第三の季節…土 (前編)
かの地は神々に愛され、次から次へと神の訪れを受けていた。
そうして、彼らは四番目に訪れた一族で、かの地でつかの間の安息を得、次に訪れた一族に追われ、ティル・ナ・ノグへと逃れた。
ティル・ナ・ノグ。
――そこは、永遠の楽園。
尽きることのない食料と飲み干すことのできないエール(酒)。
老いを知らぬバード(吟遊詩人)がハープ(竪琴)を奏で、英雄たちが憩う。
美しく、喜びに溢れた地。
だが、それでも彼らはかの地を恋し、憧れた。
▲▽
何度同じ話を聞かされたことだろう。
その度に吐く息は重く、心は深い闇に落ちていく。
関係ない。
知らない。
――そう言い捨て、耳も目も閉ざしてしまいたい。
大地に沈む何かが自分を呑み込めばいい。
――いや、突風に攫われるか、大火に焼かれるか、洪水に巻き込まれればいい。
消えてしまいたい。
死んでしまいたいわけではない。
最初から存在しなければ良かった。
ため息。
ロクマリアはハッとして、フリディスに目の焦点を合わせた。
彼女の髪はすでに銀髪とは言えない。
艶のない白髪は頭の後方で団子のように編まれている。
常に穏やかで、負の感情をけして表情には出さない彼女のことをロクマリアは好いていたが、彼女の根気強さだけは煩わしく思っていた。
何度もしてきた話だ。
何度も断り、何度も首を横に振った。
それでも彼女には諦める様子がない。
「考え直しませんか?」
「……」
「なぜ、墓守なのです」
「先生は、もし俺が他の職を選んでいたら賛成して下さいましたか?」
「何も知らなかった時でしたら、賛成したでしょうね」
「それは……」
卑怯だと言いかけて、ロクマリアは口をつぐんだ。
「墓場にはオーク(魔物)が出ると言うではないですか」
「オークには幼い頃から狙われてきました」
「死者の眠る地です。寂しい場所ですよ?」
「静かな場所です」
「静寂を望んでいるのですか?」
頷かなかった。
だが、おそらくそうなのだろうと、ロクマリア自身は思っている。
左手が右の手の甲を押さえた。
白い手袋。
その下には複雑な文様が描かれている。
肌に金糸で刺繍したかのようなそれは、光を反射してキラキラと輝く。
半年ほど前に突如として現れ、次第に色濃く、今や人前に出る時は手袋で隠さなければならないくらいにハッキリと浮き出て見える。
痣だ。
そう見えなくとも、痣より他に言い表せる言葉がない。
フリディスに痣の存在を知られたのは三ヶ月前のことだ。
そして彼女はロクマリアの前に膝を着き、擦れた声でこう言った。
「――それこそが王家の紋章」
ディアントス(撫子)をモチーフにしているとも、古き文字を隠したデザインをしているのだとも言われている。
王家の紋章。
それは現在、王宮の主であるエーディン女王だけに許されたもの。
彼女に万が一のことがあれば、虚空に彷徨うことになるだろうとも言われているものである。
ところが、それは今、ロクマリアの左手にもある。
エーディンの死を察したディアントスが次の主を見出していたのだ。
「なぜ俺なのでしょうか?」
両親の顔は朧気だ。
祖父母の顔は知らない。
――だが、その見知らぬ祖母が、どうやら先々王の妹だったらしい。
わずかな時間を共に暮らした兄はそのことを誇りに思っていた様子だったが、ロクマリアには何の感慨も湧かなかった。
祖母が先々王の妹だからと言って、何かを優遇されるわけでもなく、王宮に招待されるわけでもない。
親子の縁さえ薄いというのに、祖母の何が自分たちに力を及ぼすというのだろう?
