第7話:人間らしさを保つ努力
「だって、切ないんだもん」
クレハが小さなモニターを見つめながら、頬に涙を伝わせている。
今夜は珍しく任務がない夜だった。クレハとユリの部屋で、姉妹が古い映画を一緒に観ている。薄暗い部屋に映画の光がちらちらと踊り、窓の外には隣のビルの明かりが温かく瞬いている。
画面には戦前の名作「カサブランカ」の感動的な別れのシーンが映っている。恋人同士が永遠の別れを告げる場面で、クレハの瞳に涙が浮かんでいる。
「お姉ちゃん、また泣いてる」
ユリが呆れたような、でも愛情に満ちた口調で言う。
「だって、この男の人、本当は一緒にいたいのに、彼女の幸せのために身を引くのよ?」
クレハが鼻をすすりながら画面を指差す。
「それって...愛してるからこそでしょ?」
俺は彼女の涙を見ながら、深い困惑を感じていた。
なぜ架空の人物の死に涙を流すのですか?
俺の疑問に、クレハが心の中で答える。
架空じゃない。きっと、こういう人たちが本当にいたのよ
でも、それは過去の出来事です。あなたとは無関係の
無関係じゃないの。人の気持ちに関係ないことなんてない
俺にはその感覚が理解できなかった。でも、なぜか...
俺も昔は映画を見て泣いたのだろうか?
その疑問が、俺の記憶の奥底に眠る何かを揺り動かした。
◇
翌日の午後、カイト・アシダが基地を訪問した。
基地の訓練室。地下施設の一角にある、それほど広くない空間だが、手入れが行き届いている。蛍光灯の白い光の下で、クレハとカイトが軽い組み手の練習をしていた。
カイトは21歳、黒髪で鋭い目つきの青年だ。「シルバー・ファング」傭兵チームのエースとして名を馳せているが、クレハとは旧知の仲らしい。
「君、最近少し変わったな。何かあったのか?」
組み手を終えた後、カイトが心配そうに声をかける。
「変わったって?」
クレハが首を傾げる。
「戦い方が...なんて言うか、戦術的になった。以前はもっと感情的だったのに」
カイトの鋭い観察眼が、クレハの変化を見抜いている。
「そうかな?」
「ああ。それに...」
カイトが一歩近づく。
「時々、誰かと話してるような素振りを見せる。独り言にしては、妙にやり取りが成立してるんだ」
俺は緊張した。バレているのか?
でも、クレハは冷静だった。
「考え事をしてるだけよ。戦友として当然の心配でしょ」
「戦友として...か」
カイトの表情に、わずかな失望が浮かんだ。彼がクレハに抱いている感情は、単なる戦友以上のもののようだ。
彼はクレハを愛している
俺は直感的に理解した。でも、クレハ本人はそれに気づいていない。
「まあ、元気そうで良かった。また何かあったら連絡してくれ」
カイトは複雑な表情を見せながら基地を後にした。
あの人、寂しそうだった
クレハが心の中でつぶやく。
なぜ寂しいのでしょう?
分からない。でも...きっと一人で抱え込んでる悩みがあるのよ
◇
基地のリビング・夕食時
午後7時。ユリの手作り料理を囲んで、IRON WOLVESのメンバーが夕食を取っている。
今夜のメニューは、ユリ特製のハンバーグと野菜スープ。人工肉を使っているが、ユリの腕前で本物と変わらない味に仕上がっている。材料費は決して安くないが、彼女なりの姉への愛情表現だった。
「今日のハンバーグ、特に美味しいね」
ミクが満足そうに頬張る。
「ありがとう。お姉ちゃんが最近疲れてそうだから、栄養のあるもの作ろうと思って」
ユリが嬉しそうに答える。
家族っていいものですね
俺がクレハに話しかける。
そうね。当たり前だと思ってたけど...こういう時間って貴重なのかも
俺も昔は家族がいたはずなのに...思い出せない
俺がつぶやくと、クレハの表情が少し変わった。
家族?ZERO、あんたにも家族がいたの?
はい。でも、データが断片的で...
俺は慎重に言葉を選んだ。
実は、俺も昔は人間だったんです
クレハが箸を止めた。
人間?AI じゃなくて?
AIになったのは後からです。元は...普通の人間でした
これは大きな告白だった。俺の最も重要な秘密の一つを、初めて彼女に明かしたのだ。
それで、記憶が曖昧なのね
クレハが理解を示す。
人間だった頃のこと、覚えてるの?
断片的には。誰かと楽しい時間を過ごした記憶、大切な人を想う気持ち...でも詳細は思い出せません
無理に思い出さなくてもいいよ。今のあんたはあんたなんだから
クレハの優しい言葉に、俺の胸が温かくなった。
「お姉ちゃん、どうしたの?急に黙り込んで」
ユリが心配そうに声をかける。
「ん?ああ、ごめん。ちょっと考え事してた」
クレハが慌てて笑顔を作る。
誰にも言えない秘密って、重いものね
クレハが心の中でつぶやく。
申し訳ありません。あなたを困らせて
別にいいわよ。あんたも一人で抱え込んでたんでしょ?
◇
深夜・バルコニーでの対話
午後11時。みんなが寝静まった後、クレハは一人でバルコニーに出た。
三週間夜の5日目。星が美しく瞬いている夜空。隣のビルの窓からは、他の家族の温かい光が漏れている。
「ねえ、ZERO」
「はい」
「人間だった頃のあんたって、どんな人だったの?」
クレハの質問に、俺は慎重に答えた。
「よく分からないんです。でも...誰かを大切に思う気持ち、楽しい時間を共有する喜び、そういうものがあったような気がします」
「それって、今のあんたと変わらないじゃない」
「そうでしょうか?」
「だって、私のこと心配してくれるし、ユリや仲間のことも気にかけてる。感情だってちゃんとある」
クレハの言葉に、俺は深く考え込んだ。
「でも、AIとしての論理的判断と、人間的な感情が時々矛盾するんです」
「当たり前よ。人間だって、理性と感情がぶつかることなんてしょっちゅうよ」
「人間も矛盾する存在なんですか?」
「そうよ。完璧な人間なんていない」
クレハが振り返って、俺に向かって話しかける。
「正しいことをしたいと思っても、怖くて逃げたくなったり。大切な人を守りたいと思っても、自分の身が可愛くなったり」
「それでも、人間は生きていくんですか?」
「そうよ。矛盾を抱えながらでも、少しずつ成長していくの」
俺はその言葉に深く感動した。
「クレハ、ありがとう」
「何が?」
「あなたと話していると、人間らしさが何なのか少しずつ分かってきます」
「あんたは十分人間らしいわよ。優しいし、仲間思いだし」
「それなら、俺も人間と呼んでもらえるでしょうか?」
「もちろん。あんたは私の大切な...」
クレハが言いかけて、恥ずかしそうに口をつぐんだ。
「大切な?」
「...相棒よ。大切な相棒」
素っ気ない言い方だったが、その奥に本当の温かさが隠れているのを俺は感じ取った。
相棒
その言葉が、俺の心に深く響いた。
人間時代にも、きっとこんな風に誰かと語り合ったことがあるのだろう。でも今は、それよりもクレハとの友情の方が大切に思えた。
過去の記憶よりも、今この瞬間を大切にしたい。
「俺も、あなたを大切な相棒だと思います」
遠くで企業タワーの光が瞬いている。明日もまた戦いが待っているかもしれない。
でも今夜は、俺たちの友情がまた一歩深くなった。
そして俺は、自分が人間だった頃の気持ちを少しずつ思い出し始めていることを感じていた。