プロローグ 自殺日記
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人を彩るものの一つは、感情だと思う。
喜び、怒り、悲しみ、妬み。そうした色を豊かに持つ人間は、人生そのものが鮮やかに見える。では、感情の色が薄い僕はどうだろうか。背景に溶け込み、誰の記憶にも残らず消えていく存在なのだろうか。
物心つく前に両親と離れ、孤児院で育った。愛情を与えられた記憶はないが、虐待されたわけでもない。ただ、常に「足りない」まま生きてきた。欲しがらず、期待せず、与えられた環境に順応する術だけを覚えた。
容姿が整っていると、よく言われる。だが、それが僕自身の価値だと感じたことは一度もなかった。好意を向けられても、その意味が分からない。愛する、愛される――その色を、僕は知らない。
「次は新宿、新宿です」
車内アナウンスに促され、満員電車から吐き出される。人の熱気と湿った空気が肌にまとわりつき、春の終わりだというのに、真夏の気配だけが先走っていた。
これから向かうのは会社だ。遺品整理や特殊清掃を請け負う、中小企業。感情を必要としない仕事だと思っていた。実際、向いていると言われた。黙々と作業し、余計なことを言わない。感情の色を持たない僕には、都合のいい仕事だった。
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その日、社長に呼び止められた。
「灰崎君、明日空いてる?」
嫌な予感は、たいてい当たる。
遺品整理。首を吊った女性の部屋。自室で亡くなり、発見が遅れたらしい。誰もが露骨に顔をしかめ、仕事を避けた。
断る理由はあった。だが、断る言葉を僕は持っていなかった。孤児院で身につけたのは、従順さだ。上の立場の人間の顔色を窺い、波風を立てないこと。それが生き残るための術だった。
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翌日、指定されたアパートの一室は、想像以上だった。
腐臭と生活臭と死臭が混ざり合い、空気そのものが濁っている。足の踏み場もない床。積み上がったゴミ袋。その奥、寝床の枕元にだけ、異様なほど整った一冊の手帳が置かれていた。
生活のすべてが崩壊している中で、そこだけが取り残されたように整然としている。違和感を覚えながらも、その時は手を付けなかった。
作業は一日では終わらず、夜は近くのネットカフェで過ごすことになった。
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シャワーを浴び、服を着替えても、臭いは完全には取れない。皮膚の奥にまで染み込んだような感覚が残り、食欲は戻らず、ただ空腹だけが鈍く主張していた。
ベッドに腰掛け、カバンの中に入れたままの手帳を見つめる。業務外のものに触れるのは規則違反だ。それでも、指は自然と動いていた。
最初の数ページは、拍子抜けするほど平凡だった。
入社式の帰りに買った安物のスーツ。初任給で奮発した一人用の炊飯器。孤児院を出て初めて手にした、自分だけの鍵。その一つ一つを、彼女は何度も噛み締めるように書き残していた。
仕事の愚痴も多い。上司の理不尽な叱責、終電近くまで続く残業、同期が次々と辞めていく職場。コンビニ弁当とカップ麺が食事の大半を占め、部屋は少しずつ荒れていく。それでも彼女は、それを「自立」と呼んでいた。
恋人ができてから、日記の温度は一気に上がる。
休日のデート。手を繋いだ帰り道。彼の部屋で作った簡単な料理。些細な出来事が、何度も何度も書き連ねられていた。孤児院で育った彼女にとって、それは初めて触れる『家族ごっこ』だったのだろう。
だが、幸福は長く続かない。
彼の帰りが遅くなる。連絡が減る。スマートフォンを伏せて置くようになる。疑念は些細な違和感から始まり、やがて確信へと変わっていく。
彼女は、彼の携帯を盗み見たことを日記に書いていた。罪悪感と正当化が入り混じった、歪んだ文章だった。問い詰め、否定され、怒鳴られ、それでも縋りつくように謝る自分の姿を、克明に残している。
決定的な裏切りを目撃した日の記述は、ほとんど文章になっていなかった。
走った。叫んだ。押した。周囲の視線。誰かの悲鳴。そこから先は、断片的な単語しか残されていない。
事件後、生活は一変する。
職場での居場所は失われ、噂は尾ひれを付けて広がった。被害者が社長令嬢だったことが追い打ちをかける。配置転換。陰口。露骨な無視。彼女の部屋は、掃除されないまま、ゴミと洗濯物で埋もれていった。
精神科に通い始め、薬の名前が日記に並ぶ。副作用で眠れない夜。理由もなく涙が出る朝。面接に落ち続け、履歴書を書き直す気力すら失っていく過程が、淡々と記されていた。
最後の数ページは、もはや日付すらない。
文字は震え、行間は歪み、同じ言葉が何度も繰り返される。
――私が悪い ――ごめんなさい
そして、最後に残された一言。
――たすけて。
文字から感情が滲み出てくるような錯覚を覚えた。
その色は、黒だった。
単色ではない。何色も何色も重ねた末に沈殿した、救いのない黒。
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それ以来、僕は考え続けた。
彼女は、幸せを掴み、そして失った。
恋人がいて、仕事があり、未来を信じていた。それらを失った末に、黒へと染まった。
では、最初から何も持たなかった僕はどうだろうか。
感情がないのではない。灰色に押し潰され、形を持てないだけだ。ならば、彼女のようにすべてを失えば、僕も黒になれるのだろうか。
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会社を辞めると告げた。
社長の怒声が背中に突き刺さったが、不思議と足は止まらなかった。初めて、自分の意思で選んだ行動だった。
それでも、窓に映る自分の色は黒ではない。むしろ、灰色は薄くなっていく。
もう捨てられるものは、一つしか残っていなかった。
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辿り着いた廃ビルの屋上は、驚くほど静かだった。
空は澄み切り、どこまでも高い。
僕は手帳を取り出し、この風景を書き残した。誰に宛てたものでもない。強い風に煽られ、紙はすぐに空へと消えた。
「さあ……行こうか」
身体を前に投げ出す。
落下する中で、恐怖はなかった。
割れた窓に映った自分の姿は、黒ではなかった。
灰色でもない。
そこにあったのは、眩いほどの白だった。




