第4話:AI拒絶期の八つ当たり
「おはようございます、クレハ」
俺の声が響いた瞬間、クレハの動きがピタリと止まった。
コーヒーカップを持つ手が、わずかに震える。
「...うるさい!朝からうるさいのよ!」
彼女は乱暴にカップをテーブルに叩きつけた。中身が飛び散り、テーブルクロスに茶色いシミを作る。
俺たちが融合してから3日が経った。最初の混乱は収まったものの、クレハの俺への拒絶反応は日に日に激しくなっている。
ここはハーモニー・タウンの中層住宅区。クレハとユリが住む小さなアパートの一室だ。バルコニーから見える隣のビルの洗濯物、遠くに見える企業タワーの威圧的なシルエット。コーヒーマシンの機械音と、ユリが作る朝食の匂いが部屋に漂っている。
普通の日常風景のはずなのに、俺たちの間には重苦しい空気が流れている。
「お姉ちゃん、また朝から機嫌悪いの?」
ユリが心配そうに声をかける。16歳の妹は、まだ俺の存在を知らない。知らせるわけにもいかない。
「別に。ちょっと頭痛がするだけよ」
クレハは素っ気なく答える。でも、その声色には深い疲労が滲んでいる。
俺は罪悪感を感じた。彼女の頭痛の原因は、間違いなく俺だ。
「薬、飲む?」
「いらない」
ユリが傷ついた表情を見せる。普段のクレハなら、妹の心配にもっと優しく応えるはずなのに。
これも俺のせいか
心の中でZERO-7:「なぜ彼女に相談しないのですか?」
クレハ(心の中で):「言えるわけないでしょ!頭の中にAIがいるなんて、頭おかしいと思われる」
俺は彼女の脳内で静かにしていようと決めた。でも、それでも彼女の苛立ちは収まらない。
◇
ピリリリ...
クレハのコミュニケーターが鳴った。ミクからの緊急連絡だ。
「はい、クレハです」
『お疲れ様!緊急依頼が入ったよ。ハイペリオン社の輸送車護衛任務。報酬は200万NC』
「分かった。詳細は?」
『シン・シブヤのAR文化地区を通過予定。ネクサス社の妨害が予想される。時間は10時、集合場所は...』
俺は黙って情報を分析した。シン・シブヤのAR文化地区。入り組んだ路地と複雑な立体構造。敵が待ち伏せするには絶好の場所だ。
「クレハ、あの地区なら最適ルートは—」
「黙って!私の戦術に口出しするな!」
クレハが俺の分析を遮った。心の中で彼女の怒りが爆発する。
私の身体なのに、なんであんたに指図されなきゃいけないのよ!
まるでゲームキャラクターみたいに操作されるなんて、まっぴら!
「分かったわ、行く」
クレハは通信を切ると、荒々しく立ち上がった。
「ユリ、行ってくる」
「気をつけてね、お姉ちゃん...」
ユリの心配そうな視線を背中に受けながら、クレハは家を出た。
◇
シン・シブヤAR文化地区
空中に浮かぶ巨大なホログラム広告が色とりどりの光を放ち、地上の若者たちを虹色に染めている。「新型ニューラルリンク!今だけ30%オフ!」「恋愛シミュレーション『パーフェクト・ラヴ』体験版配信中!」音声広告が立体音響で響き渡る中、ARゴーグルを装着した若者たちが空中の何かと戦っている。
道端では、全身蛍光ピンクの髪をした少女が仮想キーボードを叩き、目の前に浮かぶコードの海と格闘している。隣では、サイバーアイを7つも埋め込んだ青年が、同時に複数のARゲームをプレイしながらクスクス笑っている。現実の建物の壁には古い落書きが残る一方で、その上に重なるようにデジタルグラフィティが踊り、絶えず変化し続けている。
ネオンサインの隙間から、時折サイバーサイコの奇声が聞こえてくる。快楽プログラムに溺れ、現実と仮想の区別がつかなくなった者たちが、見えない敵と戦い続けている。一見平和に見えるこの地区は、実は狂気と技術が同居する危険な場所でもあった。
クレハはサイバー・バイク「スピード・デーモン」にまたがった。エンジンが唸りを上げ、排気口から青い光の粒子が噴出する。タイヤが路面を蹴ると、ホログラムのような青いネオン軌跡が宙に残り、2秒後に美しく消散していく。
黒と銀のボディに刻まれた発光回路が脈動し、クレハの心拍と同調している。ハンドルグリップには神経接続端子があり、彼女の思考と直結してバイクの挙動を制御する。風防に映るHUDディスプレイが、速度、方向、周囲の脅威レベルを次々と表示していく。
「ターゲット確認。ハイペリオン社の装甲輸送車、12時方向」
俺が分析結果を伝える。
「見えてる」
クレハの返事は素っ気ない。
輸送車は重装甲で、6輪の大型車両だ。護衛として武装ドローンが4機、周囲を飛行している。
その時—
ダダダダダ!
