ。
愛という言葉で全てが許されるならば、離婚する夫婦などいないと愛読書にも書いてある。名言だと思う。
ここで、ずっと彼を好きだった……などといえる感情はもう私の中のどこを探しても無い。
「では、返事は既に先ほどしたことですし、お帰りはあちらですよ?」
淡々と窓の向こうを指さして返す私に、彼は発狂したかのように窓を叩いた。強化硝子にしておいて正解だった。破られるところだった。
「ビオラ! お願いだからちゃんと考えてくれ! 二度と君を傷つけない、大事にする! 約束するから、だからもう一度、俺に機会をくれ!」
私と彼の機会は、もう二度と来るものではないのだ。
私は棚から愛読書を取り出すと、ゆっくりと一節を読み上げた。何度も読んでうんうんと頷いて、共感して。暗記するほどだ。
「一度浮気する人も暴力を振るう人も、必ずまたします。二度としない、大切にするなどの甘い言葉にほだされてはいけません。必ず彼は繰り返します……エトワール様、私がまた何かをしたときに、例えば男の人と親しくしていたと誤解したとき、あなたは『お前が悪い』と責めないと、本当に思います?」
ぐっ、と詰まるようにして彼は言葉を失った。
「愛しているからで許されるものでもないのですよ。過ぎたことはどうにもなりません。私とあなたの小さな恋は、中等部のあの日終わったのです」
「それでも君を愛しているんだ……君がいない世界なんて、耐えられない。君以外誰もいらない! 何でもするから、俺の傍にいてくれ……頼む」
縋るように涙を流して言うクラウスに、私は思わず「ヤンデレ」の項目を開いてしまった。刺激すると監禁するらしい。怖い。
「私はケイト・アルデミ様を愛していますの。彼と共に添い遂げたいのです」
「そいつは一体誰なんだ! 君は、誰とも仲良くなんてしていなかったじゃないか!」
叫ぶ彼にはよく見えるように、私の愛読書を見せた。題は「異文化コミュニケーション~正しい離婚の勧め~」と書いてある。この貴族社会における革新をもたらした、ベストセラーエッセイである。
「私ずっと」
微笑みが見えるようににっこりと、彼に笑ってやる。
「彼と文通しておりましたの。ケイト・アルデミ様……この本の作者である、パトリシア様と」
* * * * * * * * * *
初めはただのファンレターだった。そのうちに好きな人の話、嫌がらせの話、クラウスの話など色々するうちに、私は彼と仲良くなった。パトリシアが偽名で実は男性だと知ったときには衝撃を受けた。では、パトリシアが離婚したという旦那とのエッセイは何だったのだろうと。
ただ、彼が語らないので私も聞かなかった。そんな関係が何年も続いた。
彼は手紙の中で「事情があってあまり人と親しくできないんだ」と書いていた。
私より十歳以上も年上の彼だが、まだ未婚であり彼自身も「誰とも結婚したくない」と言い張っていた。公爵家の三男なので跡継ぎの問題はないようではあるが、それでもプレッシャーがすごいと時に彼は手紙で愚痴を書いてきた。
私がクラウスとの婚約についてケイト様に相談の手紙を送ったときに、彼から「良かったら会えないか」との返事が来た。
夜陰に紛れてこっそりと馬車で会ったケイト様は、とても線の細いタイプの美形だった。彼は赤い長めの髪をひとまとめにして、簡素な服装をしていた。顔を笑みの形に崩して彼は笑う。
「……初めまして、ビオラ。君とは初めての気がしないね」
「ずっと文通させていただいていたせいか、私も同じ気持ちです」
不思議だった。美形な彼だというのに、何故か異性として意識する気持ちが沸き起こらなかった。
「さっそく本題に入りたい。ビオラ、君はクラウス・エトワールと結婚はしたくないんだね?」
「はい」
私は彼の目を見てしっかりと頷いた。ツンデレではない、本気でお断りしたいのだ。
「なら僕から提案がある……君さえよければ僕と結婚しないか?」
私は驚いてケイト様を見た。彼は柔らかな微笑を浮かべている。
「結婚? ケイト様と私が、ですか?」
「そう。ずっと文通をしていた君になら、話せる。ビオラ、僕はね」
彼は深くため息をついて言った。
「僕はね、前世と呼ばれる異世界の記憶があって……そして前世の僕は……女なんだよ」
「……」
私はじっとケイト様の言葉を聞いていた。
「信じられないだろう?」と寂しそうに笑う彼の言葉に、首を振った。
「僕は、恋愛も結婚も出来ないと思った。両親の叱責は激しかったがどうしても無理だとずっと粘って、今は膠着状態だ」
公爵家の三男が、未婚でいいはずがない。それは分かる。
「僕は君を助けたい。そして君に助けて欲しい。……結婚しないか?」
私は何一つ迷うことなく頷いた。
「喜んで、ケイト様」
彼は深く頭を下げて、そうして私の手を取って笑った。
「……ありがとう、ビオラ」
ひどく柔らかい、女の子のようなほっとした笑顔だった。
* * * * * * * * * *
それからしばらく経った日の午後。うららかな日差しが差し込んでくる。
私はケイト様の隣のソファで、原稿を読んでいた。前世のケイト様は離婚後も苦労したらしい。新たな恋人が出来ると邪魔をして来る元夫に、ありとあらゆる手段を講じて逃げ出したと。
「異世界にもあきらめの悪い男はいらっしゃるのですね」
彼は微笑んで、執筆の手を止める。
「そうだね。もちろんこちらにもいるけどね。未だに僕の家にクラウス・エトワールから君宛の薔薇の花が届くからね。二人っきりになったら僕は殺される気すらするよ」
恐ろしい。ストーカーこわい。私はぶるりと身を震わせた。
あの後、どうにかケイト様のもとに嫁入りをして、仲良くきゃっきゃうふふと楽しい毎日を過ごしている。
私は出版社で働くことは出来なかったが、ケイト様の本の校正を手伝っている。閨を共にしない私達に子供が生まれることはないだろうが、アルデミ家としては放蕩三男が嫁を娶っただけで諸手を挙げての大歓迎である。私としては何よりケイト様の新作を真っ先に読めるのも嬉しいし、異世界の記憶と言われるいろんな話を聞くのも楽しい。
未だにあのクラウス・エトワールは私の事を諦めていないらしい。難儀なことである。
「ケイト様、ご迷惑をおかけしてすみません」
「いいや、妻を守るのは夫として当然だろう? ……と、著書にも書いておいた」
謝る私に、楽しそうに話すケイト様を見る限り、一生この選択を後悔しないに違いない。
私にとって大事なのは、王子様の手を取ることではなかった。
私という一個人が尊重されて、幸せに生きることなのである。
「ところでビオラ、ケーキ作りに興味はないかい?」
「やだケイト様、そんな悪魔な誘惑を! あるに決まっているじゃないですか!」
「いやぁ元夫からのメールが殆ど『マイハニー』だったことを思い出していきなりハニーケーキを作りたくなってきたんだ」
「それはけしからんですね! お手伝いしましょうケイト様! 大丈夫、甘い物は別腹です」
「そういって女は太るんだよ、ビオラ! 食べたら必ずエクササイズしなきゃ」
私が笑う。ケイト様も笑う。
そんな幸せな午後に、とても満足しているのだ。