まるで関係のないことだと思っていた。
ところが、ロクマリアには祖母を同じくする従兄がいて、不幸なことに、彼は自分たち兄弟のことを強く意識をしていた。
デュース。
錆色の髪に、シグナルレッドの瞳。
彼はエーディン女王に世継ぎがいないことをひどく気にしていて、事あるごとに己の才覚を示したがり、ロクマリアの兄と対立していた。
そして、ある日、ロクマリアの兄はオークに襲われ、命を落とした。
「兄が生きていたら、ディアントスが選んだのは俺ではなかったのかもしれません」
フリディスは柔らかく微笑んだ。
「わたしには分かりません。ですが、あなたをプリフェクト(監督生)に選んだのはわたしですよ、ロクマリア。――そして、それは、あなたが時期王になるべく者だと知っていたから選んだわけではありません。あなただからです」
「プリフェクトに選ばれた理由も分かりません」
「困った子ですね……」
ため息。
だが、フリディスは笑みを崩さない。
「あなたにはまだ時間があります。もう一度よく考えて下さい」
▽▲
ルグナザド寮。
その中庭に突如と生えた大樹。
――林檎の木である。
夏、大いに緑を茂らせたその隙間から赤い実が除く。
歩み寄る途中でロクマリアはメンヒルに気付いた。
彼女は精一杯手を伸ばし、林檎をもぎ取ろうとしていた。
――だが、届かない。
腰まであるシルバーブロンドや身体の線の細さは、彼女を儚げに見せるが、彼女の行動までもそのように見せることはできない。
ロクマリアはギョッとして歩みを止めた。
林檎に手が届かないと知った彼女が、幹によじ登ろうとしているではないか。
「メンヒル、やめるんだ」
「ロクマリア?」
振り返った彼女はロクマリアの鉛色の瞳と目が合うと、気まずそうに俯いた。
「そんなに林檎が食べたいのか?」
「違うわ。とても綺麗だから、手にとって眺めたかったの」
「綺麗? ――ああ、確かに綺麗だ」
「ルーグがよく身に着けている宝石みたいね」
「ルビーか?」
「そう、ルビー。――なぜかしらね。私ったら、あの激しい色に憧れてしまうの」
ロクマリアはメンヒルの傍に立つと、片腕を持ち上げた。
「――届かないか」
だが、と地面を蹴った。
枝が大きく揺れ動き、ガサガサッと音を立てた。
「すごいわ。ありがとう」
ハラハラと葉が舞う。
林檎と共にもぎ取ってしまったそれらに申し訳なく思いながら、ロクマリアは赤い実をメンヒルの両手に乗せた。
「お礼に唄いましょうか?」
「そうだな。唄ってくれ」
言って、ロクマリアは大樹の根元に腰を降ろした。
「だが、俺は目を閉ざす」
「あら? 寝てしまうの?」
「いや。ちゃんと聞いているから、気にせず最後まで唄ってくれ」
「ええ、分かったわ」
ロクマリアが瞼を閉ざすと、メンヒルは彼の前に立ち、両腕を広げ唄いだした。
▽▲
「おい、ブロア。あそこを見てみろよ。祭りの最中だって言うのに、シケタ顔をした奴がいるぜ」
甲高い声にロクマリアは不快を露わにした。
瞼は開かず、近寄ってくる小さな気配を耳だけで探った。
「放って置けよ、ルーグ。時間がないんだろう?」
「そうだ。時間がない!」
「お前は早く花火の準備に取りかかれよ。代わりに私があいつの様子を見に行ってやる」
「なんだよ、それ? ずるいぞ、ブロア!」
競争するかのように駆け寄ってくる足音。
ロクマリアは驚いて、開けるつもりのなかった目を開いた。
「あっ。お前、どっかで見たことあるな。……誰だっけ?」
真っ先に飛び込んできたのは燃えるような赤い髪。
悪意の欠片もない瞳がロクマリアを見つめている。
彼の方には覚えがないようだが、ロクマリアの方は彼に覚えがあった。
風の民と火の民、土の民、そして水の民が合同で行う授業で、何度か顔を合わせたことがあるからだ。
――確か、火のルーグだ。
