【序章】帝王の盤
宿の一室は、静かだった。
音がないわけではない。
外では人が行き交い、馬車が通り、街は確かに生きている。
だが、この部屋だけが切り離されている。
閉じた箱。
逃げ場のない思考の箱。
「……詰み、か」
アレクシエルが、ぽつりと呟いた。
冗談めかした言い方だったが、笑いはない。
「動けば捕まる。
動かなければ、いずれ囲われる」
腕を組み、壁に背を預ける。
「クラウソラスは、俺たちが何をするかを見てる。
それ自体が、もう負け筋だ」
正論だった。
魂縛を使えば目立つ。
使わなければ、ただの駒だ。
感情を見る。
アレクシエルの色には、焦燥と怒りが混じっている。
だが、その奥にあるのは――無力感だ。
ヘリオは黙ったまま、古い魔導具をいじっている。
いつもの癖。
考えが深くなると、手を動かす。
「……ねえ、ヘリオ」
問いかける。
「帝王の盤に乗る、って言ったよね」
「ああ」
視線を上げずに答える。
「それは、選択肢なの?」
「いいや」
即答だった。
「現状では、唯一の延命策だ」
延命。
その言葉が、胸に刺さる。
「帝王の意思は、理不尽だ。
だが、個人の思惑を軽々と踏み潰す力がある」
だからこそ、使える。
「クラウソラスは、帝王の前では慎重になる」
「……なるほどな」
アレクシエルが、乾いた声で言う。
「つまり、デカい盤面をひっくり返すしかない」
その瞬間だった。
――部屋の空気が、変わった。
圧が、降りる。
目に見えない何かが、天井から押し潰してくる。
息が、詰まる。
「……っ」
反射的に立ち上がる。
感情を見る。
――視えない。
人の感情ではない。
色が、存在しない。
扉が、音もなく開いた。
そこに立っていたのは、一人の男。
豪奢ではない。
だが、貧相でもない。
簡素な外套。
だが、仕立ての良さが隠しきれていない。
何より――視線。
値踏みするようでいて、興味がない。
世界そのものを、物として見ている目だ。
「延命、とは心外だな」
低く、よく通る声。
「私は、機会を与えに来た」
アレクシエルが、半歩前に出る。
「……誰だ」
男は、口角を上げた。
「名乗るまでもないだろう」
その瞬間、理解する。
理屈ではない。
本能だ。
この男は――帝王だ。
「強欲帝マモンだ」
空気が、さらに重くなる。
逃げ場がない。
マモンは、部屋を見回した。
壁。
床。
そして、僕。
「魂術師」
呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
「随分と、面倒な存在になったな」
否定できない。
「クラウソラスが動いた理由も、分かる」
その名を、平然と口にする。
「彼は、竜の匂いに敏感だ」
「……竜?」
アレクシエルが反応する。
「そうだ」
マモンは、楽しげに言った。
「竜祭を、知っているだろう?」
ラクスウェル。
首都。
百年に一度拝めるかどうかの竜が、
なぜか毎年現れる異常な祭り。
竜の素材を巡り、国家規模で動く狂宴。
「今年も、もうじき始まる」
マモンは続ける。
「例年より、多い」
「……何が」
「竜だ」
笑う。
まるで、珍しい果物の話でもするように。
「討伐に参加しろ」
唐突だった。
「竜を狩り、その素材を手に入れろ」
「それが……先手、か」
「そうだ」
マモンは、はっきりと頷いた。
「竜の素材には、魂が宿る。
魂術師にとって、これ以上ない餌だ」
餌。
その言葉に、嫌な感覚が走る。
「そして――」
マモンの視線が、鋭くなる。
「クラウソラスは、必ず来る」
年に一度。
竜祭には、彼が姿を現す。
素材目当て。
研究のため。
「先に盤を用意し、
彼を“招く”」
帝王は、淡々と言った。
「逃げ続けるか。
竜を狩るか」
選択肢は、二つ。
だが、答えは一つしかない。
感情を見る。
アレクシエルの色は、恐怖と興奮が入り混じっている。
ヘリオは――読めない。
だが、覚悟は固まっている。
マモンは、満足そうに頷いた。
「よい」
「竜祭まで、時間は少ない」
「準備は、させよう」
そして、扉へ向かう。
「――生き延びたければ、派手にやれ」
振り返らずに言い残し、帝王は消えた。
圧が、消える。
部屋に、ようやく空気が戻る。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
やがて、アレクシエルが苦笑する。
「……とんでもない盤に、乗っちまったな」
「逃げ道は、なくなった」
そう言うと、ヘリオは静かに立ち上がった。
「だが、初めてだ」
「何が?」
「こちらが、先に準備できる戦いは」
竜祭。
竜。
そして、クラウソラス。
逃げではなく、迎撃。
帝王の盤の上で、
初めて――こちらが、駒を動かす。
その重みを噛み締めながら、
僕は、静かに拳を握った。
もう、背中を預けて誰かを失う選択はしない。
ここからは、奪る側だ。




