お掃除について-①
浮島の外周に設置された何機もの風車の羽根が、くるくると回転している。
毒の雲の上に浮かぶ、錬金術の王国フィーロゾーフィア。
夏の盛りにはいった太陽は、淀んだ地上よりもはるかに天に近く遮蔽物のない島々や大陸を、白い光線で容赦なく焼いていた。
摂氏五十度越え。
錬金術による、水と風の透明な膜――気温と紫外線を無害なレベルに落とす抑制ドームに覆われていなければ、とても耐え切れるものではない。
まあまあ高いくらいの温度と、日射の強さに抑えられた球体の中で、かつて地上から空へと逃れた人々は、
それでも暑い日々を送っていた。
◇
「あ~づ~い~」
研究室を掃除しながら、小夜子は今日だけでもう何度言ったか知れないセリフをくり返した。
小夜子――フルネームを不知火 小夜子という、十四才の少女だ。
数日前に、はれて現在いるここ雑貨屋『エチカ商店』に正式に採用され、今後は錬金術師としての活動も期待されつつある、アルバイトの若者である。
店主の女が毎日同じものを着ている小夜子を見兼ねて買い与えた、袖なしのプルオーバーに、脛まであるロングスカート、ベルトサンダルをはいている。頭にはやはりこれも店主の女が買い与えた、細いフレームの白いリボンのついたカチューシャをつけて、首にはこれだけは肌身離さずつけつづけている、台座になにもないペンダントを提げていた。
手には〈エーテル石〉と呼ばれる丸い石のくっついた長い錬金術師の杖――は持っておらず、代わりに竹箒を抱えている。
箒の先端に小さな顎をのせて、小夜子は掃き掃除の手を止めた。ぐったり、汗を流す。
「なんでこんなに暑いんですかあ~」
――夏だからでしょ。
という心ない声が返ってきそうなものだったが、幸か不幸かそれを言いそうな人物――店主のエチカは、近くにいない。
雑貨屋兼自宅であるこの建物の庭で、彼女はビーチチェアに寝そべりながらジュース片手にCDを聴きつつ読書中である。
店の表玄関には、『閉店』の札が掛かっており、それは六月のはじめから今現在に至るまで、ずっと続いている状態だった。
夏休みである。
フィーロゾーフィア王国は、六月から九月のはじまりまでの三ヶ月、夏場の長期的な休みがある。
公立、私立を問わず、学校はもちろん幼稚園や保育園、保育所までが業務を停止し、ふだんの拘束された生活からの解放に、わーっと沸き上がる者――特に学生――が出てくる時期だ。
そうしたシステムに便乗して、「ほなウチも」と店を閉める事業者もあり、エチカの店もそうした長期休暇をとる商店のひとつだった。
小夜子はフィーロゾーフィア国民ではなく、更に言えばこの世界〈ユックリッド〉で生まれた人間ですらない。
別の世界の『日本』という国からやってきた漂流者だが、夏休みに対する熱狂については、いたく共感できる。
日本にいた時には、七月の下旬から始まる一ヶ月ほどの休みがあり、小夜子は諸手を上げて喜んだものだ。
その夏休みのあいだにちょっとした『事故』があって、彼女はこちら側にやって来たのだが。
あちらがこの世界と時系列的に連動しているかは不明である。
あちらでの夏休み中に小夜子はフィーロゾーフィアに来たのだが、その時こちらはまだ初夏だったのだ。暦の上では五月だった。
それはともかく暑い。
「せめて終わりが見えてくれば、ガマンのしようもあるんですけどね」
小夜子は研究室を見回した。
エチカ商店の一階にあつらえられた、実験や製造に主な用途を集中させた一室だ。
決して広いとは言えないが、火を使ったり薬物を混ぜ合わせたりするには申し分ない、じゅうぶんに利用者の安全を確保できる面積と高さがある。
ここを使うのはもっぱら店主のエチカだった。
彼女はこの小さな雑貨商の主人であると同時に、フィーロゾーフィアきっての錬金術の才媛で、仕事のある日は業務時間の大半をこの研究室か、そこから連絡している庭で過ごしている。
休みにはいってからは、朝から晩まで庭で読書三昧で、たまに屋内にきたと思ったら「やばいやばい、忘れてた」と言ってよく分からない原稿を書いている。
そしてミスした紙を、惜しげもなく丸めては捨て、使った辞典や参考文献を、使い終わったらもう用済みとばかり、床にほっちらかしていく。
そんなズボラが半月もつづけば、立派に足のふみ場もない汚部屋のできあがりというわけで、その後しまつを従業員兼居候の小夜子に「やっとけ」と押しつけたのだった。
もちろん、その分のお手当ては出るのだが。
「はーあ、机の下なんて……どーやったらこんなにホコリがたまるのか……」
エアコンもなく、外からガラス窓を通して照りつける午前十一時の日射に、タラタラ流れてきた汗をぬぐう。
箒を動かして、実験器具でごちゃごちゃになったデスクから、イスを引いて、陰になったところを掻き出した。
――サササ。
音がする。
足元ではない。
手の近く。
なにか横切った。
ぐちゃぐちゃと、書き損じた――もしくはメモした紙切れが、ガラス管共々ころがった、机の上。
小夜子はしばらく停止して、再び音がしないか待った。
無音。
「あー、びっくりした。気のせいかあ」
デスクの上を見つめたついでに、明らかにいらなさそうに丸めてある紙クズを、傍らのゴミ箱に入れようと掴んだ。
カサカサカサカサ!
持ち上げた紙の下から、影が走り出す。
小さくてアーモンド型でイヤな光沢のあるそれは、散らかったデスクの上の、山と積まれたファイルの下に潜り込み、
「…………」
小夜子は白目をむいて、声もなく卒倒した。




