【暴食の章】主の影
最深部は、思っていたよりも静かだった。
これまでの通路は、壁に這う魔力がざわめき、足音すら吸い込まれるような圧迫感があった。だが、そこを抜けた先は、奇妙なほど開けた空間だった。
天井は高く、崩れかけた岩が円形に並び、まるで古い闘技場のような形をしている。中央だけが不自然に平らで、長い年月、ここで何かが動き続けてきたことを示していた。
――いる。
視線を向けるより早く、気配が先に届いた。
暗がりの中央。
そこに、巨大な影がうずくまっている。
息を潜め、魔力の流れを探る。
今まで相手にしてきた魔物とは、明らかに質が違う。
「……ダンジョンの主、か」
喉が乾く。
逃げる選択肢はない。
ここまで来て引き返す方が、むしろ危険だ。
一歩、踏み出した瞬間。
影が、立ち上がった。
月明かり代わりの魔光石が、その姿を照らす。
巨大な人狼。
いや――ワーウルフと呼ぶべきか。
二本足で立ち、天井に届きそうな体躯。
全身を覆う黒灰色の毛並みは、鎧のように密で、呼吸のたびに波打っている。
黄色い瞳が、こちらを捉えた。
次の瞬間、地面が砕けた。
跳躍。
咄嗟に転がる。
背後で、岩が紙のように裂ける音がした。
「……っ!」
速い。
それも、ただの速度じゃない。
顕現させていた魔物を前に出す。
だが、爪が一閃するだけで、霧散した。
「一撃……?」
理解するより先に、二撃目が来る。
魔道具を連続起動。
防壁、加速符、閃光。
それでも、ワーウルフは止まらない。
爪を躱しても、衝撃波だけで体が浮く。
顕現体を再構築し、背後から噛みつかせる。
だが、首を振るだけで引きちぎられた。
頭が、急速に冷えていく。
――無理だ。
顕現化という新しい戦い方。
可能性はあるが、完成には程遠い。
その事実が、容赦なく突きつけられる。
だが、皮肉なことに。
顕現体が次々と粉砕されていくことで、
自然と、手が動くようになっていた。
結界を張る角度。
距離の取り方。
魔道具の切り替え。
――慣れている。
考えるより先に、体が反応している。
「……そうだ」
元々、これで生き残ってきた。
雷属性の触媒を最大出力。
地面に打ち込み、即席の帯電領域を作る。
ワーウルフが踏み込んだ瞬間、爆ぜる。
一瞬の硬直。
その隙に、魔道具を投擲。
刃が皮膚を裂き、血が飛ぶ。
怒号。
空気が震えるほどの咆哮と共に、突進。
真正面から受けるつもりはない。
紙一重で躱し、脇腹に符を貼り付ける。
爆発。
吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
視界が揺れる。
だが、立つ。
「……終わりだ」
最後の一手。
全魔力を集中し、魂術を展開する。
魂を縛る感覚。
確かに、捉えた。
魂術を展開した瞬間、確かな手応えがあった。
魂に触れた感覚。
縛り、引き寄せ、定着させる――その工程の最初までは、間違いなく成功していた。
だが。
次の瞬間、その感覚は霧散した。
「……失敗?」
弾かれたわけでも、抵抗されたわけでもない。
魂が、最初から“そこに無かった”かのような、奇妙な空白。
理解が追いつかない。
それでも、目の前のワーウルフは確かに倒れている。
巨大な身体は動かず、荒い呼吸音も消えていた。
「……魂がない?」
そんな馬鹿な、と内心で吐き捨てる。
理由を考えるより先に、宝を探すべきだと判断した。
ダンジョンの主を倒して、何も得られないというのはありえない。
血で濡れた手を拭い、顔を上げた、その瞬間だった。
――ぬるり、とした感触。
腹部に、異物が入り込む。
「……っ?」
遅れて、焼けるような痛みが押し寄せた。
息が詰まり、視界が歪む。
口から、熱を帯びた空気が漏れた。
見下ろすと、腹から赤黒い血が流れ落ちている。
そこには、ワーウルフの爪ではない“何か”が突き刺さっていた。
「……後ろ、から?」
信じられない思いで、ゆっくりと振り返る。
そこに――
いた。
灰崎が、立っていた。
同じ背丈。
同じ顔。
同じ目。
血の気の引いた表情で、こちらを見つめている“もう一人”。
「……は?」
声にならない音が喉から漏れる。
夢か幻覚か。
だが、腹を貫く痛みは、あまりにも現実的だった。
自分自身が、武器を握り、突き刺している。
「……何だ、これ」
問いかけても、返事はない。
もう一人の灰崎は、感情のない目で、ただこちらを見下ろしている。
その存在が、言葉よりも雄弁に告げていた。
――これは幻ではない。
――そして、偶然でもない。
ダンジョンの奥底で、
魂が縛れなかった理由が、
ようやく形を持って現れた。
意識が、暗転していく。
最後に見えたのは、
無言で立つ“自分自身”の影だった




