報酬について-②
ぱちん!
鼻提灯が割れて、小夜子はその音にビックリした。
売り場に掛かった、売り物ではない振り子時計を見ると、三時を差している。
夏の入り口にある、天空の国〈フィーロゾーフィア〉は、中天を過ぎても尚白々と眩い日光にさらされて、空調の無い店内は若干蒸し風呂状態だ。
「夢?」
朝食の準備中に手を切ったのが、白昼夢のごとく非現実的になって、小夜子は左手を確かめる。
親指の腹から爪にかけて、バンソーコーが覆うようにして貼ってある。
橙色のフィルムのまん中にある脱脂綿には、気休めていどに化膿止めが塗ってあり、血液と混ざってじんわりと赤く滲んでいた。
軽く右手で触れてみる。
(痛い)
小夜子は傷口が開かないように、確認は最低限でやめておいた。
簡単な武具や文房具、小型の電子機器や医薬品、魔法薬などでひしめく商品棚の並ぶ店内には、誰もいない。
会計台にはいくつかのメモとグロリス硬貨が重ねてあって、来客があったことを示していた。
名前と連絡先、購入していった物から、いつもの人だと小夜子は息をつく。
(よく来てくれてるみたいだけど、まだ一度もまともに応対したことないんですよね)
カチューシャをつけた長い黒髪をポリポリ掻く。
その日毎の収支はエチカが管理していて、いつも採算の合っていることから、客からのごまかしは無い。
誠実な常連客相手に、毎度毎度爆睡で対応していていいのだろうかと、小夜子は日頃の勤務態度を省みた。
(いいかげんちゃんと起きれるようにならないと……ん?)
ふわ~ん。
香ばしい匂いがする。
(ちょっと油くさいけど)
今日のおやつはエチカに作らせたんだった、と小夜子は急に元気になる。
カウンターテーブルのイスから立って、自分の分を取りにリビングへと駆けて行った。
「あれ?」
食堂とリビングとキッチンが一所の大部屋には、誰もいない。
コンロには火が無いし、スイッチのONを示すランプも消えていたから、調理者が料理中に退室したのではないと察して安心する。
「エチカ?」
無人――ということは、エチカが庭の方に自分で作ったおやつを全部持っていって独り占めでとてもいい度胸をしているということで小夜子はさっそくケンカ腰になって庭に走った。
「こらーっ! わたしの三時のおやつを掠め取ろうとは、お天道様が許しても、このわたしが許さない!」
人差し指を突きつけて、雇い主の蛮行を咎める。
錬金術師の研究室とリビングから出られる庭には、いつものように野外用の折り畳みテーブルが出ていた。
その一つにエチカは座っていて、本なんぞ開いてノートや付箋に書き込みをしている。
彼女の前には、大皿に山と積まれたプレーンとシュガーのドーナッツがある。
(そこまでは辛うじて見慣れた光景……山盛りのドーナッツは馴染みないけど)
小夜子はもう一つの座席にチョコンと腰掛けている人物に注意を移す。
「こ……こんにちは」
恐々と、ドーナッツに伸ばしかけていた手を引っ込めて、声変わりもまだの高音で、十才くらいの少年が小夜子に挨拶をした。




