自転車に乗って(仮)
「はぁ」
と素っ頓狂な声を出した後、浪人時代からの友人タカノリは笑いながら、
「自分探しって、ヒロ、わいはここにおるやんけ」
そう言って、ビールを飲み干した。
そんなタカノリを見ながら、僕は思った。
分かってないなぁ。
今しかできない自分探しなのだ。
こんなこと、大学生の今、それも一年生の夏休み、今しかできない。
二年生になったらバイトに本腰を入れようと思うし、
三年生になったら就職活動だってしなきゃいけなくなる。
四年生になったらなったで……、きっと忙しいはずだ。
とにかく、今なのだ。
彼女はいないし、バイトもしていない。
時間は有り余るほどあって、死ぬほど暇な今だからこそ、自分探しの旅に出る。
それも、自転車で一周しちゃう。
最初は、日本一周、と意気込んだが、だんだん自信がなくなって、
西日本一周に縮小してみたが、それでも達成できる気がしなくなってきた。
だいたい西日本一周なんて中途半端なんだ、と自分に言い訳をしながら、最終的に、
『自分探し!! 九州一周、自転車の旅』
と自分の中でタイトルを決めて、それを友人のタカノリに話して聞かせたのだった。
もちろん、日本一周から縮小されたなんてことは言わない。
「とにかく、おいは明日から自分探しに出るっさ」
僕はそう言って、グラスを空けた。
分かっていなかったのは、僕だった。
福岡を出発して、西回りで九州を一周するつもりだった。
途中、熊本の実家に寄って家族を驚かせるというのも予定のうち。
地元の友人たちも驚くだろう。
なにせ、福岡から佐賀、長崎と回って、フェリーに乗って熊本に行くのだ。
それも自転車で。
これは、ちょっとした冒険譚だ。
自慢できる。
なんでそんなことするん、と聞く家族や友人たちに言ってやるんだ。
自分探しをしてみようかなって思ったって。
計画中、その場面を想像するとワクワクしていたのだが、
昨夜のタカノリの反応を見て、もしかしたら熊本でも同じ反応かもしれないと思った。
いや、きっと地元では驚き感心されるはずだ。
よし、出発だ。
意気込んでペダルをこぎ始めたのが朝の六時。
そして、今、十一時。
すでにケツが痛くてたまらない。
五時間も自転車に乗り続けたことなんてなかったけれど、
こんなにもケツが痛くなるなんて想像もしていなかった。
パンクしないからという理由で思い切って買ったマウンテンバイクも、
タイヤのデコボコが余計な摩擦を増やしているような気がする。
日が高くなるにつれて、気温も上がってきた。
首筋はもろに日に当たってジリジリと痛くなってくる。
日よけにと首にタオルを巻いてみたが、暑くて耐えられなかった。
オイ、なんしよっちゃろ。
考えても仕方がないので、ペダルを踏むしかなかった。
タカノリには言わなかったが、そして、自分でも見ないふりをしている理由なのだが、
今回の旅の目的の一つに、アラキさんの実家のある長崎に寄るということがあった。
アラキさんは法学部の一年生。
僕は経済学部で、友人の紹介で知り合った。
凄く可愛くて美人というわけじゃないけれど、知的で、大人で、
法学部崩れの経済学部生の僕からしたら憧れというか、尊敬というか、
そういう気持ちで接しているうちに、なんというか、好感というか、
好きというか、いてもたってもいられない時があるというか、そんな感じになって、
一回だけ告白をしていて、実はお酒飲んだ後に一回キスもしていて、
僕は大好きなんだけれど、アラキさんはちょっと素っ気なくて、
付き合っているのかどうなのか、僕はもっと先まで行きたくて、
つまりエッチとかそういうこともしたいんだけれど、
アラキさんはなんとなく壁を作っているようなそんな雰囲気で、
時どきは二人で会って食事するんだけど、手をつなぐことはなくて、
ギクシャクはしていないんだけれど、キスしたわりには親密じゃないなぁっていう、
童貞の僕にとっては、蛇の生殺しって感じだ。
だから、今回、アラキさんが帰省している間に、僕も長崎に自転車で行こうと思った。
そして、アラキさんにメールしてみるのだ。
「今、長崎にいるよ。自転車で来たんだぁ。意外に都会だね」
アラキさんはきっと驚くだろうな。
会いに来たと思って、喜んでくれるかもしれない。
そう考えると、ちょっとだけ疲れも忘れて、ペダルが軽くなった気がした。
佐賀平野。
さすがに広い。
ずっと向こうまで見渡せる
熊本の実家は温泉街の近くで、こんな平野はなかった。
感心しながらペダルをこいでいると、想像で憧れていたことをやりたくなった。
時どき、テレビや映画で外人がやっている、上半身裸で自転車というやつだ。
佐賀に入って車も少なくなってきて、それにこの眺めというシチュエーション。
上半身裸で自転車というのが凄く合いそうな気がした。
前からも後ろからも車は来ていない。
周囲に人もいなさそうだ。
やるなら今だ。
僕は自転車を止め、思い切ってティーシャツを脱いだ。
