【暴食の章】病はまだ名を持たない
食都の朝は、相変わらず賑やかだった。
蒸気の上がる屋台、焼きたてのパンの匂い、早朝から働く人々の声。
見た目だけなら、何一つ変わっていない。
「……平和だな」
主人公が呟くと、サミエムは鼻で笑った。
「そう見えるだけだろ」
「まあな」
二人は外樹へと伸びる通路を歩いていた。
昨日までの鍛錬の疲れが、まだ足に残っている。
だが、周囲の人々の感情の色は――
「……濁ってきてる」
主人公が低く言う。
黒ではない。
赤でもない。
くすんだ灰色が、街全体に薄く漂っていた。
「昨日より、増えてるよな」
「間違いない」
不安。
理由の分からない焦燥。
だが誰も、それを口にしない。
そんな時だった。
「……あの」
声をかけてきたのは、若い下級騎士だった。
鎧はまだ新しく、動きに少し硬さがある。
「お二人、冒険者の方ですよね?」
「まあ、そんなとこ」
サミエムが答える。
騎士は少し周囲を気にしてから、声を落とした。
「最近……変な患者が増えてまして」
「変な?」
「はい」
騎士は言葉を選ぶように、ゆっくり続ける。
「最初は、ただの栄養失調だと思われてました。でも……」
「でも?」
「食べても、回復しないんです」
主人公は足を止めた。
「食べても?」
「はい。大量に食べても、逆に衰弱していく」
サミエムが眉をひそめる。
「消化できない?」
「それも違います。吐くわけでも、腹を壊すわけでもない。ただ……」
騎士は喉を鳴らした。
「食べた分だけ、何かを失っていくみたいで」
沈黙が落ちた。
「共通点は?」
主人公が聞く。
「外樹に近い地区に住んでいる人が多いです。それと……」
「それと?」
「夜になると、異様に寒がる」
主人公の背筋に、薄く冷たいものが走った。
「熱は?」
「ないです。むしろ、体温は正常。でも……」
騎士は視線を逸らす。
「目が、変なんです」
「変?」
「空腹の獣みたいな目をする」
それは、まだ“病”と呼べる段階ではない。
だが、確実に何かがおかしい。
「治療は?」
サミエムが聞く。
騎士は少し安堵したように頷いた。
「はい。クロノス様が」
主人公の視線が鋭くなる。
「……治ってるのか?」
「いえ」
即答だった。
「悪化が止まっている、という感じです」
「どうやって?」
騎士は少し迷った末、正直に答えた。
「時間を……戻していると」
主人公とサミエムは顔を見合わせた。
「逆行?」
「ええ。発症直前の状態まで」
つまり。
「応急処置か」
主人公の言葉に、騎士は苦く笑った。
「何度も繰り返せば、身体への負担が大きいそうで……」
「それでもやってる?」
「はい。『放置すれば確実に死ぬ』と」
クロノスらしい判断だ、と主人公は思った。
助かる可能性が低くても、
見捨てるという選択を取らない。
「原因は?」
「分かっていません」
騎士は首を振る。
「ただ……」
「ただ?」
「クロノス様が、外に漏らすなと」
その一言で十分だった。
これは、ただの流行り病ではない。
「ありがとう」
主人公が言うと、騎士は深く頭を下げた。
「お気を付けください」
騎士が去った後、しばらく二人は無言で歩いた。
「……見せないな」
サミエムが言う。
「見せないな」
主人公も同意する。
直接的な惨状を。
血も、叫びも。
だが、だからこそ不気味だった。
「クロノスが治してるってのもな」
「治してない」
「止めてるだけ」
言葉が重なる。
サミエムは拳を握った。
「つまり、根本は分かってないってことだ」
「分かってたら、時間逆行なんて使わない」
魔導師にとって、時間系は最後の手段だ。
「……なあ」
「ん?」
「これ、祭りの前だよな」
「そうだな」
サミエムは舌打ちした。
「嫌な予感しかしねえ」
主人公は感情の色を見る。
街全体が、昨日より確実に濁っている。
「クロノスは、もう分かってる気がする」
「何が?」
「これが、始まりだってこと」
サミエムは黙った。
治療されている患者たちは、まだ生きている。
だが――
「逆行を止めた瞬間、どうなる?」
主人公の問いに、答えはない。
「……行こう」
サミエムが歩き出す。
「どこへ?」
「次の鍛錬」
主人公は少し笑った。
「相変わらずだな」
「やれること、やるだけだ」
街は平和だった。
表向きは。
だが、病はもう、確実に根を張り始めている。
名もないまま、
静かに、確実に。




