エチカとサヨコ-④
◇
《リーマジハの森》は、王都を出て五分とかからないところにある、王家管理の自然林だ。
モンスターと呼ばれる、凶暴性の高い、特殊能力を持つ動物が生息しているが、王都からずっと離れた辺境や、未開の地に比べると、気質としておだやかであったり戦闘力の低い種族がほとんどである。
ざっ。
ざっ。
森を道なりに進みながら、三人は目的の素材を探していた。
「だいたい木の根元に生えてるんだよね~」
と、杖で下草を掻き分けてあらためながらテレサが言う。
「あの~。ところでアリサ」
前を行きながら、テレサ同様に《香閃草》を探すアリサに、小夜子は声をかけた。
「香閃草って、どんな見た目をしてるんですか?」
ゴンッ。
ガサッ。
前方ではアリサが木の幹に顔をぶっつけ、後方ではテレサが茂みに頭からつっこむ。
「あっ、あなた、どんな物かも知らないで、採取をしに来てたんですの!?」
「お二人に会ったら訊こうって思ってたんです。でも、ちょっと機会をのがしちゃって」
「はあ……」
アリサは学生用のシャツのポケットから手帳を取り出した。
背表紙に備えつけてある鉛筆で、ササッとページに描画する。
「香閃草は、《思い出し薬》の材料となる薬草ですわ。リンドウに似た姿をしていますが、花弁が銀色で葉が薄紅なのです。ちなみに春から夏にかけてしか採れません」
「はえ~。……って!」
小夜子はアリサの説明に穏やかではない単語を見つけた。
先を急ごうと背を向ける少女のシャツをつかんで引っぱる。
「待って。お、お、お、お……思い出し薬っていうのは……いったい」
「その名の通り、忘れたことを思い出させてくれる薬だよん」
ニコちゃん。
と傷だらけになった顔を笑みにして、テレサがつけ足してくれる。
茂みにつっ込んだせいか、少年の前髪や帽子には葉っぱや枝がくっついていた。
テレサは更に、小夜子にとっておぞましいことを告げてくる。笑顔で。
「きっとエチカさん、サヨコちゃんの為に作ってくれるんだよ。よかったね。思い出し薬ってかなり高価で、フツーは何十万グロリスってするんだよ」
『グロリス』はフィーロゾーフィア国だけでなく、この世界全域で共通の貨幣単位である。蛇足だが。
「いや、ま、まさか……。エチカがそんな……」
「あり得ますわね。ぶっきらぼうなようでいて慈悲深いところもありますから、彼女。ああ、なんて素敵な」
「アリサー、戻ってきてよー」
うっとり夢の中に飛んでそのままどこかへ走っていく姉を、気のない声で呼び戻す弟。
それどころではない小夜子はひとり葛藤していた。
(もし、エチカがわたしに思い出し薬なるものを服用させたならば――)
小夜子の元の世界での記憶がもどったということになる。
もちろん「薬が効かなかった」ということにして、今までと同じように記憶喪失のフリをしてもいいのだが。
(駄目! そこまでは嘘をつけない。わたし個人が、わたしの勝手のために無能のフリをするのはよくっても、こっちの事情に巻き込んで、相手の能力を不当に貶めるなんてことは駄目! わたしは絶対にしたくない!)
小夜子は頭をかかえた。
(くう~っ……。でもそうなると、わたし、帰らなきゃならないんだ。あのくちうるさいお母さんのいるところに……気の合わない同級生や、大人気ない先生ばっかりの日常に……。うーっ。でも、それよりもなによりも嫌なのは……)
ブンブンと小夜子は頭を振った。
サラサラのストレートロングが、尻尾みたいに空中を左右する。
(エチカに……わたしがマンホールに落っこちてこの世界にやって来たってのがバレちゃうんじゃないかってこと!!)
寒さに凍えるように小夜子は我が身を抱いた。
どういう理屈かは小夜子本人にも不明だが、《思い出し薬》を飲んだ途端、記憶の中身が暴露されてしまいそうなのだ。
主に自分自身の過失によって。
(あの女は笑う! ぜったいに笑う! 容赦なく笑う!! おほほほほほほほって笑う!! わたし……自分のために馬鹿になるのは平気だけど、自分の過失を他人に嘲笑われるのは耐えられない! 絶っっっ対に嫌!! 逆に相手を嘲笑うのは全然いいしするけど)
「サヨコ……。震えてますわね」
縮こまる小夜子の肩に、そっとアリサが手を置いた。
ちゃんと戻って来てくれていたのだ。
「お気持ち、よく分かりますわ。私とて高い薬を無料で処方してもらえるとなれば、歓喜で打ち震えてしまいますもの」
(分かってないいい!)
