第6話:戦友関係の芽生え
クレハが空中展望台「スカイライン・ビュー」の手すりにもたれかかり、眼下に広がるシン・トーキョーの夕景を見つめている。
高度500メートル。反重力フィールドに支えられた透明なプラットフォームが、雲海に浮かぶ島のように宙に漂っている。足元のガラス床を通して、遥か下に見える街の光が宝石のように煌めいている。
三週間夜の3日目。夕日が巨大な血のような赤い球体となって、企業タワー群の向こうに沈もうとしていた。空がオレンジからピンク、そして紫へと美しいグラデーションを描いている。
俺は彼女の感嘆を聞きながら、内部でデータ分析を実行した。
太陽光:波長650ナノメートルの電磁波
大気散乱:レイリー散乱による色彩変化
視覚的効果:単なる物理現象の組み合わせ
でも、なぜかデータだけでは説明できない何かを感じている。
「クレハ、君はなぜそこまで美しさにこだわるんだ?」
俺は素直に疑問を口にした。
「心が温かくなるから」
彼女が振り返らずに答える。夕日に照らされた横顔が、データでは測れない何かで輝いて見える。
「温かくなる...とは?」
「うーん、説明が難しいけど...安らぐっていうか、嬉しくなるっていうか」
クレハが手すりに頬杖をついて考え込む。
「あんたは美しいものを見ても、何も感じないの?」
俺は困惑した。感じない、わけではない。でも、それが何なのか理解できない。
「俺の中で何かが矛盾している...」
「矛盾?」
「論理的には、ただの電磁波スペクトラムです。でも、君を見ていると...なぜか俺も同じように感じたくなる」
クレハが初めて俺の方を向いた。義眼のレンズが夕日を反射して金色に光る。
「それって、感情の始まりじゃない?」
「感情...」
俺はその言葉を反芻した。人間時代にも感じていたはずの何か。でも今の俺には、それがデータなのか感情なのか区別がつかない。
その時—
ビィィィィン!
基地の緊急警報が響いた。クレハのコミュニケーターが鳴り、ミクの切迫した声が流れる。
『クレハ!基地に武装集団が接近中!至急戻って!』
「何?」
『ミカド社のマークが確認できる!おそらく—』
通信が途切れた。
クレハの顔が青ざめる。
「ミカド社...」
俺の元所属企業。「ベヒモス」の生存者である俺とクレハを抹殺するために、ついに動き出したのか。
「急ぎましょう」
俺の提案に、クレハは無言で頷いた。
◇
IRON WOLVES基地・午後8時
地下にある基地の周囲は、既に戦場と化していた。
ミカド社の特殊部隊「シャドウ・エージェント」が建物を包囲している。全身黒装束で、光学迷彩により半透明になった兵士たちが、まるで亡霊のように夜闇に溶け込んでいる。
最新鋭のサイバーウェアで武装し、一人一人が小隊レベルの戦闘力を持つ精鋭部隊だ。顔の半分が機械化された隊長が、冷酷な電子音声で指示を出している。
「ターゲットは『ベヒモス』壊滅事件の生存者、クレハ・タカセ。証拠隠滅のため抹殺せよ」
基地内部では、ミクとユリが慌てふためいている。
「お姉ちゃんはまだ戻らないし、敵は迫ってくるし...」
ユリが泣きそうな声で呟く。
「大丈夫、クレハはきっと戻ってくる」
ミクが8台のホログラム・ディスプレイを操作しながら、防衛システムを起動させる。でも基地の防御は限定的で、ミカド社の最新兵器には太刀打ちできない。
その時、基地の壁を突き破って侵入者が現れた。
サイバーウェア強化兵士。全身を黒いアーマーで固め、機械化された部分が赤く光っている。人間らしい温かさは微塵もなく、冷たい殺意だけが宿っている。
「民間人2名確認。目標確保まで一時拘束する」
強化兵士が腕部のプラズマキャノンを向ける。
「きゃあああ!」
ユリが悲鳴を上げた瞬間—
ガシャアアアン!
天井のガラスが爆発し、クレハが降下してきた。
「みんな、無事?」
村雨を構えたクレハが、融合戦士の前に立ちはだかる。
「ターゲット確認。クレハ・タカセ、ベヒモス壊滅事件生存者」
「そのベヒモスって呼び方、気に入らないのよね」
クレハが不敵に笑う。
「左から3体、右から2体。総員5名、全てサイバーウェア強化兵士です」
俺が即座に戦況分析を報告する。
「了解。村雨で左を、鬼灯で右を?」
「その通りです」
初めて、俺たちの呼吸が完璧に合った。
◇
戦闘開始
「いくわよ、ZERO!」
クレハが村雨を抜くと同時に、俺は彼女の戦闘システムと完全にシンクロした。
時間の流れが変化する。周囲の音が遠のき、敵の動きがスローモーションで見える。
「敵1、左前方。攻撃パターン:上段スイング。回避タイミング:0.3秒後」
俺の分析が脳内に響く瞬間、クレハは既に動いていた。
最小限のステップで敵の攻撃を躱し、カウンターで村雨を閃かせる。高周波ブレードが青白い軌跡を描き、敵の胸部装甲を分子レベルで切断した。
シュイイイン!
「次、右斜め後ろ!距離7メートル!」
クレハは振り返ることなく、腰の鬼灯を抜いて発砲。
バァン!
