【序章】背を向ける覚悟
夜明け前の街は、息を潜めた獣の腹の中のようだった。
眠ってはいない。だが、動こうともしない。石畳も、家々の壁も、風に揺れる旗でさえ、何かを恐れて沈黙している。
その静けさが、かえって異常だった。
「……時間だ」
低く、しかし迷いのない声。
レイサムだった。
宿の裏口。灯りはすでに落とされ、扉は半ば開いたままになっている。彼は鎧を着ていなかった。黒ずんだ外套を羽織り、腰に下げている武器も最小限。戦うための装いではない。――追われるための装いだ。
「本当に、ここで別れるのか」
思わず、そう口にしていた。
問いというより、確認に近かった。
レイサムは振り返らない。
「これが一番、生き残る確率が高い」
即答だった。
感情を見る。
焦りはない。恐怖も、ほとんどない。
あるのは、奇妙なほど澄んだ決意だけだ。
(……覚悟、か)
それが、胸の奥に重く落ちる。
「追っ手は?」
アレクシエルが低く問う。
「もう街に入っている」
「数は」
「多い。質もいい」
短い言葉のやり取り。それだけで十分だった。
誰が動いたのか。誰の意思なのか。考えるまでもない。
クラウソラス。
その名を口にする者はいなかったが、全員が同じものを思い浮かべていた。
「お前たちは、東門へ向かえ」
レイサムが続ける。
「荷馬車は用意してある。目立たない商用だ。検問も、今なら抜けられる」
「……お前は?」
問い返した瞬間、自分でも分かっていた。
答えは、もう決まっている。
レイサムはようやくこちらを見た。
その目は、驚くほど穏やかだった。
「俺が、引き受ける」
それだけだ。
「レイサム!」
アレクシエルが声を荒げる。
「一人で、相手が誰だか分かって――」
「分かってる」
遮るように言い切る。
「だからだ」
言葉が、そこで終わる。
それ以上の説明はなかった。
感情を見る。
死を恐れているわけではない。
だが、生きて帰れるとも思っていない。
それを、当然のこととして受け入れている色だった。
(……そんな顔、するなよ)
喉まで出かかった言葉を、飲み込む。
代わりに、別の感情が胸に広がっていく。
恐怖。
後悔。
そして、どうしようもない無力感。
「零」
名を呼ばれた。
静かな声だった。
「お前は、生きろ」
たったそれだけ。
重すぎる言葉だった。
路地の奥で、微かに金属音が鳴った。
鎧が擦れる音。複数。
もう、猶予はない。
「……必ず、追いつく」
誰に言うでもなく、レイサムがそう言った。
それが嘘でも、慰めでもないことが、感情を見なくても分かった。
「行け!」
怒号。
背中を押されるように、僕たちは走り出した。
振り返らなかった。
それが、彼の選択を無駄にしない唯一の方法だったからだ。
裏路地を抜け、東門へ。
用意されていた馬車は、確かにどこにでもある商用のそれだった。御者も無口で、余計なことは聞かない。
馬車が走り出す。
その瞬間――。
背後で、はっきりと戦闘音が響いた。
剣がぶつかる音。
魔力が空気を裂く音。
そして、複数の足音。
感情を見る。
追っ手の色が、こちらへ向いていない。
レイサムの方へ、集中している。
――理解してしまった。
追ってくるということは。
こちらに全力を割いていないということは。
(……あいつが、止めてる)
胸の奥が、きしむ。
馬車は加速する。
石畳が、土の道に変わる。
それでも、音は遠ざからない。
いや、遠ざかっているのは、あの場所だ。
レイサムが立っている場所。
「……くそ」
小さく、誰かが呟いた。
夜明けが近い。
空が、わずかに白み始めている。
その光が、やけに残酷に思えた。
まだ、死んだと決まったわけじゃない。
それでも。
この追撃の激しさが、
この沈黙が、
この速度が――
彼が戻らない未来を、否応なく想像させる。
感情を見る。
自分自身の色を見る。
そこにあったのは、怒りではなかった。
恐怖と、後悔。
そして、逃げ延びてしまった者の、罪悪感だった。
馬車は街を離れ、街道へと入る。
もう、戻れない。
この夜を境に、何かが決定的に変わったのだと、はっきり分かった。
――これは、逃亡じゃない。
代償を背負って、生き延びるための道だ。
そう理解した瞬間、
胸の奥で、静かに何かが固まった。
次に立ち止まる時は。
次に、背を向ける時は。
もう、二度とない。