もう一人は空色の髪を持っている。
男の子かと思ったが、よく見れば女の子だ。
ロクマリアはこちら女の子のこともよく知っている。
――風のブロア。
入学直後から飛び抜けて目立っていたルーグにアミ(恋人)の契約を迫られている風の少女として有名だ。
ブロアの瑠璃色の瞳がロクマリアを映す。
彼女はロクマリアに気が付いたようだ。
「確か、お前は……ロクマリア?」
仕方なく頷くと、ブロアは怪訝な顔をした。
「こんなところで何をしている? 祭りの最中だぞ?」
「興味がない」
「興味がない? お前、ベルティネ祭がつまらないって言うつもりか!」
怒鳴ったのはルーグだ。
ベルティネ祭は火の民の祭りであるからだ。
ロクマリアは言い方を誤ったことを認め、頭を左右に振った。
「ごめん。そういう意味ではないんだ」
「――なら、どういう意味なんだ?」
ロクマリアが素直に謝ったことで、ルーグはすぐに怒気を引っ込めた。
ルーグの方こそ根が素直なのだ。
ブロアが小首を傾げる。
「みんなと騒ぐのが嫌いなのか?」
「そういうことなのかもしれない」
「自分のことなのに曖昧に言うんだな」
「本当は嫌いではなかったのかも知れないからだ。一人でいよう、一人でいないと、と思う内に大勢の中にいることが煩わしくなったのかも知れない」
うーん、と二人は低く唸って、眉を顰めた。
「お前がなんで一人でいなきゃと思うのかが分からない」
「一人はつまらないぞ?」
「気楽でいい」
「いや、つまらない! ――だってさ、一緒に花火を見て、綺麗だなぁって言い合えないじゃないか」
「あっ。ルーグ、花火を上げないと!」
「そうだ! 上げないと!」
二人はあたあたとロクマリアから離れた。
だが、すぐに振り返り、自慢そうな声を響かせる。
「俺はオグマからの絶大な信頼を得ているんだ。だからこうして花火を上げる役目を与えられたんだ」
「ルーグはオグマと同室だもんな」
オグマ。
――今年の火のプリフェクトの名前だ。
オグマと同室だという。
それは、火のプリフェクトに認められ、弟のように可愛がられているということであり、いずれ火のプリフェクトに選ばれる可能性があるということだ。
ロクマリアはルーグを手伝うブロアを見やり、首を傾げた。
「なぜ、風の民に手伝わせるんだ? 花火の準備なら、火の民の十八番だろう?」
「今日は風が強いだろう? ――風が強いと、花火が上げられない。ブロアにはこの辺一帯の風を止めて貰うために来て貰ったんだ」
「なんだって? この辺一帯の?」
確かに今日は風が強い。
こうも強くては花火を上げるのは危険だ。
そして、風の民であれば、風を吹かせることも、止めることも、容易なことだろう。
だが、自分と同学年である幼いブロアが、どれだけの範囲の風を止めようというのだろうか。
ブロアがそれほど強い力が操れるとは、思えなかった。
よし、と言ってルーグがブロアを振り返った。
頷き、ブロアは高く片手を夜空に掲げた。
音が止む。
驚いてロクマリアが辺りを見回した時、風が一切の動きを止めた。
得意げな声が上がる。
ルーグのものだ。
「ブロアはシルフたちに愛されているんだ。――俺にはよく見えないんだけど、聞いた話だと、ブロアの周りにはシルフがウジャウジャいるらしいぜ」
「ウジャウジャとか、嫌な表現するな」
「俺の周りにもサラマンダーがウジャウジャいるぜ?」
「サラマンダーはウジャウジャで良し」
そんなやり取りの後、ルーグの指が鳴り、花火が打ち上げられる。
二つ、三つ。五つ、六つ。
次々と、休む間もなく夜空に炎の華が咲いていく。
月明かりのみだった辺りが昼のように明るくなった。
「口開けてると、火の粉を口の中に入るよ」
振り返ると、いつの間にかブロアがすぐ隣に立っていた。そして、鮮やかに微笑む。
「ほらな。楽しいだろう?」
