【暴食の章】それぞれの向かう先は遠く、祭りは近く
夜の宿屋は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。
食都の中心から少し外れたこの宿は、騎士や行商人が多く泊まるせいか、夜になると妙に落ち着いた空気になる。階下からは酒の匂いと笑い声がかすかに上ってきていたが、二階の一室はほとんど音が届かない。
卓の上に置かれたランプが、小さく揺れている。
向かいに座るサミエムは、腕を組んだまま黙り込んでいた。
剣は壁に立てかけてある。いつもなら手の届く位置に置くはずなのに、今夜は少し距離があった。
「……進んでないな」
先に口を開いたのは、サミエムだった。
自嘲気味でもなく、かといって冗談めかすでもない。事実をそのまま置いたような声。
「つばめ返しは形だけなら安定してきた。でも――」
言葉が、そこで切れる。
続きを促さず、ランプの芯を少しだけ調整する。炎が明るくなり、影が濃くなった。
「エンチャントが噛み合わない。
一撃目に属性を乗せると、二撃目が遅れる。
三撃目まで繋げると、魔力が持たない」
苛立ちを抑えているのが、声の端から伝わってくる。
「雷を乗せられたのは、あの時だけだ。クラウソラスを倒した時。
あれ以来、再現できてない」
奇跡的に成功した一度。
それがあるからこそ、今の停滞が余計に重くのしかかる。
「……祭り、もうすぐだよな」
視線を逸らしたまま、サミエムが続ける。
「あと数日だ。街の雰囲気も、だいぶ浮ついてきてる」
確かにそうだ。
昼間に歩いた一番街では、既に飾り付けが始まっていた。屋台の準備、騎士団の巡回強化、人の流れの増加。平和な祭りの前触れ――のはずなのに、感情の色はどこか濁っている。
焦りが、街全体に染み出している。
「俺の方も似たようなもんだ」
自然と、言葉が零れた。
資料を読み、理論は理解した。
魂縛石の性質も、顕現化という概念も。
だが、できない。
「分かってるのに、届かない。
触れた瞬間に、拒まれる」
サミエムが、ちらりとこちらを見る。
「拒まれる、って?」
「継承の問題だ。
力とか技術じゃない」
あの魂縛石の沈黙を思い出す。
はっきりとした拒絶。意思の壁。
「今のままじゃ、踏み込めない場所がある」
言葉にしてみて、改めて実感する。
ここまで来てなお、まだ“内側”には入れていない。
「……時間が足りないな」
サミエムが小さく笑った。
笑ったというより、吐き出したに近い。
「祭りが終わったら、たぶん一気に動く。
嫌な予感しかしない」
同意しかなかった。
暴食帝国は、表向きは豊かで、安定している。
だが裏側では、歪みが溜まり続けている。
ウェンデゴの噂。
治療に追われるクロノス。
感情の色が沈んでいく街。
「このままじゃ、間に合わない気がする」
サミエムの言葉に、否定はできなかった。
「だからこそ、無理にでも形にするしかないんだろ」
そう返すと、サミエムは少しだけ目を細めた。
「……お前が言うと、妙に納得できるのが腹立つな」
「そりゃどうも」
軽口を叩き合いながらも、空気は軽くならない。
互いに分かっている。猶予がないことを。
ランプの炎が、また揺れた。
祭りまで、あと数日。
その先に何が待っているのか、誰にも分からない。
ただ一つ確かなのは――
この停滞を、今夜のままにはしておけないということだけだった。
沈黙の中で、それぞれが考える。
次に踏み出す一歩を。




