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【序章】追撃の音

 馬車は、まだ闇の残る街道を疾走していた。


 車輪が地面を叩く音が、一定のリズムを刻む。

 それだけが、今も自分たちが生きている証のように感じられた。


 誰も、口を開かない。


 レイサムの名も、あの戦闘音のことも、誰一人として言葉にしなかった。

 だが、沈黙の中で全員が同じものを抱えているのは分かっていた。


 ――追っ手が来る。


 それは、もう確信に近い予感だった。


「……来るな」


 御者が、低く呟いた。


 その声に反応するように、空気が変わる。

 感情を見る。


 遠く、背後。

 薄く、だが確実に広がる殺意の色。


「数は?」


 アレクシエルが問う。


「三……いや、四。馬だ」


 追ってくるのは歩兵ではない。

 騎馬。しかも統率が取れている。


 ただの盗賊ではないことは明らかだった。


「……速いな」


 アレクシエルが歯を食いしばる。


 馬車は全速だ。それでも距離は、じわじわと詰められている。


 僕は、拳を握り締めた。


 魂術を使うには、感情の揺れを掴まなければならない。

 だが、今は無理だった。


 視界に映る感情が、多すぎる。

 追っ手の殺意、御者の焦り、アレクシエルの緊張、そして――自分自身の混濁。


(落ち着け……)


 そう言い聞かせるほど、心は散っていく。


 背後で、風を裂く音。


「来るぞ!」


 次の瞬間、矢が飛んできた。


 アレクシエルが剣を振るい、弾く。

 だが、一射だけでは終わらない。


 二射、三射。


 馬車の側面に突き刺さる音が、嫌に近い。


「零!」


「分かってる!」


 叫び返しながら、視線を走らせる。


 追っ手の感情は、薄い。

 訓練された兵士特有の、均された色。


 魂縛に必要な“揺れ”がない。


「――っ!」


 馬車が大きく揺れた。


 前方に仕掛けられた罠。

 車輪が一瞬、取られる。


「このままだと――」


 言葉の続きを、誰も言わなかった。


 その時だった。


 ヘリオが、外套の内側から小さな魔道具を取り出す。


「少し、派手に行くぞ」


 短く言って、地面に叩きつけた。


 瞬間、閃光。


 視界が白に染まり、爆ぜる音が響く。


 後方から、怒号が上がった。


 完全に止められたわけではない。

 だが、確実に足を鈍らせた。


「今だ!」


 御者が叫び、馬をさらに走らせる。


 馬車は街道を外れ、森へと突っ込んだ。

 枝が外板を叩き、葉が顔を掠める。


 それでも、追撃は止まらない。


 感情を見る。


 その色が、徐々に荒れてきている。


(……追い詰められてる)


 それは、こちらではなく――向こうだ。


 追っ手の中に、焦りが混じり始めている。

 だが、それでも引かない。


 まるで、逃がしてはならない“何か”があるかのように。


 胸の奥が、冷える。


(……レイサム)


 名前を呼びそうになって、唇を噛む。


 追ってくるということは。

 ここまで執拗だということは。


 あの場に、十分な戦力を残してきたということだ。


 それが意味することを、考えないようにしても、思考は勝手に辿り着く。


 馬車が、急停止した。


「降りろ!」


 ヘリオの声。


 前方は、急な崖。

 だが、その手前で、地面に刻まれた奇妙な紋様が光っている。


「結界だ。ここを越えれば、追えない」


 アレクシエルが頷き、僕の腕を掴む。


 最後の矢が、背後を掠めた。


 境界を越えた瞬間、空気が変わる。


 追っ手の感情が、そこで途切れた。


 完全に、撒いたわけではない。

 だが、少なくとも今は――追われていない。


 その事実が、逆に重くのしかかる。


 静寂。


 荒い息づかいだけが、森に響く。


 誰も、言葉を発しない。


 僕は、そっと目を閉じた。


 感情を見る。


 追っ手はいない。

 殺意もない。


 あるのは――欠けた感情。


 あの場所に残してきた、一人分の色。


 それが、もうここにはない。


(……まだ、決まったわけじゃない)


 そう言い聞かせる。

 だが、心は否定できない。


 この逃走が成功したということは。

 追撃が、こちらに集中していたということは。


 誰かが、代わりに――


 朝日が、木々の隙間から差し込む。


 眩しさに、目を細めながら、僕は思った。


 この光は、救いじゃない。


 選択の結果を、照らしているだけだ。


 そして、その結果から、もう逃げることはできない。


 馬車は再び動き出す。


 向かう先は、強欲帝領。


 力と欲が渦巻く国。


 生き延びるために、強くならなければならない場所。


 胸の奥で、静かに決意が形を成す。


 次に会う時は――

 もう、背中は見せない。


 それが、あの夜に背を向けてくれた弟への、

 唯一の答えだと信じて。

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