【序章】消える魂術師
森を抜けた先で、ようやく馬車は速度を落とした。
もう追撃の気配はない。
感情を探っても、殺意の色はどこにも見当たらなかった。
それでも、誰も安堵の息を吐かなかった。
静かすぎる。
それが、逆に不安を煽る。
「……ここで一度、休もう」
ヘリオがそう言って、馬を止めた。
簡素な野営。火は起こさない。匂いも、光も、極力抑える。
座り込んだ瞬間、足から力が抜けた。
逃げ切った。
それは事実だ。
だが、胸の奥に残る重さは、何一つ軽くなっていなかった。
(……レイサム)
名前を思い浮かべるだけで、喉が詰まる。
まだ、生きているかもしれない。
そう考える余地は、確かにある。
だが同時に、あの追撃の執拗さが脳裏に蘇る。
あれほどの数と質を、こちらに回せた理由。
――考えたくない答えほど、容易く浮かんでくる。
「零」
アレクシエルの声に、顔を上げた。
「……すまない」
「何がだ」
「俺が……弱かった」
短い沈黙。
「違う」
即答だった。
「逃げたのは、俺たちの選択だ。
あいつが背を向けたのも、同じ選択だ」
その言葉は正しい。
だが、正しさが救いになるとは限らない。
ヘリオが、静かに口を開いた。
「……ここから先は、強欲帝領だ」
その名を聞いた瞬間、空気が変わる。
欲と取引、力と対価。
生き残るために、何かを差し出す国。
「この国では、噂が早い」
「噂?」
「ああ」
ヘリオは、焚き火もない暗闇の中で、淡々と続ける。
「最近、妙な話が流れている。
各地で、魂術師が“消えている”」
心臓が、跳ねた。
「消えている?」
「行方不明だ。死体も出ない。
ただ、忽然と姿を消す」
アレクシエルが眉をひそめる。
「偶然じゃないのか」
「偶然にしては、数が合わない」
ヘリオは、こちらを見ない。
事実を並べるだけの声音だった。
「魂術師が確認された直後。
あるいは、力を示した直後に消える」
胸の奥が、冷たくなる。
(……俺も、同じか)
自覚した瞬間、背筋に寒気が走った。
「誰がやっているかは、分からない」
ヘリオは、そう前置きしてから続ける。
「だが、必ず共通点がある」
「共通点?」
「“接触”だ」
短い言葉。
「必ず、誰かが先に会っている。
使者か、紹介者か、あるいは――縁談」
その単語に、全てが繋がった気がした。
僕は、拳を握り締める。
魂術師という存在。
それ自体が、狙われる理由になる。
「……力を持つだけで、消されるのか」
呟いた声は、思ったよりも低かった。
「この国では、力は資源だ」
ヘリオが言う。
「資源は、奪われるか、囲われる。
どちらかだ」
囲われるか。
奪われるか。
どちらも、自由はない。
「零」
アレクシエルが、こちらを見る。
「お前は……どうする」
問いだった。
逃げ続けるか。
隠れるか。
それとも。
僕は、目を閉じる。
感情を見る。
自分自身の色を見る。
そこにあるのは、まだ恐怖だ。
だが、それだけじゃない。
確かに、何かが変わり始めている。
「……逃げるのは、もう終わりだ」
言葉にした瞬間、不思議と胸が静まった。
「狙われるなら、理由を知る。
奪われるなら、奪わせない」
ヘリオが、僅かに口角を上げた。
「いい目だ」
その評価が、今はどうでもよかった。
頭の中に、はっきりとした輪郭が浮かび上がる。
魂術師が消える理由。
自分が狙われた理由。
そして、レイサムが背を向けた理由。
それらは、まだ線でしかない。
だが、いずれ必ず――一点に収束する。
夜が、少しずつ白んでいく。
新しい国の朝。
欲と力が支配する土地で、
僕は一つ、決めた。
この力から、目を背けない。
奪われるために持った力なら、
奪い返すために使う。
そうでなければ、
あの夜に背を向けてくれた意味が、なくなる。
風が吹き抜ける。
それは、始まりの匂いだった。




