【暴食の章】黄金の咆哮、そして火
魂縛は、成立しなかった。
それは一瞬で分かった。
呪文が終端に至った刹那、金色熊の内部で何かが“噛み合わなかった”感触があった。
魂を縛ろうとした糸が、芯を捉えきれず、ずるりと滑り落ちる。
「――っ!」
反動が、全身を襲う。
視界が白く弾け、膝が崩れた。
だが。
完全な失敗ではなかった。
金色熊が、狂ったように吼えたのだ。
それは、これまで一度も聞いたことのない声。
金属を引き裂く悲鳴と、獣の絶叫が混じった、不快極まりない音だった。
体表の黄金が、ひび割れる。
輝きは鈍り、ところどころ黒ずんだ不純物が露出する。
「……効いてる!」
アレクシエルが叫ぶ。
だが、次の瞬間。
地獄が始まった。
金色熊は、暴走した。
理性も、目的も失ったように、四肢を振り回す。
ただ破壊するためだけの運動。
山肌が崩れる。
岩盤が砕け、土砂が雪崩れる。
「散開しろ!」
セレンの声が飛ぶ。
だが、遅かった。
金色熊の前脚が地面を叩きつけ、衝撃波が走る。
サミエムが、吹き飛ばされた。
「ぐっ――!」
岩に叩きつけられ、血を吐く。
俺も同じだった。
体が宙を舞い、背中から地面に落ちる。
肺から空気が押し出され、視界が暗転する。
立ち上がろうとして、気づく。
――脚が、動かない。
感情を見る余裕もない。
ただ、生きているかどうかを確かめるので精一杯だった。
金色熊が、こちらを向く。
ひび割れた体表の奥で、赤黒い光が脈打っている。
金属と魔力が、暴走し、自己破壊寸前の状態。
それでも、強い。
弱体化したはずなのに、なお圧倒的。
(……これが、未踏破の理由)
理解する。
これは、勝てるかどうかの問題じゃない。
生き残れるかどうかの存在だ。
サミエムが、剣を支えに立ち上がる。
片膝をつきながらも、前を見据える。
「……まだ、終わってない」
声は、震えている。
それでも、剣は離さない。
金色熊が、突進する。
避けられない距離。
俺は、詠唱を始めようとして――。
喉が、動かなかった。
魔力が、残っていない。
意識が、遠のく。
その時。
視界の端で、セレンが動いた。
彼は、走っていた。
金色熊へ向かって。
「セレン――!」
叫んだが、声は届かない。
彼の左腕が、だらりと下がっているのが見えた。
いつの間にか、骨が砕けていたのだろう。
それでも、止まらない。
セレンは、懐から“もう一つ”を取り出した。
粗悪な金。
最悪の不純物を含んだ、金属塊。
「……やっぱりな」
彼は、笑った。
静かで、穏やかな笑み。
「一つじゃ、足りなかった」
次の瞬間。
彼は、自らの左腕を、地面に叩きつけた。
鈍い音。
骨が砕け、肉が裂ける。
そして――。
血に濡れたその腕ごと、粗悪な金を掴み、
金色熊の口へと、突っ込んだ。
「――――――――ッ!!」
金色熊が、咆哮する。
内部で、異常反応が起きているのが分かる。
魔力循環の暴走。
金属構造の崩壊。
セレンは、最後に振り返った。
俺と、サミエムを見る。
「……これで、終わりにしろ」
次の瞬間。
爆炎が、山を包んだ。
轟音。
閃光。
衝撃が、全身を殴りつける。
視界が、完全に白に塗り潰される。
――世界が、消えた。
どれほど時間が経ったのか、分からない。
気づいた時、空は灰色だった。
雨が、降っている。
灰を洗い流すような、冷たい雨。
俺は、地面に横たわっていた。
体が、動かない。
だが、生きている。
視線を動かす。
そこには――。
金色熊は、いなかった。
巨大なクレーターと、溶けた金属の残骸だけが残っている。
セレンの姿も、ない。
何も、残っていない。
サミエムが、這うようにこちらへ来る。
顔は血と泥にまみれ、目は赤く腫れている。
「……勝った、のか」
俺は、答えられなかった。
勝利。
その言葉が、喉に引っかかる。
感情を見る。
そこにあるのは、喜びじゃない。
喪失。
後悔。
そして、重すぎる“代償”。
遠く。
誰にも見えない場所で。
女神アリフィカは、目を伏せていた。
黒い感情が、わずかに揺れる。
――また、一つ。
この世界は、何かを得るために、何かを失った。
それはまるで逃れられない運命のように俺たちの人生を蝕み続ける。




