【序章】偽名で流れる噂
強欲帝国では、情報が金と同じ速度で流れる。
正確さよりも、面白さ。
事実よりも、利用価値。
だからこそ――
噂は、意図的に歪める必要があった。
「……もう広がってるな」
酒場の隅で、アレクシエルが低く呟く。
昼間から人で溢れる店内。
冒険者、商人、傭兵が入り混じり、無遠慮に声を張り上げている。
「聞いたか?
地下の実験施設、潰したやつ」
「一人じゃねえらしいぞ」
「いや、黒装束の魔術師がいたって話だ」
笑い声。
誇張。
憶測。
感情を見ると、真実は誰も知らない。
(……いい感じに、混ざってる)
「名前は?」
アレクシエルが小声で聞く。
「“オブザーバー”だってよ」
誰かが、そう言った。
「正体不明。
顔も、素性も分からない」
「魔導具使いだって話もある」
「魂を抜く、とか」
背中が、少し寒くなる。
(盛られてるな……)
だが、悪くない。
恐怖と誤解は、
真実を隠す最高のカーテンだ。
「次の仕事だ」
ヘリオが、紙片を滑らせてくる。
個人契約。
依頼主は、表に出てこない。
「内容は?」
「密輸ルートの監視」
監視。
それだけで、嫌な予感がする。
「“観測者”向きだろ?」
ヘリオは、わざとその名を使った。
「成果は?」
「情報だけでいい」
つまり――
「戦闘は、想定外か」
「必要ならな」
アレクシエルが、肩を鳴らす。
「場所は?」
「旧水路だ」
帝国の下を走る、使われなくなった通路。
密輸、諜報、暗殺。
裏の仕事が集まる場所。
「……噂が先行するのも、悪くないな」
現地へ向かう途中、視線を感じる。
尾行。
だが、稚拙。
(試されてる)
オブザーバーという名が、
どれほど使えるか。
旧水路は、湿気と静寂に満ちていた。
足音が、やけに響く。
「動くな」
背後から声。
感情を見る。
緊張。
恐怖。
そして――欲。
「……なるほど」
振り向くと、三人。
軽装。
密輸関係者だろう。
「“オブザーバー”さんよ」
一人が、薄く笑う。
「俺たちを見張ってるって噂だが?」
噂が、もう“現場”に届いている。
(早いな)
「仕事だ」
短く答える。
「交渉は?」
「成立しない」
その瞬間、感情が跳ね上がった。
恐怖。
焦り。
裏切りへの疑念。
(……揃った)
だが、魂縛は使わない。
ここで石を増やすのは、悪手だ。
代わりに――
「帰れ」
低く、言う。
「今日は、運が良かったと思え」
一瞬、沈黙。
そして――逃げた。
感情は、恐怖一色。
戦わずして、終わる。
「……これでいいのか?」
アレクシエルが聞く。
「いい」
むしろ、理想的だ。
オブザーバーは、
戦わず、
姿を見せず、
ただ“見ている存在”。
そう認識させる。
それが、最大の隠蔽だ。
帰路、ヘリオが言った。
「上手い」
「何が?」
「噂を、噂のまま使ってる」
名を隠し、
力を誤解させ、
真実を遠ざける。
その裏で――
強欲帝国の上層は、別の情報を掴み始める。
“観測者”という存在が、
帝王級の争いに触れ始めた、ということを。
だがまだ。
まだ、名は繋がらない。
クラウソラスにも、
帝王にも。
今はただ、
偽名が独り歩きするだけだ。
それでいい。
それが、
生き残るための、最初の一手だった。




