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【暴食の章】退くという選択

 アルシャルノ山の内部は、外界とはまるで別の理で動いていた。


 足を踏み入れてから、どれほど進んだのか分からない。

 磁場の乱れにより方位磁石は沈黙し、魔術の行使は常に微妙な遅延と歪みを伴う。

 魔力を流したはずの術式が、想定とは違う位置で発動する――それが、この山の常態だった。


 さらに、金鉱脈。


 地中深くに眠る膨大な金属資源が、魔力の流れそのものを乱している。

 魔術師にとっては、常に足場が崩れ続けるような感覚だ。


「……やはり厄介だな」


 アレクシエルが低く呟く。

 彼女の感情は、緊張と集中が鋭く混じり合った色をしていた。


「地形も、生態系も、侵入者を拒む前提で組まれている」


 俺は周囲を見渡す。


 巨木。

 奇妙にねじれた岩肌。

 そして――微かだが、確実に感じる“視線”。


(来る)


 そう思った瞬間だった。


 枝が軋む音。

 岩陰から現れる影。


 金色。


 毛並きらめく獣が、一体、二体……いや、それだけでは終わらなかった。


「囲まれてる」


 サミエムの声が短く響く。


 感情を見る。

 獣たちの色は、単純な飢えではない。

 これは――縄張りを侵された者の、それも“狩り慣れた”色だ。


 攻防が始まる。


 サミエムの剣に、淡く属性光が重なる。

 エンチャント。

 まだ粗はあるが、彼は確実に「騎士+エンチャント」という戦い方を自分のものにしつつあった。


 だが――数が多い。


 一体倒しても、次が来る。

 魔術で牽制しても、磁場の歪みで精度が落ちる。


(……消耗戦になる)


 撤退。


 その選択肢は、最初から頭にあった。


 俺たちは、撤退の経験がないわけじゃない。

 無謀を避け、引くべき時に引く判断は、これまでもしてきた。


 だが――今回は違う。


 判断が、一拍遅れた。


 包囲が完成しつつあるのを理解した瞬間、背中に冷たいものが走る。


「……零」


 サミエムが、硬い声で言う。


「今なら、まだ――」


「分かってる」


 即答した。

 だが、内心では理解していた。


 今なら、ではない。

 今だからこそ、もう限界だ。


 その時。


 鋭い笛の音が、山に響いた。


 獣たちの動きが、一瞬止まる。


「退路を確保しろ!」


 怒号。


 木々の間から現れたのは、白髪交じりの男だった。

 傷だらけの身体。

 だが、その眼だけは、異様なほど澄んでいる。


「俺の名はセレン!」


 彼は叫ぶ。


「この山の元・調査団長だ!」


 記憶が繋がる。

 数十年前、アルシャルノ山調査隊。

 壊滅したと噂された――生き残り。


「数が揃った時点で終わりだ! ここは“狩場”だぞ!」


 その言葉に、否定はできなかった。


(俺たちだけで判断していたら……)


 もう一手、遅れていた。


「……退く!」


 俺は声を張る。


 命令に、迷いはない。

 だが胸の奥に残る感覚は、これまでの撤退とは違った。


 撤退そのものは、恥じゃない。

 だが今回は――


 自分たちだけでは、引けなかった。


 セレンの指示で、獣たちの注意が一時的に逸れる。

 その隙を突き、俺たちは山の外縁へと走った。


 最後に振り返ると、金色の獣がこちらを見ていた。


 追ってはこない。


 最初から、山の外までは出る気がないのだ。


 ――生かされた。


 そう思った。


 山を抜け、膝をついた瞬間、肺が焼けるように痛んだ。


「……助かったな」


 アレクシエルが呟く。


 その声は、いつもの撤退後とは違う。


 勝ち目がないと分かって引いた、ではない。

 誰かの判断に救われた撤退。


 足音。


 血を流しながら、セレンが近づいてくる。


「礼は要らん」


 彼は静かに言った。


「俺も昔、同じ判断を誤った」


 それ以上は語らない。


 だが、その一言だけで十分だった。


 これは、初めての撤退ではない。

 だが――


 アルシャルノ山に生かされた撤退は、初めてだった。


 まだ、足りない。


 力も。

 覚悟も。

 選択の速さも。


 山は、はっきりとそれを示していた。

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