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【暴食の章】残された魂

 研究所を出た直後、肺に入ってきた空気は、思った以上に冷たかった。

 湿った石と金属の匂い。長年閉ざされていた場所から一歩離れただけで、世界はこうも違う顔を見せる。


 クロノスは振り返らず、奥へと続く通路を歩いていく。

 足音は規則正しく、無駄がない。まるで時間そのものが歩いているかのようだ。


 俺の脳裏には、先ほど見た映像が焼き付いて離れなかった。

 三賢者の師――あの女性の横顔。

 優しさと後悔を抱えたまま、それでも前に進もうとした背中。


「……なあ、クロノス」


 呼びかけると、彼は立ち止まり、だがこちらを見ない。


「今は、言葉を選べ」

 低く、しかし拒絶ではない声だった。


「選んだつもりだ。あんたの師匠のことだ」


 わずかな沈黙。

 その間、通路の奥で魔導灯が微かに揺れた。


「……あの人は」

 クロノスはゆっくりと息を吐いた。

「正しい選択をしたわけじゃない。ただ、間違ったまま立ち止まらなかった」


「それが“理解しろ”って話か」


「許せとは言わない」

 彼は静かに続ける。

「犠牲を美談にする気もない。だが、理解されないまま消えるには、あの人はあまりに多くを背負いすぎた」


 いつもの高圧的な口調は、そこにはなかった。

 むしろ、驚くほど穏やかだった。


 クロノスは再び歩き出す。

 その背中を見ながら、俺は思った。

 この男もまた、犠牲の上に立っている。


 辿り着いたのは、研究所最奥。

 他の部屋とは明らかに造りが違う、半ば封印庫のような小部屋だった。


 床には複雑な魔法陣。

 壁には破壊された補助術式の痕。

 そして中央の台座。


「……ここは」


「クラウソラスが、最後まで触れなかった場所だ」

 クロノスが言う。

「いや、正確には“触れられなかった”と言うべきかもしれない」


 台座の上にあったのは、結晶体だった。

 拳ほどの大きさだが、その内部には常識外れの密度で魂が圧縮されている。


 視線を向けた瞬間、胃の奥が軋んだ。

 魂術師としての感覚が、警鐘を鳴らしている。


「……ベヒーモスか」


「察しがいいな」

 クロノスは肯定した。

「完全な魂縛には失敗している。だが、魂の“核”だけは残った」


 俺は一歩、また一歩と近づく。

 結晶に手を伸ばした瞬間、意識が引きずり込まれた。


 怒り。

 恐怖。

 圧倒的な飢え。


 世界を喰らい尽くすことしか考えていない、純粋な暴力衝動。

 だが――それだけじゃない。


 そこには、命令を待つ“空白”があった。

 縛られることを前提とした、不完全な存在。


「魂縛石は、感情で質が決まる」

 クロノスの声が、遠くから聞こえる。

「恐怖で縛れば暴走し、憎悪で縛れば破壊衝動が残る。喜びだけが、完全な従属を生む」


「……随分、皮肉だな」


「この世界そのものが、そういう構造だ」

 彼は即答した。

「何かを得るには、必ず何かを差し出す。神が作った、隠れた法則だ」


 俺は結晶から手を離した。

 今の俺では、扱えない。

 それがはっきり分かるほどの圧だった。


「これを見つけたのは、お前が初めてだ」

 クロノスは続ける。

「だが、使うかどうかは別問題だ。力は、常に選択を迫る」


「選ばなかったら?」


「誰かが代わりに選ぶ」

 淡々とした答え。

「それだけだ」


 部屋に沈黙が落ちる。

 魔導灯の明かりが、魂縛石の中で屈折し、獣の影のようなものを浮かび上がらせた。


 祭りが近い。

 この国が、最も油断する時期。


「来るな」

 俺が言う。


「ああ」

 クロノスは否定しなかった。


 確信だった。

 時間を読む者の、揺るぎない予感。


 研究所を出ると、外は異様なほど静かだった。

 祭りを控えた食都は、本来なら喧騒に包まれているはずだ。


 だが、俺の目には見えた。

 感情の色が、ゆっくりと濁っていく街の輪郭が。


 均衡は、すでに軋み始めている。

 そしてその中心に、俺たちは立っている。


 魂縛石の重みが、まだ掌に残っていた。

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