釣りについて
「やあ。奇遇だね、サヨコちゃん」
建物から出てきた少女に、オーギュストは半身をひねってあいさつをした。
短い黒髪にバンダナを巻いた、良質な素材の服に身をつつんだ青年だ。
雲の上の王国、フィーロゾーフィアの国王だが、今は市民に扮しておしのびで外出中である。
彼の手には釣り竿が一本にぎられていた。
メインストリートと空を区切る鉄の柵から、ぶ厚い雲へと糸を垂らしている。
小夜子は下宿している雑貨屋『エチカ商店』の玄関ドアをあけたまま、固まっていた。
長い黒髪に黒い眼の、十四才の少女である。
カチューシャにワンピースといった普段着で、、昼食でも食べに行こうかと家を出たところだった。
「なにが『奇遇だな』ですか。人ん家のまえで待ち伏せしておいて」
「おいおい、人聞きわるいなあ。見てみなよ、釣りしてるだけだよ、僕あ」
『釣り』と聞いて小夜子は通りに出ていった。
手すりに両手を置いて、外の空をのぞきこむ。
足元には白い雲があるばかりだった。これをさらに下にいけば、紫から黒へと色と濃度を変える、毒の蒸気の層に出る。
白雲には、オーギュストの持っている釣り竿から、糸が一本のびていた。
先は雲海に呑まれて見えない。
白い雲を凝視しながら、小夜子はオーギュストに訊いた。
「雲のなかに魚がいるんですか?」
「いやー、いないよ。雲の底に怪蛇がいる、なんて言うやつもいるけどね。エチカは見たことはないって言うし、なんもいないんだろ。あるのはロマンだけ」
キリキリ。
リールを巻いて、オーギュストは糸を引き上げる。
先にはルアーもエサも釣り針もない。
オモチャのティーカップが糸でくくりつけてあって、カップのなかには茶色い粉末がギュッとつめ込まれていた。
こぼれないように、巧みに固めてある。
「へんなの。針もなにもないんですね。それ、なんなんですか?」
「ココアパウダーだよ」
「ココアパウダー? それで雲の魚がつれるんですか?」
「だから魚はいないんだってば」
オーギュストは苦笑して、また糸を雲に沈めた。
「こうやってね、ココアを垂らして、サヨコちゃんでも釣れないかなーって、日がな一日まったりしてたってわけだよ」
「釣れるわけないでしょうが!! わたしをなんだと思ってんです!? いくらわたしがココア好きだからって、んなもんで釣れると思ったら大間違いです! プライドくらいありますよ!」
「ははは、ごもっとも。こりゃとんだ無礼をはたらいちまったい」
オーギュストは自分の頭をペシっと叩いた。
小夜子は怒りが冷めやまない。
クスクス。
道行く人が、二人を見て笑いながら通りすぎていく。
それをながめ見たオーギュストが、
「うわっ、すげー美人! サヨコちゃん、これ持ってて! おーい、そこの美しいご婦人!」
あわてて駆け出し、年の頃二十才ほどの女の人に声をかけた。
女性は栗色の髪をひとつに結って、質素な町人服をまとっていた。いかにも町娘という風采だが、立ち居ふるまいに品がある。ふりかえった時に見えた表情は儚く、庇護欲をそそるような美しさがあった。
女性はうしろから追い駆けてきたオーギュストに立ち止まった。まだ笑いのおさまらない声で答える。
「ごめんなさい、あんまり仲がよさそうだったので。ごきょうだいですか?」
「はあ!? ジョーダンじゃないですよこんな――モグ!?」
数メートルは離れているはずのオーギュストの手がのびて、小夜子の口をふさいだ。
そのまま女性を口説きにかかる。
「ははは、いやご慧眼だなあ。じつはそうなんですよ。血のつながった妹でしてね。カワイイでしょう。ところで今から僕と二人で昼食でもどうですか。おごりますよ。もちろん」
「そんな、でも、妹さんはほっといてよろしいんですか?」
「かまやしません。――と、ちょっとだけ待っててください」
愛想のいい笑いをふりまきながら、小走りでオーギュストが小夜子のもとに戻ってくる。
「サヨコちゃん、ここだけ話を合わせてくれ。たのむよ。その釣り竿あげるからさ。四十万もするいいやつだぜ。いらないなら質屋に入れてくれてもいいっ!」
「うー、そこまで言われたところで王様なんかと血のつながった妹っていう設定は受け入れがたいものがあります」
「そう言うなよ。とにかく一言『いってらっしゃいませお兄さま♡』と言ってくれりゃあいい。それですべてが上手くいく」
「そのセリフを言うのはキモすぎてイヤですけど。……わかりました。とりあえず王様がわたしのことを妹呼ばわりするのは、この場では否定しないことにします」
「よし、交渉成立だ。では、お兄ちゃんは大事な用事ができたので、ここで失礼するぞ、実の妹よ!」
「はいはい、いってらっさい」
シッシと手を振って、小夜子は四十万グロリスの釣り竿を手に入れた。
オーギュストはさっき声をかけた女性をつれて、大通りを繁華街方面へと下っていく。
(毒の雲の底にヘビ……か)
小夜子は一度、雲から釣り糸を巻き上げて、エサはさわらずに、あらためて白い蒸気の塊に落とした。
リールをほどいて、糸をのばす。
夕方まで待った。
なにも釣れなかった。