「あ、サヨコちゃん、気をつけて」
テレサが声を低くして前方に注意を向けた。
「?」
小夜子は顔をあげる。
木々の合間に一羽の兎がいた。
「《ソーサリーラビット》ですわね」
「か、可愛い」
兎には小さな羽が生えていた。
天使のイラストで見るような羽だ。
それ以外はニホンウサギと同じ特徴で、白い毛皮に赤い目の、人畜無害な草食動物といった造作だった。
「う~う~」
とウサギは鳴いて、その場に蹲っている。
「おなかでも痛いんでしょうか」
「情けは無用ですわ、サヨコ」
「それとも空腹なのかしら?」
「聞いてませんわね」
「あ、サヨコちゃん!」
小夜子はポケットに手を入れて、中に今朝ダイニングからくすねてきたクッキーがあるのを確かめながら歩いた。
兎が顔をあげる。
「助けてくれるの?」と言わんばかりに、円らな瞳をうるうるさせている。
「よしよし。これでも食べて、元気を出してくださ――」
すっ。
兎の前に小夜子がしゃがみこんだ直後。
ソーサリーラビットの身体が、風船のように膨らんだ。
「サヨコ!」
うしろからアリサが駆けつける。
テレサもやってきて、ふたりで思いきり小夜子を引っぱった。
ふわり。
一瞬浮きあがり、サヨコの身体がうしろに跳ぶ。
ばくん!
巨大な頭が地面を穿った。
白い毛皮。
長い耳。
背中に蝙蝠の翼がひろがった、高さ三メートルはあろうかという巨大な兎が、三人の目の前に出現している。
あの小さな兎が変貌したのだ。
「ごふー」
兎の唸り声がする。
「……か、かわいくない」
「あたりまえですわ」
「サヨコちゃん、《ソーサリーラビット》はね、さっきみたいに弱っちいフリをして、旅人とかをおびき寄せて、相手が油断をしたところで本性を現わして、ばくっと食べちゃうんだよ」
「ひえ~」
小夜子はテレサに手を引かれて走った。
どすん!
どすん!!
二足歩行になった巨大兎が、三人を追い駆ける。
「アリサ―、テレサ―、なんとかならないんですか」
「逃げるのが一番かと思いますが」
「あっ! 二人とも、あれ見て!」
テレサが身体をねじってソーサリーラビットの足元を指差した。
「あれは……!」
アリサが切羽つまった声を発する。
小夜子もつられて確認した。
銀色の花弁。
薄紅色の葉。
竜胆とよく似た立ち姿の植物――。
「《香閃草》ですわ! あのままでは、あの魔物に踏まれて目茶苦茶になってしまいます!」
「えっ!? やったあ!」
「なに言ってんだよサヨコちゃんっ、元の世界に帰れなくなっちゃうんだよ!?」
「よしなさいテレサ。分かっていますわ、サヨコ」
アリサはポンと、優しく小夜子の背中を叩いた。
「恐怖のあまり気が動転して、心にも無いことを言ってしまったのですね。安心なさい、エチカ様には黙っていてあげます」
(分かってないいいい!)
言い返すこともできず小夜子は歯噛みする。
「ぐるううっ!!」
兎の巨躯が三人目掛けて突進する。
「任せなさいサヨコ。あんな雑魚、この私が吹っ飛ばし、みごと香閃草とあなたを守ってみせましょう!」
(ひい~! 余計なことするなあー!!)
ごんっ。
悲鳴よりも先に手が出た。
小夜子がアリサを杖で殴り倒したのだ。
アリサは白目を剝いて気を失う。
「サヨコちゃん……?」
「ぐるる……?」
予期せぬ出来事に、テレサだけでなくモンスターまでが混乱して立ち竦む。
(いっ、今のうちに――ウサギさんを倒しつつ香閃草をぶっつぶす物体を!)
まともな想像力の働かないまま、気力だけはぞんぶんに奮って小夜子は杖を振り回した。
先端を近くの木にぶっつける。
ぼうん!
小枝の一本が巨大化しながら真横に突き出した。
尖った切っ先が化け兎を串刺しにする。
どずんっ!
胴体を貫かれて、ウサギモンスターが宙吊りになる。
血の滴る白い大きな足の下で、銀色の花弁をつけた一輪の花は、小夜子の意に背いて健やかに咲きつづけていた。