それから自転車にまたがって、ペダルをこいでみた。
風が気持ちいい。
上半身の汗、特に胸から腹にかけての汗がすっとひいていく。
憧れの外人スタイル達成。
手放し運転でもしたい気分だったが、転んだら情けないからやめた。
ふと自分の体を見ると、胸板も薄いし、腹周りにちょっと脂肪もあるし、
なんだか憧れの外人スタイルとは違う気がしてきて白けてきた。
もう一回自転車を止めてティーシャツを着た瞬間、後ろから車が追い抜いて行った。
変な人だと思われたかな。
いや、汗だくのティーシャツを着替えていると思われただろう。
そう思って欲しいんだけど、どうなんだろう。
そんなことを考えていると、突然、本当に突然、後ろの方で雷が鳴った。
驚いて振り向くと、遠くの方に雲がかかって、その下が靄がかっていた。
きっと、にわか雨が降っているんだ。
もう一度、雷、今度は空から地面に向かって伸びる稲光が見えた。
そうか、平野だから、こうやって雷が見えるんだ、すげぇ。
感心して見とれていると、ポツリと腕が濡れた気がした。
それから、また、ポツリ、ポツリポツリ、ポツポツポツポツ。
見上げると、さっきまで晴れていた空が、どんよりく暗くなってきている。
雷、今度は近くで聞こえた気がした。
やべぇ、こっち来てる。
自転車に乗って、雷雲から逃げるようにペダルをこいだ。
結局、にわか雨と雷雲に追いつかれ、バス停で休憩することにした。
自分探しの旅で、雷に打たれて死ぬなんてシャレにならない。
バス停のトタン屋根に雨がぶつかる音と、それが流れ落ちて地面に落ちる音、
そして時どき辺り一面が光って鳴る雷の音。
喉が渇いたが、リュックにはペットボトルは入っていない。
自動販売機で買えば良いやと考えていたのだが、
バス停から顔を出して左右を見渡しても、自動販売機がなかった。
佐賀って田舎だなぁ。
座って色々な音を聞きながら目を閉じると、いつの間にか眠り込んでいた。
目が覚めると、雨は上がっていた。
腕時計を見ると、午後四時だった。
今日中に長崎に着く予定だったから、今からかなり頑張らないといけない。
バス停を出て、自転車に乗る直前、ふと今まで来た道を振り返ると虹が出ていた。
なんか、良いもん見たなぁ。
よっしゃ、行くか。
ペダルをこぐ足にも力が入った。
地獄が待っていた。
嬉野峠。
ペダルをこいでもこいでも、自転車が進まない。
登っても登っても、延々に続く上り坂。
足、特に太ももが、もう限界だと悲鳴をあげている気がする。
とっくの昔に限界に達したケツは、立ちこぎの今は安息の時間帯。
この峠、標高何メートルあるんだよ、ったく。
もう無理、と思って、僕は自転車を降りた。
こいでも進まない。
こうなったら、押すしかない。
ふと、ゴロ合わせが頭に浮かんだ。
恋、でも進まない。
これじゃ、僕とアラキさんじゃないか。
我ながら、ネガティブな思いつきにため息が漏れた。
こいでも進まない。
こうなったら、押すしかない。
恋、でも進まない。
こうなったら、押すしかない。
おっ、これ良いじゃない。
こんなことで現実がうまくいくわけはないと分かっているけれど、
気持ちが軽くなって、体も軽くなって、押している自転車も軽く感じて、
僕はもう一度、自転車にまたがった。
越えてみせよう、嬉野峠。
こいで、こいで、上りきる。
恋で、恋で、上りきる、よっしゃ。
変なテンションでこぎ始めたけれど、やっぱり上り坂。
ペダルは変わらず重かった。
長崎市。
一瞬、初めて来たと思ったけれど、よく考えたら中学校の修学旅行で来ていた。
アラキさんは、たしか長崎市出身と言っていた。
そうか、平和公園と平和祈念像の街で育ったんだ、アラキさん。
うんうん分かる、穏やかな感じだもんなぁ。
法学部っていうのも、平和を愛するという感じで合っている。
この街、アラキさんに合っている。
こういう所で育つと、ああいう女性になるんだろうなぁ。
良いね、長崎。
僕、長崎も好きだよ。
長崎、も、だって。
そう、アラキさん。
僕、アラキさんが育った長崎、も、好きだよ。
ニヤニヤしながら自転車をこいでいると、すれ違う女子高生に見られた、気がした。
君たちも、アラキさんみたいな素敵な女性になるんだろうね。
そう思うと、本当に長崎って凄い街という気がしてきた。
ところで、昼メシがサンドイッチだったから、長崎ではちょっと豪華にしたい。
なるべく長崎らしく、となると、やっぱりチャンポンだ。
中華街に行こうなどとは一かけらも思わなかった。
今の僕の財布で考えたら、そんなところに行けるはずがない。
僕は自転車を停めて、迷わず、本場長崎のリンガーハットに入った。
さて。
とうとうアラキさんにメールする時が来た。
キーワードは三つ。
自分探しの旅。
自転車で長崎に来たよ。
それから、長崎、も、好き、いや、素敵だよ。
大盛りのチャンポンを注文して、僕はリュックからケータイを取り……、あれ……?