路地の向こうから銃撃が始まった。ネクサス社の妨害部隊だ。
瞬間、平和だった街の空気が一変する。ARゲームを楽しんでいた若者たちが悲鳴を上げて散り散りに逃げ、空中のホログラム広告が銃弾で歪んで消滅する。サイバーウェアで強化された戦闘員たちが、ガラス張りの高層ビル屋上から攻撃を仕掛けてくる。
マズルフラッシュが建物の窓を照らし、薬莢やっきょうがガラスの雨と一緒に路面に降り注ぐ。逃げ惑う市民たちのARゴーグルが銃撃の衝撃波で故障し、現実と仮想の境界がさらに曖昧になる。
クレハが直感で左に回避しようとした瞬間—
「非効率です。右に回避を。敵の射角を考慮すると—」
俺の分析が脳内に響く。
クレハが一瞬迷った隙に、敵の攻撃が左肩を掠める。サイバーウェア「刹那」の装甲が火花を散らす。
「痛っ...!あんたのせいで...!」
「論理的には正しい判断でした」
「論理的?私はロボットじゃない!」
彼女の怒りが、俺にも直接伝わってくる。
主導権への恐怖
俺はようやく理解した。彼女が恐れているのは、自分の体を他者にコントロールされることだ。まるでゲームキャラクターのように操作される感覚。
戦闘は激化していた。
ネクサス社の強化兵士たちが、ロープで建物から降下してくる。地上でも、改造バイクに乗った追手が現れた。
クレハは村雨を抜いた。高周波ブレードが青白く光る。
でも、彼女の動きには迷いがあった。普段なら瞬時に判断する戦術選択で、一瞬躊躇している。
俺の影響で、彼女の直感が鈍っている
それに気づいた時、敵の一人が間合いを詰めてきた。サイバーアームで強化された右腕が、クレハの頭部を狙う。
危険だ!
「クレハ、左に—」
「だから黙ってって言ってるでしょ!」
彼女は俺の警告を遮り、独自の判断で右に回避した。
ガキン!
敵の攻撃が、クレハの右頬を掠める。義眼の部分に亀裂が入った。
間違った判断だった
俺の分析が正しければ、左回避が最適解だった。でも、彼女は俺の意見を聞きたくない。
「クソ...」
クレハが舌打ちする。
彼女は村雨を振り上げ、敵のサイバーアームを切断した。高周波の刃が金属を焼く匂いが立ち込める。
シュイイイン!
切断されたサイバーアームが地面に落ちる。敵が苦痛に顔を歪めた。
でも、戦闘はまだ終わらない。他の敵が次々と襲いかかってくる。
「クレハ、後ろ!」
今度は本当に危険だった。敵の一人が、背後からエネルギーナイフで奇襲を仕掛けてくる。
「...っ!」
クレハも気づいた。でも、回避が間に合わない。
このままでは...
俺は迷った。彼女の体を直接制御すべきか?でも、それは彼女がもっとも恐れていることだ。
結局、俺は何もしなかった。
ズバッ!
間一髪、クレハが振り返りざまに村雨を振るった。エネルギーナイフと高周波ブレードが激突し、激しい火花を散らす。
「はあ...はあ...」
クレハが荒く息をつく。
戦闘は彼女の勝利に終わったが、普段より明らかに危険だった。俺の分析と彼女の直感が噛み合わないため、最適な判断ができない。
「任務完了。輸送車の護衛成功」
クレハが通信で報告する。でも、その声には疲労が色濃く表れていた。
◇
帰路・ハーモニー・タウン商店街
任務を終えて帰る道で、クレハは商店街に立ち寄った。
ここは昭和レトロとサイバーパンクが不思議に調和した空間だった。古い木造の看板「○○商店」の隣に、ホログラム文字で「サイバーパーツ専門店」が点滅している。石畳の道には配線が這い回り、そこかしこで小さな電気火花が散っている。
八百屋のおばあさんは、四本腕のサイバーウェアで野菜を素早く選別しながら、口では常連客と世間話をしている。「今日の人工トマトは甘いよ〜」「ああ、培養キャベツも入荷したから」。その隣の肉屋では、多眼サイバーアイを装着した店主が、人工肉の品質を同時に8つの視点でチェックしている。
空中には小型配達ドローンが低空飛行で荷物を運び、子供たちがその下で「危ないよ〜」と笑いながら遊んでいる。街角では老人たちが碁を打っているが、碁盤はホログラム製で、石を置くたびに美しい光のエフェクトが広がる。
触手アームのラーメン屋「四天王」の前を通りかかると、4本の腕で同時調理をしながら店主のおじさんが声をかけた。湯気と一緒に立ち上る醤油の香り、電子音で奏でられる懐かしいメロディー、客たちの談笑声が混じり合って、この街特有の生活感を作り出している。
「クレハちゃん、お疲れさま!今日は元気ないね」
「別に、普通よ」
クレハの答えは素っ気ない。以前なら、もう少し愛想よく応対していたはずだ。
店主が心配そうな表情を見せる。
彼女の人間関係まで悪化している
俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
緊張でラーメンを大盛りにしようとするクレハ。
「カロリー過多です。摂取を中断してください」
俺の分析が脳内に響く。
「うるさい!これは私のストレス解消法なのよ!」
