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【暴食の章】名を刻むという救い

 雨は、いつの間にか止んでいた。


 灰色だった空は、薄く裂けるように光を取り戻し、

 アルシャルノ山の山肌を、静かに照らしている。


 金色熊が消え去った場所には、巨大なクレーターだけが残っていた。

 溶けた金属が冷え固まり、歪な地形を形作っている。


 そこに立っていると、勝利という言葉が、どこか嘘のように思えた。


 俺は、膝をつき、地面に落ちていた革袋を拾い上げる。


 ――セレンのものだ。


 焦げ、破れ、それでも中身だけは守られていた。


「……日誌、か」


 震える指で開く。


 文字は、丁寧だった。

 几帳面で、誠実な性格が、そのまま筆跡に滲んでいる。


 最初の頁には、こう書かれていた。


 ――調査団、結成。


 ――未踏破の地を踏む。


 ――誰も見たことのない景色を、後世に残す。


 英雄。


 その言葉は、直接は書かれていない。


 だが、行間から滲み出ている。


 未知を踏破し、名を刻みたい。

 ただの生存者ではなく、語られる存在になりたい。


 それは、虚栄ではない。


 生きた証を、世界に残したいという、あまりにも人間的な願いだった。


 ページをめくる。


 日付が進むにつれ、文字は荒れていく。


 仲間の名前。

 笑顔。

 軽口。


 そして。


 ――金色。


 ――動いた。


 ――恐怖。


 そこから先は、途切れ途切れだ。


 最期のページには、短い一文だけが残されていた。


 ――それでも、進みたい。


 俺は、日誌を閉じた。


 胸の奥に、重たい何かが沈む。


 セレンは、復讐だけでここに来たわけじゃない。


 恐怖に縛られながらも、

 かつて夢見た英雄であろうとしたのだ。


「……終わらせよう」


 俺は立ち上がる。


 視線の先には、山頂があった。


 雲を突き抜けるようにそびえる、大岩。

 アルシャルノ山の象徴。


 誰も、そこに名を刻んだ者はいない。


 未踏破だったからだ。


 俺たちは、黙って登った。


 サミエムは、何も言わない。

 アレクシエルも、ただ歩く。


 言葉が、不要だった。


 山頂に辿り着く。


 風が、強い。


 だが、不思議と寒くはなかった。


 俺は、剣を抜く。


 魂縛石を作るための道具ではない。

 ただ、刻むための刃。


 大岩に、刃を当てる。


 火花が散る。


 一文字、一文字。


 深く。

 消えないように。


 ――Selen。


 その下に、小さく刻む。


 ――探索団団長。

 ――アルシャルノ山、踏破。


 慰霊碑。


 だが、それだけじゃない。


 これは、証明だ。


 彼が、恐怖に屈しきらなかったこと。

 未知に挑み、最後まで進んだこと。


 英雄になりたかった男が、

 英雄として終わったという事実。


 剣を納める。


 その瞬間、風が止んだ。


 錯覚かもしれない。


 だが、山が――少しだけ、静かになった気がした。


 サミエムが、低く言う。


「……これで、良かったんだな」


 俺は、答える。


「ああ」


 感情を見る。


 そこには、虚無がある。

 だが、その奥に、微かな安堵が灯っている。


 何も残らない死ではなかった。


 意味のある死だった。


 それが、どれほど救いになるかを、俺たちは知っている。


 遠く。


 誰にも見えない場所で。


 女神アリフィカは、その光景を見ていた。


 黒い感情の奥で、

 ほんの一瞬だけ、何かが緩む。


 ――秩序を取り戻す。


 それは、戦うことだけじゃない。


 名を刻むこと。

 生を、無駄にしないこと。


 その意味を、彼女はまだ言葉にできない。


 だが、確かに。


 この世界は、

 少しだけ、前に進んだ。

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