表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/80

【序章】背を向ける覚悟

 夜明け前の街は、息を潜めた獣の腹の中のようだった。

 眠ってはいない。だが、動こうともしない。石畳も、家々の壁も、風に揺れる旗でさえ、何かを恐れて沈黙している。


 その静けさが、かえって異常だった。


「……時間だ」


 低く、しかし迷いのない声。

 レイサムだった。


 宿の裏口。灯りはすでに落とされ、扉は半ば開いたままになっている。彼は鎧を着ていなかった。黒ずんだ外套を羽織り、腰に下げている武器も最小限。戦うための装いではない。――追われるための装いだ。


「本当に、ここで別れるのか」


 思わず、そう口にしていた。

 問いというより、確認に近かった。


 レイサムは振り返らない。


「これが一番、生き残る確率が高い」


 即答だった。


 感情を見る。

 焦りはない。恐怖も、ほとんどない。

 あるのは、奇妙なほど澄んだ決意だけだ。


(……覚悟、か)


 それが、胸の奥に重く落ちる。


「追っ手は?」


 アレクシエルが低く問う。


「もう街に入っている」


「数は」


「多い。質もいい」


 短い言葉のやり取り。それだけで十分だった。

 誰が動いたのか。誰の意思なのか。考えるまでもない。


 クラウソラス。


 その名を口にする者はいなかったが、全員が同じものを思い浮かべていた。


「お前たちは、東門へ向かえ」


 レイサムが続ける。


「荷馬車は用意してある。目立たない商用だ。検問も、今なら抜けられる」


「……お前は?」


 問い返した瞬間、自分でも分かっていた。

 答えは、もう決まっている。


 レイサムはようやくこちらを見た。

 その目は、驚くほど穏やかだった。


「俺が、引き受ける」


 それだけだ。


「レイサム!」


 アレクシエルが声を荒げる。


「一人で、相手が誰だか分かって――」


「分かってる」


 遮るように言い切る。


「だからだ」


 言葉が、そこで終わる。

 それ以上の説明はなかった。


 感情を見る。

 死を恐れているわけではない。

 だが、生きて帰れるとも思っていない。


 それを、当然のこととして受け入れている色だった。


(……そんな顔、するなよ)


 喉まで出かかった言葉を、飲み込む。

 代わりに、別の感情が胸に広がっていく。


 恐怖。

 後悔。

 そして、どうしようもない無力感。


「零」


 名を呼ばれた。

 静かな声だった。


「お前は、生きろ」


 たったそれだけ。


 重すぎる言葉だった。


 路地の奥で、微かに金属音が鳴った。

 鎧が擦れる音。複数。

 もう、猶予はない。


「……必ず、追いつく」


 誰に言うでもなく、レイサムがそう言った。


 それが嘘でも、慰めでもないことが、感情を見なくても分かった。


「行け!」


 怒号。


 背中を押されるように、僕たちは走り出した。


 振り返らなかった。

 それが、彼の選択を無駄にしない唯一の方法だったからだ。


 裏路地を抜け、東門へ。

 用意されていた馬車は、確かにどこにでもある商用のそれだった。御者も無口で、余計なことは聞かない。


 馬車が走り出す。


 その瞬間――。


 背後で、はっきりと戦闘音が響いた。


 剣がぶつかる音。

 魔力が空気を裂く音。

 そして、複数の足音。


 感情を見る。


 追っ手の色が、こちらへ向いていない。


 レイサムの方へ、集中している。


 ――理解してしまった。


 追ってくるということは。

 こちらに全力を割いていないということは。


(……あいつが、止めてる)


 胸の奥が、きしむ。


 馬車は加速する。

 石畳が、土の道に変わる。


 それでも、音は遠ざからない。

 いや、遠ざかっているのは、あの場所だ。


 レイサムが立っている場所。


「……くそ」


 小さく、誰かが呟いた。


 夜明けが近い。

 空が、わずかに白み始めている。


 その光が、やけに残酷に思えた。


 まだ、死んだと決まったわけじゃない。

 それでも。


 この追撃の激しさが、

 この沈黙が、

 この速度が――


 彼が戻らない未来を、否応なく想像させる。


 感情を見る。

 自分自身の色を見る。


 そこにあったのは、怒りではなかった。


 恐怖と、後悔。


 そして、逃げ延びてしまった者の、罪悪感だった。


 馬車は街を離れ、街道へと入る。


 もう、戻れない。


 この夜を境に、何かが決定的に変わったのだと、はっきり分かった。


 ――これは、逃亡じゃない。


 代償を背負って、生き延びるための道だ。


 そう理解した瞬間、

 胸の奥で、静かに何かが固まった。


 次に立ち止まる時は。

 次に、背を向ける時は。


 もう、二度とない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