「……」
「花火ってさ、きっと一人で眺めていても綺麗なんだけど、一人では楽しくないんだ。――音がうるさいだけだ」
言って、ブロアはケラケラと笑った。
火の粉が舞っている。
ルーグは喜んで火の粉の下を駆け回っているが、ブロアは指先で風を操り、自分とロクマリアに火の粉が飛んでこないようにしている。
(そうかも知れない。一人は味気ない)
頷きかけて、ロクマリアは緩く頭を左右に振った。
「なぜ?」
「俺と一緒にいると、死ぬ」
「まさか」
「危険なんだ」
「危険?」
聞き返してきたブロアに何と言って説明しようかと眉を寄せた時、甲高い声が響いた。
「ルーグ!」
振り返ると、漆黒の髪を乱しながら駆けてくる少女の姿があった。
水のアルメリアだ。
「花火を上げる時は水の民と一緒でないとダメって先生方から言われているでしょう?」
「げっ。アルメリアだ!」
「げって何よ。げっ、て!」
アルメリアがふくれっ面になって両腕を高く空に上げている。
「待て。俺が逃げてからだ!」
最後の花火が打ち上げられた瞬間、アルメリアの両腕が振り下ろされた。
ザバァー。
バケツをひっくり返したようなという喩えが実に相応しい雨。
それも、花火の打ち上げ跡とルーグの周りだけに集中している。
「痛っ! よせ、アルメリア。もう十分だろ!」
激しく落ちてくる大粒の雨は、ルーグの躰を強く打つ。
ただでさえ、火の民の濡れ鼠姿は情けないものがある。
痛みに表情を歪めているルーグは哀れに見えた。
「アルメリア」
ブロアが止めて、ようやくアルメリアは腕の力を抜いた。
雨が止む。
情けない顔のルーグがブロアとロクマリアの元に戻ってきた。
「大丈夫か?」
「俺のサラマンダーたちがみんな逃げちまった」
「お前が躰を乾かせば帰って来るさ。――ほら」
ブロアはルーグの顔の前に手を広げ、穏やかな風を彼に送る。
しばらくして、サラマンダーが戻ってきたらしく、ブロアの風は熱風に変わった。
そうなれば乾くのは早い。
あっという間にルーグは元気を取り戻した。
アルメリアも三人の元に歩み寄ってきて、ブロアの傍にロクマリアの姿を見つけると、驚いたように黒曜石の瞳を大きくした。
「珍しい人と一緒にいるのね?」
「二人はすぐにパーティー会場に戻る」
「あなたは?」
「……」
答えないロクマリアの代わりにルーグが乾いた声で答えた。
「もちろん、ロクマリアも戻る」
「俺は……」
「戻るだろ? 一人はつまらないって分かったんだから」
ブロアも言い、更に何かを言いかけた彼女を風が制した。
ザワリ、と草木が凪ぐ。
ロクマリアはハッとして辺りを見渡した。
「逃げるんだ」
「なんだって?」
「早く!」
ギョッとしてルーグはロクマリアの顔を見やる。
そうして、真剣そのものの鉛色の瞳と視線を合わせた。
「オークだ。祭りに惹かれてやってきたんだ」
ルーグはそう言ったが、ロクマリアにはそうとは思えなかった。
祭りに惹かれてやって来たと思わせて、デュースがロクマリアを狙って送り込んできたに違いない。
幼い頃からそうだった。
今この時まで生き残っている自分が不思議なくらいに、デュースはロクマリアの命を狙って幾度もオークを差し向けてきた。
(ああ。こんな時に)
このままではルーグたちを巻き込んでしまう。
これはデュースと自分との問題だ。
誰も巻き込めない。
(だから、ずっと一人でいることを選んできたのに)
「逃げろ!」
「お前は?」
ロクマリアは逃げない。
ローブの下から銀色の短銃を取り出し、三人を自分の背中へと押しやった。
「よくあることなんだ。幼い頃からずっと狙われてきた」
「オークに?」
「君たちを巻き込みたくない」
「それが一人でいる理由か?」
何かが駆けてくる。
小物だ。
――だが、自分を守り、更にルーグやブロア、アルメリアまでも守ることはできない。
