【暴食の章】魂に触れるということ
研究所の最奥で、時間は奇妙に歪んでいた。
空気が重い。
音が吸い込まれるように静かだ。
魔法陣の中心から一歩離れた場所にしゃがみ込み、床に散らばる記録用水晶を手に取った。
「まだ、こんなに残ってるのか……」
「彼は、記録を捨てなかった」
クロノスは背後で腕を組んだまま言う。
「失敗も、迷いも、全て“過程”だと考えていたからな」
水晶に魔力を流すと、淡い光が揺れ、映像が浮かび上がる。
そこに映っていたのは、一人の女性だった。
年の頃は三十代半ば。
淡い色のローブを纏い、長い髪を後ろで束ねている。
表情は穏やかで、声も柔らかい。
『……魂術はね、力じゃないの』
録音された声が、静かに響く。
『触れる、ということなの』
息を止めた。
感情の色が、映像越しでも伝わってくる。
澄んだ色。
強さを内に秘めた、優しさの色。
「……この人が」
「三賢者の師だ」
クロノスが答える。
『戦争は、多くを奪ったわ』
映像の中の彼女は、机に置かれた指輪を見つめていた。
『夫も、家も、国も』
一瞬、声が揺れる。
『……復讐だけが、私を立たせていた』
主人公は無意識に拳を握っていた。
『魔術を学んだの。強くなるために。奪い返すために』
映像が切り替わる。
荒れた研究室。
徹夜続きの痕跡。
そして――幼い子供の背中。
『気づいたら、息子は家を出ていた』
彼女は、淡々と語る。
『止める資格なんて、なかったから』
クロノスは視線を落としたまま動かない。
『その時、ようやく分かったの』
彼女は、静かに微笑んだ。
『私は、もう正気じゃなかった』
映像が暗転する。
次に映ったのは、餓鬼の外樹。
痩せ細った三人の子供。
怯えながらも、必死に生きようとする瞳。
『……復讐に囚われる人生は、間違いだった』
『だから私は、ここに来た』
彼女は子供たちの前に膝をつき、目線を合わせる。
『教えるわ』
『生き方を』
水晶の光が消える。
研究室に、静寂が戻った。
「……優しい人だな」
サミエムがぽつりと言った。
「優しいだけじゃない」
クロノスが言う。
「心を折られ、狂い、戻ってきた強さだ」
別の水晶を手に取る。
そこには、魂術の理論が細かく記されていた。
だが、クラウソラスの記録とは違う。
「……魂を、制御する方法じゃない」
「気づいたか」
「向き合う方法だ」
魂縛の陣。
その描き方が、根本から違っていた。
力で抑え込むのではない。
逃げ道を塞ぐのでもない。
「……同意を前提にしてる?」
「そうだ」
クロノスは短く頷く。
「魂術は、契約に近い」
主人公は、自分の魂術を思い返す。
感情を見る。
理解する。
その上で、縛る。
「俺のやり方……」
「師の教えに、近い」
クロノスの言葉は、重かった。
「クラウソラスは、この思想を理解できなかった」
「否定した?」
「焦った」
クロノスは目を閉じる。
「才能があったからこそ、追いつけない現実を認められなかった」
深く息を吐いた。
「……魂術ってさ」
「なんだ」
「便利な力じゃないな」
「便利だったら、ここまで歪まない」
水晶を戻し、立ち上がる。
「でも」
一拍置く。
「俺は、使う」
クロノスは、初めて小さく笑った。
「それでいい」
研究所を出た後、外の光がやけに眩しく感じられた。
しばらく歩いてから、クロノスが口を開く。
「今日見たことは、忘れるな」
「忘れられないだろ」
「忘れなくていい」
立ち止まり、俺を見る。
「だが、縛られるな」
感情の色を見る。
クロノスの色は、相変わらず読みづらい。
だが、その奥に――確かな“覚悟”があった。
「……師匠の教え?」
「いや」
クロノスは視線を前に戻す。
「俺自身への戒めだ」
食都の喧騒が、再び近づいてくる。
胸の奥で静かに思った。
魂に触れるということは、
相手の人生を背負うことだ。
その重さを、
自分はもう、知ってしまったのだと。