あれあれ?
手探りでリュックを探る。
これはティーシャツ、これはトランクス、これは財布で、これはズボン。
一瞬固い感触があったけれど、歯ブラシセットだった。
だめだ、手探りじゃ見つからない。
僕はリュックを広げて、中をのぞき込んだ。
リュックの中は薄暗くてよく見えない。
仕方がないので、僕は目立たないように中身を出した。
三枚のトランクスを最初に出して、すぐにティーシャツをかぶせた。
ズボンを出して、財布を出して、歯ブラシセットを出して、
リュックをのぞくと、中は空だった。
リュックのポケットを探ると、ケータイの充電器が出てきた。
なんで?
朝の準備を思い出す。
リュックにトランクスを入れて、ティーシャツを入れて、ズボンを入れて、
ケータイと歯ブラシセットを入れて、充電器をポケットに入れて、
出発前にトイレに行こうと思った時にケータイが鳴ったから、
ケータイを持ってトイレに行って小便しながら出たらタカノリからで、
お土産買ってこいよとか言われて、部屋に戻って、
一応親にもメールして、それから。
「お待たせしました」
と大盛りチャンポンを持って来てくれたオバちゃんが、
椅子に乗せてある僕の荷物を見ながら、
「旅行?」
と聞いてきた。
「自分探しなんです」
と言って笑ってみたが、本当は、今は、ケータイ探し。
オバちゃんは愛想笑いしながら去って行った。
朝からのことを思い出す。
親にメールした後。
なんとなく癖でテレビをつけたらニュースがあってて、
イチローが去年の記録を抜きそうだと言っていたから食いついて観て……。
あぁ、ケータイ、ベッドの上だ。
腹一杯になって、どうしたものかと考えて、考えあぐねた挙句、
僕は公衆電話からタカノリに電話することにした。
といっても、タカノリのケータイ番号なんて覚えていない。
タカノリがバイトしているビデオ屋のカードを持っていたから、
それに書いてある番号にかけて、タカノリの友人であることを一生懸命説明して、
それでやっとタカノリのケータイ番号を教えてもらった。
ところが、タカノリは公衆電話からの電話に警戒しているのか、何回かけても出ない。
もうこれで最後にしようと思ってかけたら、やっとのことでつながった。
「あ、オイけど」
「なんやヒロや。ケータイからかけろさ」
僕は事情を説明して、それから、さりげなく聞いてみた。
「タカノリさぁ、アラキさんの番号とか、知らんよね」
「いや、皆で一緒に飲んだ時に交換したからあるはずよ」
「あ、マジで。ちょっと教えてもらって良い?」
僕は、小さくガッツポーズをしながら言った。
「じゃ、メールで送っとくけ」
そう言って電話を切りそうになるタカノリを呼び止めて、
「ちょちょちょ、ちょっと待て。なんとなく今必要なんよ。なんとなくね」
あぁ、もうバレバレじゃないか。
タカノリは、笑ったような声で番号を教えてくれた。
よし、アラキさんのケータイに電話しよう。
そう思って、受話器を上げて、テレホンカードを入れて、番号を押し始めて気付いた。
いつもはメールがほとんどだし、電話するにしてもアドレス帳に登録されているし、
リダイアルとか着信履歴とかで簡単に電話することができる。
意識したことなんてなかったけれど、番号を押すのって結構勇気いる。
特に、最後の一ケタ。
最後の一ケタ、「3」が押せずに何回か受話器を置いた。
ケータイのなかった時代の人、結構すげぇ。
こんな勇気を毎回振り絞っていたのかな。
いろいろ考えても仕方がない。
とにかく、アラキさんに電話しないと。
僕は、自分の中の勇気をかき集めて、最後の一ケタを押した。
呼び出し音が鳴る間、ふと嬉野峠を思い出した。
恋、でも進まない。
いかんいかん。
ネガティブになっている。
こうなったら、押すしかない。
そうそう、押すしかないんだ。
こいで、こいで、上りきる。
上りきっちゃうもんね、恋で、恋で、のぼ「もしもし」
アラキさんの声で、僕は現実に戻った。
「あ、あぁ、あぁ、あの、僕、吉田だけど」
「あぁ、ヒロ君、どうしたと。ケータイは?」
「あ、実はそれが家に忘れちゃってさ、ははは」
「そうなん。今日はどうしたと」
僕は、もう、受話器を握りしめて、テレホンカードの残高しか見ていなかった。
電話の向こうから小さな子どもたちの声と、それから爆竹の音が聞こえる。
親戚で集まって花火大会、だろうか。
「あ、いや、特に用事はなかったんやけどね、うん。なんとなく」
「ふふっ、なんとなくって」
アラキさんが、気のせいか、嬉しそうな声で言った。
その声を聞いて、僕はちょっとだけ勇気が出た。
「今ね、長崎におるんよ」
「えっ、そうなん!?」
アラキさんの驚いた声を聞いて、僕はもしかしたら引かれたかもと思った。
よくよく考えてみたら、僕の行動って、アラキさんにしてみたらキモくないか?