足が竦んでしまったのだろうか。
逃げない二人に絶望しながら、ロクマリアは短銃を構えた。
飛び出してきたオークは骨と皮しかない醜い姿をしていたが、やはり小物。
子どもである自分ともさほど大きさが変わらない。
(大丈夫だ。勝てる)
そう思った時だった。
「ブロア!」
「ああ」
ロクマリアを押し退け、オークの前に立ちふさがったのはルーグだ。
ブロアも片手を夜空へと掲げている。
「我が風は、汝の敵に炎を導く」
「炎よ、我らの敵を焼き尽くせ!」
巻き上がった熱風に、ロクマリアは両腕で顔を前で交差させる。
細めた目に赤々とした竜巻が暴れているのが映った。
「……すごい」
無意識に口から出た感想だった。
振り返った二人が得意そうにロクアリアに笑みを向けた。
「だろ? ――だからさ、難しいことはよく分かんないけど、俺たちがいるからお前は一人でいなくていいんだよ」
「そうだよ。私たちは、あのくらいのオークを怖いとは思わない」
「お前は俺たちのダチだ。俺のダチが一人でいるな」
差し出された手。
ロクマリアはその手のひらとルーグの顔を見比べた。
ブロアを見やる。
それから、アルメリアを。
「ルーグがダチだって言ったら、そうなんだ」
「そうね。ルーグが言ったのなら、そうなのよね。――いらっしゃいよ、一緒に。こんなところに一人でいて、またオークに襲われたらどうするの?」
戸惑うロクマリアに再びルーグが手を突き出した。
力強く。
「来いよ。俺たちは絶対に死なないし、ずっとお前と一緒にいてやるから」
▽▲
気が付くと、メンヒルの顔を目の前にあった。
ロクマリアが鉛色の瞳を大きくすると、彼女は吹き出した。
「今、眠っていたでしょ?」
「……」
「いいんだけどね、べつに」
「悪い」
「疲れているの?」
「いや」
違うと言いかけて、そうなのかも知れないと思う。
ため息が漏れた。
(よりによってあの時の夢を見るなんて)
「もう少し眠っていたら?」
「そうだな。――メンヒル、君は卒業したらどうするんだ?」
「種を育む職に就くわ」
即答して、メンヒルはシルバーブロンドを掻き上げた。
一つに束ね、頭の後ろで高く結い上げる。
「本当ならアミであるあなたに付き合って、墓守でも何でも一緒にやってあげたいところだけれど」
「構わない」
「そう言うと思ったわ。――少し寂しい」
ぽつりと零された言葉にロクマリアの胸は鷲掴みにされた。
だが、今の自分には彼女に対して言ってやれる優しい言葉はない。
立ち上がり、尻に付いた泥を払うメンヒルを目で追った。
「あら? アルメリアがこっちに来るわ」
メンヒルの視線の先を見やると、確かにアルメリアだ。
黒髪が穏やかに揺らいでいる。
急ぎの用ではないらしい。
「きっとあなたに用ね。それじゃあ、私は行くわ」
「ああ」
軽く手を振って、あっさりとメンヒルは去っていった。
残されたロクマリアはアルメリアの到着を待つ。
アルメリアは小首を傾げた。
「邪魔しちゃったかしら? ごめんなさいね」
「いや。どうかしたのか?」
「相談があるのよ」
ブロア然り、ルーグ然り。
なぜか彼らはロクマリアに相談を持ち込む。
ブロアが持ち込んでくる相談は単純明快で良いが、ルーグやアルメリアに関しては何も言ってやれない場合も多かった。
特に、アルメリアだ。
どこら辺が相談だったのかさえも分からない時がある。
ロクマリアは先程までメンヒルが腰を降ろしていた大樹の根を視線で指し示し、アルメリアを座らせた。
「あなた、卒論は何を書くのか決まった?」
「この時期にテーマすら決まっていないのは風の民くらいなものだ」
「そうね。書き始めていないといけない時期ですものね」
「アルメリアは何を書くんだ?」
彼女の表情が変わった。
どうやらこの辺りに今回の相談の核心がありそうだ。