クレハが心の中で叫ぶ。
「非効率的なストレス処理方法です」
「効率、効率って...私の人間らしさまで管理するつもり?」
結局、クレハはラーメンを注文せずに店を後にした。
「クレハ...」
「今は話しかけないで」
彼女が心の中で拒絶する。
◇
アパートに戻ると、ユリが夕食の準備をしていた。
「お帰りなさい、お姉ちゃん!今日は何の任務だったの?」
「護衛任務」
クレハは簡潔に答えて、リビングのソファに座り込んだ。
「お疲れ様。お風呂沸かしておいたよ」
「ありがとう」
ユリの優しさに、クレハの表情が少しだけ緩む。でも、すぐにまた険しくなった。
俺がいることを思い出したからだ。
妹との時間まで、俺が邪魔をしている
夕食は静かだった。ユリが一人でおしゃべりして、クレハはほとんど相槌を打つだけ。
「お姉ちゃん、本当に大丈夫?最近、なんか距離感じる」
ユリの心配そうな声に、クレハの胸が痛んだ。
言いたい。でも言えない
頭の中にAIがいるなんて、信じてもらえるわけがない
きっと頭がおかしいと思われる
クレハの孤独感が、俺にも痛いほど伝わってくる。
「ちょっと疲れてるだけ。心配しないで」
「そう...なら、いいけど」
ユリは納得していない様子だったが、それ以上は追求しなかった。
◇
夜・ユリの部屋
午後11時。
クレハは静かにユリの部屋に忍び込んだ。狭い住宅の温かい照明、ユリのベッドの柔らかい毛布。窓から見える隣のビルの明かり、生活感のある他人の部屋。
「お姉ちゃん?」
ユリが目を覚ました。
「ごめん、起こしちゃった。なんか...怖い夢を見たの」
クレハは誤魔化すように言った。本当は、ZERO-7のことを話したかった。でも言えない。
「お姉ちゃん、最近元気ないよね?何か悩みがあるの?」
ユリが心配そうに身を起こす。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけ」
クレハはユリの隣に潜り込んだ。妹の温かさが、少しだけ心を落ち着かせる。
「明日はちゃんと休みなさい」
ユリが優しく頭を撫でてくれる。
でも、クレハは本当のことを言えない苦しさで胸がいっぱいだった。
◇
しばらくして、クレハは静かにユリの部屋から出て、小さなバルコニーに向かった。隣のビルの窓明かり、遠くの企業タワーのネオンサイン。いつもの風景だが、今夜は特に寂しく感じる。
一人で抱え込む孤独感と苦しさが、胸を締め付ける。
「ねえ、ZERO」
クレハが初めて、俺に自分から話しかけた。
「はい」
「あんたは...私のことをどう思ってるの?」
「どう、というと?」
「利用してるだけ?それとも...」
彼女の声には、深い疲労と不安が混じっている。
俺は慎重に答えた。
「クレハ、俺はあなたを利用しているわけではありません。あなたに助けられたんです」
「でも、私の体を使って、私の判断を変えようとしてる」
「それは...」
俺は言葉に詰まった。確かに、俺の分析が彼女の判断に影響を与えている。
「私は私でいたいの。あんたの操り人形じゃない」
「俺も、あなたを操りたいわけじゃありません」
「でも、あんたがいると...自分の判断に自信が持てなくなる」
クレハの告白に、俺は胸が痛んだ。
「このまま全部AIに管理されて、私は何も決められなくなるの?」
「私らしさって何?効率的じゃないから全部間違い?」
「ユリへの愛情も、カイトへの想いも、全部『非効率』で片付けられるの?」
彼女の内的恐怖が、俺にも痛いほど伝わってくる。
「自分で決めたいの。たとえ間違いでも、私の判断で行動したい」
「分かります」
俺は静かに答えた。
「でも、危険な時は助言させてください。あなたを失いたくないんです」
「なんで?あんたにとって私は、ただの入れ物でしょ?」
「違います」
俺は即座に否定した。
「あなたは俺の命の恩人です。そして...」
俺は言いかけて、やめた。
友達になりたい
でも、そんなことを言う資格が俺にあるのだろうか?
「それに何?」
「...いえ、何でもありません」
クレハがため息をついた。
「疲れた。ユリの所に戻って寝る」
「おやすみなさい」
「あんたは寝なくていいわよね。羨ましい」
皮肉っぽい口調だったが、その奥に本当の寂しさが隠れているのを俺は感じ取った。
彼女は一人で抱え込んでいる
俺のことを、誰にも相談できない
それがどれほど辛いか...
人間時代の俺なら、きっと同じように苦しんだだろう。
ユリの隣に戻ったクレハ。でも、なかなか眠れずにいる。
俺は静かに彼女の脳内で待機した。
俺は彼女に何をしてやれるのか?
どうすれば、この状況を改善できるのか?
明日も、きっと同じような一日になるだろう。彼女の拒絶と俺の困惑。どこかで歯車を合わせなければ、このままでは共倒れになってしまう。
でも、どうすれば...
外では三週間昼が終わり、長い夜が始まろうとしていた。シン・トーキョーの街に、ネオンライトが一斉に点灯する。