マスクについて
毒の雲の上の王国、フィーロゾーフィアに今日も朝がくる。
午前八時。
いつもより遅い時間帯に小夜子は一階におりた。黒髪黒目の、十四才の女の子である。
ダイニングには誰もいなかった。庭に移動する。
誰もいない。
同居人――というか家主のエチカは、朝は決まって早起きで、庭かダイニングにいるのだが、そのどちらにもいない。ということは。
(研究室かしら)
小夜子は白い寝巻のまま、眠い目をこすりこすり、ダイニングを出ようとした。
ごほっ。
廊下に出るなり、階段のほうから音がする。
重たげな足音をさせて、ちゃっかりシャツにミニスカの私服姿に着替えたエチカ――金髪金目の若い女錬金術師だ――が、ゆっくりとおりてきていた。ごていねいなことに、作業用のグローブもしっかり嵌めている。
「ダルい……。カゼを、ひいちまったみたいね――げえっほっ! げほっ!」
「へえー。エチカも体調を崩すなんてことがあるんですね」
「あんたは無さそうでいいわね。なんとかはカゼをひかないとは言ったものだわ」
「そんだけ憎まれ口が叩けるならヘイキそうなもんですけど。まあ今日は大人しく回れ右して寝てて下さい。食事当番かわりますから」
「わるいわね。とは言えこんな機会に部屋の中で寝込んでるってわけにもいかないんだけど」
「どういう――」
小夜子が訊くより先に、エチカは持っていたマスクを装着した。
金の長い髪に金色の目――元がハデな顔つきなために、顔の下半分をピッタリ覆いつくすプリーツ付きマスクは、エチカを一昔前の暴走族に変身させる。
そのまま階段をおりて、研究室から庭へ出ていくエチカを小夜子は追った。行きがけの駄賃のような動きで、デスクに出しっぱなしにしていた本と充電式の卓上扇風機を手に取って、エチカが庭へのドアを開く。
「って、寝てるんじゃないんですか? こんな時にまで外で読書?」
「そーよ。薬飲んで一日中家にこもってるより効くわ。私の場合。ああ、ご飯できたら呼んでね。配膳手伝うから」
「おとなしく部屋で寝てましょうよー。悪化したらどうするんです?」
「おとなしくはしてるわよ」
エチカはコン、コンと咳をしながら、あしもとにあったバケツの水を草の地面にぶちまけると、デッキチェアに横たわって扇風機をつけ、本を読みはじめた。
なっとく)のいかなそうな顔でパジャマのままたたずむ長い黒髪の少女――小夜子を横目に見る。
「……サヨコ。カゼってのはね、私にとっちゃあチャンスなのよ。最も効率のよくなる日だわ」
「『私にとっては』っていうことは、汎用性は無いんでしょうか?」
「責任は取れないから、真似はしてほしかないわね」
「で、チャンスとは?」
エチカはかるく、口につけている白い不織布を引っぱった。
「マスク?」
「そう」
ぴったりと鼻と口を塞ぐように付けなおす。
「なんでもない時に着けてたら変人あつかいだけどね。カゼなら一日中付けてられるでしょ。その状態で外にずっといると、なんか調子がいいのよね。私の場合、だけど」
「はあ……。なんでなんですか?」
「さあ?」
某感染症の影響で、日本にいた時には『外に出る時はマスクをつけるのがマナー』みたいに言われていた時期があるのを知っている小夜子だが、故郷での記憶は失くしたということにしているので、余計なことはしなかった。
エチカはみじかく答えると、本を読むのに意識を戻した。
会話は終了だ。
(なんで……?)
小夜子は朝食の支度のために、キッチンのあるダイニングに向かった。マスクを付けて外で扇風機に吹かれながら悠々自適に読書するエチカに、ただ疑問符を浮かべつづける。
(なんでーー!?)