「雨の降り方について。……でも、本当は違ったのよ」
「違った?」
「本当に書きたかったのは、オークについて。――だけど、サヴリナ先生からの許可が下りなくて」
「オークの何について書きたかったんだ?」
アルメリアは周囲に視線を巡らせてから、低めた声でロクマリアに告げた。
「オークの元が何かってことよ」
右の手の甲が熱を持った気がして、ロクマリアはそこを押さえた。
気のせいではない。
チリチリと痛む。
「オークはオークとして生まれてくるわけではないっていうのが、私の考えなの。――リールのウンディーネがオークになってしまったのを覚えているわよね? ウンディーネの深すぎる愛が彼女をオークにしてしまったのよ」
「アルメリア」
ロクマリアは片手で彼女の口を制した。
「それを追求することは禁忌に触れる」
「けれど、不安なのよ。――想いの深さがオークに変えてしまうとしたら」
首を横に振る。
アルメリアの次の言葉は知れた。
想いを持っていること。
そのことが、オークになり得る可能性をも持っているのだとしたら、自分たちもあのウンディーネのようにオークになる時が来るかもしれないということだ。
「想いを残した死者はその魂を彷徨わせるわ」
そして、やがてその魂はオークと呼ばれるものになる。
「なぜ私たちは親子の縁が薄いのかしらって、考えていたの。――私も母親の顔なんて覚えていないわ。けれど、一つだけ。母親がいつも身に着けていた耳飾りを覚えているの。何の変哲もない耳飾りだったから、どこにでもあるものなのかもしれない。――けどね、同じ物を耳に飾っていたオークを、見たことがあるのよ」
「それはいつのことだ?」
「もうずいぶんと前のことよ。ルーグの炎が跡形もなく燃やしちゃった。――もしかしたら、あの時のあのオークは私の母親だったのかもしれない」
「莫迦なことを言うな」
「でも……」
アルメリアの黒曜石の瞳が潤みを帯びている。
己でもそれに気が付き、気まずくなったのか、ふいっとロクマリアから目を逸らした。
「どうしてかしらね。この地にずっといれば幸せだって分かっているのに、私たちはこの地を後にするの。花を散らせたり、雨を降らせたり。かの地の一部になりたくて、駆け回るの」
「君は賢すぎる」
「だからなのかしら? 成績が優秀である者がプリフェクトに選ばれるのは、気付いてはならないことに気付いてしまうから? 過去のプリフェクトたちが王宮に上がる道を選んだのは、彼らも気付いてしまったからなのかしら?」
「アルメリア、君は王宮に上がりたいのか?」
ふっとアルメリアの瞳が色を増した。
ロクマリアに振り返る。
「――そうなのかも知れないわね」
でも、と地面に向かって小さく呟き、木々の慰めを聞いて、仰ぐ。
緑色の天井。
茂った葉の隙間に赤い実が見える。
「私ってダメね。ブロアがいないと何も決められないみたい」
「いや、それは違うな。君は自分をよく知っている。ブロアがどうしようと、最後には結局、君は君の道を選ぶだろう」
「……そうだといいのだけど」
「君の不安は、かの地に行ったブロアがオークになってしまうことだ。違うか?」
「ブロアだけではないわ。ルーグも、あなたもよ」
「皆が皆、オークになるとは限らない」
「私たちはかの地を追われた存在。だから、かの地では存在し続けることを許されていないのよ。それでも無理してかの地に留まろうとするから、存在を歪められるの。――オークになってしまうのよ」
右の手の甲が痛みを放つ。
ディアントスがアルメリアの話を嫌っている証拠だ。
「この話はもうよそう。アルメリア、君は王宮に上がれ。気が付いてしまった君が、気付く前の君に戻ることは不可能だ」
無言で頷いたアルメリアに、ロクマリアは心から安堵した。
だが、ディアントスの痛みはしばらく治まらなかった。