【暴食の章】喰らう迷宮、模倣する影
意識が、ほどけていく。
闇に沈むというより、溶けていく感覚だった。
痛みはある。確かに腹を貫かれている。内臓が悲鳴を上げ、血が床を濡らしているのも分かる。
それでも、不思議と恐怖は薄かった。
代わりに、思考だけが異様なほど冴えていく。
――ああ、これか。
どこかで読んだ覚えがある。
人は死の淵に立たされると、精神を守るため、あるいは生存確率を一瞬でも高めるために、脳が限界以上に回転することがある、と。
ストレスを和らげるためか。
それとも、最後の悪あがきとしてか。
今の状態は、そのどちらも満たしている気がした。
視界の端で、あの影が立っている。
自分と同じ姿。
同じ呼吸。
同じ、立ち方。
だが、あれは“自分”ではない。
そう断言できる理由を、思考が必死に探していた。
まず、ワーウルフだ。
巨大な人狼。
これまで戦ってきた魔物と比べても、明らかに格が違った。
攻撃力、防御力、判断力。どれもが一段上。
それでも、辛勝とはいえ倒せた。
そして――魂縛が、失敗した。
魔力は十分だった。
術式も間違っていない。
抵抗も、あったようには思えなかった。
なのに、縛れなかった。
理由が分からなかった。
今までは、失敗にも必ず原因があったからだ。
「……あれは、本当に魔物だったのか?」
喉から漏れた声は、血の味がした。
思考が、次の疑問へと跳ぶ。
このダンジョンだ。
小さい。あまりに小さい。
だが、構造は異様なほど“整って”いる。
入口、通路、分岐、最深部。
まるで、冒険者にとって都合のいい形をなぞったように。
情報がない理由を「規模が小さいから」で片付けるのは簡単だ。
だが、それだけでは説明がつかない。
――ミミック。
宝箱に擬態する魔物。
人の欲を利用し、近づいたところを喰らう存在。
では、もし。
宝箱ではなく。
ダンジョンそのものが、擬態だったとしたら?
冒険者を誘い込み、
魔物を住まわせ、
最深部という“ゴール”を用意する。
最深部まで来た者は、帰路に入る。
緊張が、わずかに緩む。
その瞬間を、狙う。
強力な守護者を配置し、殺す。
――では、もしそれでも生き残る者が現れたら?
ここで、思考が一気につながった。
模倣する。
能力を。
戦闘技術を。
魂術を。
だから、ワーウルフは異様に強かった。
あれは、単なる魔物ではない。
ここに辿り着いた“誰か”を、過去に喰らっていた存在。
そして、倒された今。
次に模倣する対象は――自分だ。
背後から腹を貫いた存在を思い出す。
あの姿。
あの気配。
魂術の詠唱を始める、迷いのない動作。
あれは、影。
個としての魂を持たない、ダンジョン本体の一部。
だから魂縛ができなかった。
魂がないのではない。
魂が、分散している。
一瞬だけ形を取る擬似的な存在。
だから縛れない。
だから、倒しても意味がない。
理解した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
影が、こちらを見る。
そして、詠唱を始める。
自分の知識を使い、
自分の術を行使する。
「……詰み、か」
声に、力はなかった。
立ち上がろうとしたのは、希望からではない。
ただ、生きたいという本能だった。
そのとき。
空気が、裂けた。
雷鳴。
いや、雷光だ。
蒼白い閃光が空間を貫き、影の詠唱を寸断する。
次の瞬間、三つの斬撃が重なった。
一撃目。
二撃目。
三撃目。
息を突かせぬ、完全な連続攻撃。
つばめ返し。
しかも――すべてに雷の属性が宿っていた。
「――間に合った、だろ!」
サミエムの声。
剣を振り抜いた姿が、雷光の残滓の中に浮かび上がる。
影は、抵抗する暇すらなく引き裂かれ、霧散した。
「……完成、したのか」
かすれた声で、そう呟く。
サミエムは一瞬だけこちらを見て、苦笑した。
「一回だけじゃ、足りなかったみたいだな」
雷エンチャント。
しかも、三連すべてに付与。
奇跡ではない。
積み重ねの結果だ。
視線の先、広場の奥。
壁に見えていたものが、脈打っている。
肉の塊。
魔力の核。
ダンジョンもどきの、心臓部。
「これが本体だ!」
サミエムが踏み込み、剣を突き立てる。
雷が内部を駆け巡り、低い悲鳴のような振動音が響いた。
空間が歪み、崩れ始める。
擬態は解け、迷宮は終わる。
床に転がりながら、崩壊していく天井を見上げる。
生き延びた。
だが、はっきりと分かった。
この世界には、
殺す存在だけでなく、
学び、模倣し、進化する悪意がある。
そしてそれに抗うには、
一人では足りない。
意識が闇に沈む直前、
剣を支えに立つサミエムの背中が見えた。
――まだ、先へ行ける。
そう確信したまま、視界は暗転した。