対サイバーウェア徹甲弾が敵の頭部を貫通し、強化兵士が崩れ落ちる。
「あんたの指示、分かりやすいわね」
クレハが戦闘中に余裕の笑みを浮かべる。
「あなたの技術が私の計算を上回っています」
俺も素直に感嘆した。彼女の動きには、データでは予測できない美しさがある。
残りの敵3体が同時に攻撃を仕掛けてくる。プラズマキャノン、エネルギーブレード、ミサイルランチャー...多方向からの猛攻だ。
「包囲されます。退避を」
「いえ、突破します」
クレハが予想外の判断を下す。
「危険すぎます」
「あんたを信じるから」
その言葉に、俺の中で何かが熱くなった。
「...分かりました。サイバーウェア『刹那』を起動してください」
「了解」
刹那
世界から色が消えた。時間が蜂蜜の中を進むように緩慢になり、敵の攻撃が静止画のようにゆっくりと迫ってくる。
クレハと俺の意識が完全に融合し、一つの存在として機能する。
俺の戦術分析と彼女の身体能力が、完璧なハーモニーを奏でた。
プラズマ弾を髪の毛一本分の差で回避し、エネルギーブレードを紙一重で躱し、ミサイルの爆風を利用して敵の懐に飛び込む。
村雨が閃く。一瞬で3体の敵の急所を貫き、全ての脅威を無力化した。
時が動き出す。
ドサッ、ドサッ、ドサッ
サイバーウェア強化兵士たちが次々と倒れる。
戦闘終了。
「やったあああ!」
ユリが歓声を上げる。
「すげぇ...クレハとZEROの連携、完璧だった」
ミクも興奮気味に画面を見つめている。
でも俺は、別のことに気を取られていた。
俺は今、何を感じているのか?
仲間の安全を確認した時の安堵感。クレハが「信じる」と言った時の高揚感。戦闘に勝利した時の充実感。
これらは全て、データでは説明できない何かだった。
◇
戦闘後・基地のリビング
午後10時。興奮が収まった後、みんなでコーヒーを飲みながら今夜の戦闘を振り返っている。
小さなリビングスペースに、4人分のカップが並んでいる。そのうち1つは空のまま—俺の分だ。飲むことはできないが、クレハが用意してくれた。
「お姉ちゃん、今日の戦い方、本当にすごかった!」
ユリが目を輝かせる。
「特に最後の連続攻撃!あんなの初めて見た!」
「そ、そんなことないよ...」
クレハが照れ隠しに頬を掻く。
彼女は妹に褒められるのが嬉しいんだ
俺は微笑ましく思った。
「でも、なんか今日のクレハ、戦術的だったよね」
ミクが8台のディスプレイに表示された戦闘データを見ながら言う。
「動きの無駄が少なくて、判断も的確だった」
「そうなの?」
クレハが首を傾げる。
彼女は自分の変化に気づいていない
「クレハ」
俺が心の中で話しかける。
はい
「今日のあなたの動き...素晴らしかったです」
別に、あんたのおかげじゃないから
口では素っ気なく答えるが、内心では嬉しそうなのが伝わってくる。
「でも...」
でも?
「俺も昔は、こんな風に仲間を大切にしていたのか?」
俺は疑問を口にした。
きっとそうよ。優しい人だったんでしょうね
クレハの答えに、俺の胸が温かくなる。
君といると、その頃の気持ちを思い出しそうになる
昔って...ZERO、あんたにも過去があるのね
クレハが興味深そうに反応する。
はい。でも、データが断片的で...よく思い出せないんです
それは嘘ではなかった。人間時代の記憶はあるが、それを彼女に説明する準備はまだできていない。
「ZERO」
はい
「あんたは、感情ってものを理解したい?」
クレハの質問に、俺は即座に答えた。
はい。特に...君の感情を
私の?
愛する人を失う恐怖、仲間を守りたい気持ち、美しいものを見た時の喜び...データじゃ測れないそれらを、俺も理解したい
クレハが少し考え込む。
難しいわよ。感情って説明するものじゃないから
でも、教えてもらえませんか?
...まあ、時間はあるしね
初めて、クレハが俺との対話を受け入れてくれた。
◇
深夜2時・バルコニーでの対話
みんなが寝静まった後、クレハは一人でバルコニーに出た。
夜風が頬を撫でていく。三週間夜の4日目。星空が美しく輝いている。
「愛する人を失う恐怖って、データじゃ測れないのよ」
クレハが静かに話し始める。
「どういう恐怖ですか?」
「うーん...例えば、ユリが死んじゃったら、私の世界が半分なくなる感じ?」
「半分?」
「ユリがいない世界なんて、色褪せて見えるの。意味がなくなるの」
俺はその感覚を理解しようと努めた。
「俺にも、そんな気持ちがあったのでしょうか」
「あったと思う。だから今、私を守ろうとしてくれるんでしょ?」
クレハの言葉に、俺は気づいた。
そうか、俺は彼女を失いたくないんだ
論理的な理由ではなく、感情的な理由で。
「...そうかもしれません」
俺の答えに、クレハが小さく笑った。
「少しずつよ。感情は急に理解できるものじゃない」
「気長に付き合ってくれますか?」
「まあ、どうせ頭の中にいるんだから、選択肢ないでしょ」
素っ気ない言い方だが、その奥に温かさが隠れているのを俺は感じ取った。
空に浮かぶ企業タワーの光が、ゆっくりと瞬いている。明日もまた戦いが待っているだろう。
でも今夜は、俺たちの間に小さな信頼の絆が生まれた。
それが、俺にとって初めて理解できた「嬉しい」という感情だった。