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【序章】名を捨てる価値

 保護対象の引き渡しは、思った以上に早く進んだ。


 強欲帝国には、表向きの法と、裏の実務がある。

 今回のような案件は、後者が担当する。


「――以上が、報告内容だ」


 ヘリオが書類を机に置く。


 応対しているのは、帝国直轄の管理官。

 年齢は分からないが、感情の揺れが極端に少ない。


「……生存者、全員保護」


 管理官が、淡々と復唱する。


「契約条件は満たしている。

 だが、効率は悪い」


「承知の上だ」


 ヘリオは一歩も引かない。


 管理官の視線が、僕に向く。


「魂術師」


 名前ではなく、職業。


「君の判断か?」


「はい」


 一瞬、空気が止まった。


 管理官は、僕の感情を探るように見てくる。

 だが――無駄だ。


 この男は、感情で判断しない。


「……興味深い」


 そう言って、書類に署名を入れた。


「報酬は減額。

 だが、評価は別枠だ」


「評価?」


「国は、結果だけでなく“使い道”を見る」


 その言葉に、嫌な予感が走る。


「今回の行動は、

 帝国にとって“都合のいい善意”だ」


 管理官は、静かに続ける。


「だからこそ、放っておけない」


(……来る)


 感情を見る。


 これは、警戒だ。


「名は?」


「……灰崎零」


 一瞬、管理官の指が止まった。


「本名か?」


「はい」


 その瞬間、ヘリオの感情が僅かに揺れた。


 ――危機感。


「記録には残す」


 管理官は、はっきり言った。


「だが、その名は“動く”」


 つまり。


 噂になる。

 情報になる。

 価値として流通する。


「……忠告だ」


 管理官は言う。


「この国で名が売れるのは、

 武器を持たずに戦場に立つようなものだ」


 その言葉は、重かった。


 応接室を出た後、ヘリオがすぐに口を開く。


「零」


「……分かってる」


 僕も、理解していた。


 魂術師。

 魂縛石。

 違法施設の壊滅。


 これだけ揃えば、

 情報は必ず外へ漏れる。


 ――クラウソラスに。


「対策が必要だ」


 アレクシエルが言う。


「このままだと、

 お前が目立ちすぎる」


「だから」


 ヘリオが、低く言った。


「名を捨てろ」


 即断だった。


「偽名を使え。

 身分も、経歴も作る」


「そんなことが……」


「できる」


 ヘリオは、静かに言い切る。


「ここは、強欲帝国だ」


 価値さえ示せば、

 書類はいくらでも“調整”される。


「問題は、どんな名を使うかだ」


 一瞬、考える。


(名前……)


 灰崎零。

 それは、転生前からの“自分”。


 だが、今は違う。


 魂術師。

 帝王たちの世界に踏み込んだ存在。


「……観測者、ってどうだ」


 口をついて出た言葉。


「感情を見る。

 魂を縛る。

 俺は、いつも外側から見てる」


 ヘリオは、少し考え――頷いた。


「悪くない」


「姓は?」


「要らない」


 アレクシエルが言う。


「姓は、繋がりを生む」


 その通りだ。


「じゃあ」


 僕は、静かに決める。


「名は――

 オブザーバー」


 その瞬間、奇妙な感覚が走った。


 自分が、少しだけ遠くなる。


 だが同時に――

 守るべきものが、はっきりする。


「いい名だ」


 ヘリオは言った。


「それに」


 一拍置く。


「将来、帝王と繋がっても、

 “正体不明”でいられる」


 伏線だ。


 強欲帝マモン。

 そして、その先の帝王たち。


 名を隠すことは、

 力を隠すことと同義になる。


 子どもたちの保護が、正式に完了したという報告が入る。


 その裏で――

 僕は、一つの名前を捨てた。


 灰崎零は、ここで死んだ。


 強欲帝国に残ったのは、

 価値を測り、魂を縛る存在。


 オブザーバーという名の、異物だけだ。

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