エチカとサヨコ-②
◇
店の外は夕焼けの朱に染まっていた。
その美しさは毒の雲のうえの空中王国たるフィーロゾーフィアであっても変わらない。
エチカの店は螺旋状に敷かれた石畳の坂道の上層にあった。
道路の端には鉄の柵が設置され、一見オシャレな体裁だが、手すりを越えれば先は地獄。
空中島の外縁から外へと放り出され、白い蒸気の塊に沈むばかり。
円錐形を二つ、上下にして底面をくっつけたような形の島が、フィーロゾーフィア国の王都にして小夜子が現在やっかいになっている町だ。
都市の外縁部をめぐるように設置された何機もの風車の羽根が、あったかい風を受けてぐるぐると回転している。
鉄の手すりにそって歩きながら見あげると、茜色の空にキラキラ光る、帯状になった輝く石の群れが見える。
(あの中のどれかが――)
朱色を浴びても混ざることなく緑の光を放ちつづける石の帯に、小夜子はアンニュイな息をつく。
胸元にぶらさがったペンダント。
台座に嵌まるべき石は既になく、無骨なくぼみがポッカリと虚ろなくちを開けている。
(――わたしの持ってた石なのね)
小夜子は壊れたペンダントを握りしめた。
父からもらった大切なお守りである。
ドイツを中心に、中世や近代初期ごろまでの妖術師を研究していた壮年の歴史学者。
それが小夜子の父親である。
海外での取材中に立ち寄った小さな村で、『持っていると良いことがある』という触れ込みを受け、学校で友人関係のうまくいっていない一人娘のためにと、エメラルドみたいな石のついたペンダントをお土産に買ってきてくれた。
しかし小夜子は、たとえ気休めであったとしても、幸運のお守りが必要だったのは自分ではなく父のほうだったと思っている。
それも今となってはの話だが。
父は飛行機事故で死んだ。
小夜子と母親のもとには、「奇跡的に見つかった」という父の持ち物が一点帰ってきただけだった。
父の遺体は発見されなかった。
――形見。
小夜子が元の世界でも後生大事に身につけていたペンダントは、父の存在を証立てる遺物の一つになってしまった。
スピノザきょうだいの家へと坂道を下っていきながら、小夜子は元の世界――『日本』でのことを思い返す。
父が他界してから、もとより学業について厳しかった母親が、より執拗に小夜子を家に、学習机に縛りつけようとしたこと。
誰にそそのかされたのかは知らないが、事故のニュース報道後、それまでろくに口を利いたこともなかったクラスメイトたちが、急に馴れ馴れしく接してくるようになったこと。
くちをひらけば人間関係やテストの点数について問いただしてくる家庭に、空虚な友情やおためごかしを振りまく学校。
家出のつもりはなかったけれど、夏休みのある日、小夜子は「クラスメイトに塾に体験入学してみないかってさそわれたから」と嘘をついて夕飯後に外へ出た。
息抜きがしたかったのだ。
夜になれば少しは涼しい、現代的な日本の住宅街の空気を吸って、気がつけば父のことを考えていた。
ペンダントに嵌まった緑の石を見つめて。
その時、小夜子は願ったのだ。
衝動的に。
――良いことを起こすちからがあると言うのなら、わたしを今すぐ、ここじゃない、どこか自由な世界へつれ出してよ――!
すると、
小夜子の足元に穴があいた。
というよりあいていた。
工事中で蓋をあけっぱなしのまま放置されたマンホールが。
うっかりそこに足を踏みはずした小夜子は、すっぽりキレイに真下へと落ちていった。
まっくらな穴の中を、悲鳴と怒号と、顔も名前も知らない工事現場の作業員へのくち汚い罵りの言葉でいっぱいにしながら、ひたすらにヒューッと。
そして気がつけばフィーロゾーフィア王国の森に至り、ペンダントの石はその後エチカによって、小夜子の言語翻訳および『地球』との連絡路開通のために、内在させていた力を解放させられた。
結果――。
小夜子の石は空へと飛んでいった。
まるで仲間を求めるように、同じような緑の石のリボンに近づいていき、自分自身もその集合体にくわわって、キラキラ輝き軌道をえがきながら、現在もこの世界の天空をめぐりつづけている。
石の名前は《渡煌石》といった。
だがそんな名前とか世界を開通させる能力とか、この世界の人たちと地球人が話せるように感覚を改変してくれるとか。
そんなことよりも、父からもらったお守りだという事実のほうが、小夜子には大事だった。
(エチカはうしろめたいのかなあ)
と、小夜子は自分が彼女に雇われた理由を想像する。
そこで気持ちを切りかえた。
(……香閃草だっけ。で、お仲間をつれてけと)
エチカのおつかいをおさらいする。
いろいろと考えているうちに、目当ての家まできていた。