いや、キモいを通り越して、ちょっとこわくないか?
「あ、別に用事があったわけじゃないんだけど、なんとなく来たって感じ」
僕が細い声でそう言うと、アラキさんは、
「えーっ、言っといてくれたら良いとにー」
今度も、やっぱり嬉しそうな声だった。
アラキさんの向こうから、かすかに、風鈴の音がした。
僕はほんの少しだけ安心して、安心ついでに言ってみた。
「会ったり、できんよね」
言った後で、しまったと思った。
無理とか会えないとか、そんなこと言われたら、凹む。
明日からの自分探し、もう無理。
ケツの痛みに耐える気力、絶対出ない。
ほんのちょっとだけ間があいて、アラキさんが言った。
「会いたいけど、今からじゃなぁ。実家に親戚も集まっとるし、佐世保からじゃ遠いし」
そっかぁ、アラキさん、実家の佐世保かぁ。
あれ?
「実家、長崎じゃなかったっけ?」
「それ、誰と勘違いしとるーん」
意地悪そうに聞いてくるアラキさんの声は、やっぱり嬉しそうだった。
「いやいやいやいや、誰とも勘違いしてないって」
「ふーん」
アラキさんが、やっぱり嬉しそうに、意地悪に、可愛らしい声を出した。
自分探しの旅の裏目的が、自分の中で大きくなった。
自分なんか見つけなくても良くなった。
タカノリが言っていた通りだ。
僕は、今、ここにいて、タカノリは福岡にいて、
そして、アラキさんは佐世保にいる。
佐世保は遠い、らしい。
それでも、電話でアラキさんの声が聞けている。
福岡に帰ればまたデートだってできるし、
今度のデートでは、もっと自信を持って会える気がする。
地獄の嬉野峠を越えてここまで来た。
それだけでも一歩成長した気がする。
公衆電話からケータイに電話したのだって初めてだ。
アラキさんと、こんな感じの打ちとけた会話するのも初めてな気がする。
アラキさん、会いたいけど、って言ってなかったか?
言ったよな、うん、絶対に言った。
それってつまり、アラキさんも会いたいって思ってるってことだよな。
いろいろ考えてみると、トータルして、総合的に、全体的に、
来て良かったという感じだし、何より自分に自信がついた。
あ、やっぱりこれって、自分探し成功って言って良いんじゃないの。
なんだか一気に強くなった気がして、僕はアラキさんに言った。
「あのさ、僕、アラキさんに会いたくて長」
プーッという音がして、テレホンカードが出てきた。
僕はピピーピピーという音を聞きながら、
アラキさんが、嬉しそうに笑っている顔を、勝手に想像した。
あ、そういえば、キーワード。
自分探しの旅。
自転車で長崎に来たよ。
長崎、も、好きだよ。
結局どれ一つ言えなかったけれど、今の僕にとって、そんなもの必要ない気がした。
長崎は今日も雨だったなんて歌があったけれど、今朝の長崎は晴れ。
雲一つない。
今日は熊本に着く予定。
フェリーに乗るし、昨日よりはだいぶ楽なはずだ。
熊本に着いたら、家族には、やっぱり自分探しの旅って言おう。
それから、地元の友だちにも。
ただし、一言付け加える。
自分探しの旅をして、気づいたんだ。
自分ってさ、ここにいるんだよな。
タカノリのズッこける姿が目に浮かんだが、それさえも無性に楽しく感じた。
青空と太陽とそよ風に背中を押されながら、僕はペダルに自分を乗せた。