【暴食の章】生き残った者の恐怖
夜は、山のふもとの村よりも静かだった。
焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。
アルシャルノ山から一歩離れただけで、空気は別物になっていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
撤退後の沈黙は、敗北とは違う。
だが、成功とも言えない。
俺は焚き火越しに、セレンを見る。
彼は膝を抱え、火を見つめていた。
感情は――重い。
恐怖と、後悔と、そして消えない憎しみが、濁った色で絡み合っている。
「……話しておくべきだろうな」
セレンが、ぽつりと口を開いた。
「お前たちが、あの山にもう一度挑むなら」
誰も遮らなかった。
「俺は昔、暴食帝領でも指折りの調査隊を率いていた」
その言葉に、アレクシエルがわずかに目を見開く。
「団長として、未踏破の地をいくつも越えた。
アルシャルノ山も……その一つだった」
彼の視線が、炎の奥へ沈む。
「慢心はなかった。準備もした。
だが――あれは、自然でも魔獣でもない」
金色熊。
その名を、彼は口にしなかった。
だが、誰もがそれを理解した。
「遭遇した瞬間、終わりだった」
淡々とした声。
だが、感情は激しく揺れている。
「剣も魔術も通らない。
魔法は“弾かれる”んじゃない。
効かないことを選ばれている」
背筋が冷える。
「隊員たちは、目の前で殺された」
セレンの拳が、わずかに震える。
「叫びながら。逃げ場もなく。
俺は……動けなかった」
恐怖。
それは、弱さではない。
理解不能な存在と相対した時、人は等しく止まる。
「憎んださ。
だが同時に、恐ろしくて……」
彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「それから何十年も、俺はあの山を見上げるだけだった」
沈黙。
焚き火が揺れる。
「だがな」
セレンは顔を上げた。
「分かったこともある」
彼は、地面に指で円を描く。
「金色熊は、金を食う」
その言葉に、サミエムが反応する。
「主食が金鉱脈だ。
純度の高い金を食うほど、あれは“強くなる”」
感情を見る。
そこに、恐怖だけではない――研究者の視点が混じっている。
「逆に言えば、粗悪な金、不純物を含んだ金を摂らせると……」
「弱る?」
「いや」
セレンは首を振る。
「不安定になる」
彼の声が、低くなる。
「腐食剤、魔力汚染、精製不良の金。
それらを組み合わせれば、魔法は“効きやすくなる”」
俺は理解する。
(マシンに近い……)
生物でありながら、構造は装置に近い。
摂取物で性能が変わる存在。
「俺たちは、そこまで辿り着いた」
だが。
「……あと一歩、足りなかった」
その言葉が、重い。
「隊は全滅。
残ったのは、俺一人だった」
彼は、焚き火に何かを投げ込む。
黒ずんだ金属片。
溶けることもなく、歪む。
「だから次は、俺が行く」
静かな決意。
「粗悪な金を、あいつに食わせる。
体内で不安定になった瞬間――」
彼は、胸を指す。
「自爆する」
息を呑む音が、誰かから漏れた。
「相打ちだ」
セレンは、穏やかに言った。
「それしか、ない」
感情を見る。
恐怖は、まだある。
だがそれ以上に――終わらせたいという色が強い。
俺は、静かに口を開く。
「……一人で、行くつもりですか」
セレンは、少しだけ笑った。
「それが、団長の役目だ」
だが。
俺の胸の奥で、何かが引っかかる。
(それで終わりなのか?)
金色熊。
ただの魔獣ではない。
この先、もっと大きな意味を持つ存在になる――
そんな予感が、感情の色の奥に、微かに見えていた。
夜空を見上げる。
星は、何事もなかったかのように瞬いている。
――見守るだけの、黒い感情。
遠く、誰にも見えない場所で、
女神アリフィカは、ただ静かに、この選択を見つめていた。




