エチカとサヨコ-①
毒の雲海に浮かぶ、錬金術の王国フィーロゾーフィア。
独楽の形をした浮遊島に築かれた都の中に、一軒の風変わりな雑貨屋がある。
店の名前は『エチカ商店』。
日用雑貨から特殊な薬品まで、幅広い道具をあつかう小さな店だ。
軒先には先日まで従業員募集のポスターを貼っていたが今は無い。
人が入ったのだ。
従業員の名は不知火 小夜子。
こことは違う別の世界から来た、十四歳の少女である――
「――コ。サヨコ」
女の声がして小夜子は目を覚ました。
(ここは……)
梁のかよった天井がある。
背中には寝心地の悪いダイニングチェアの硬い感触。
ぼやけた視界には金髪の人影が映っている。
まばたきをすると視界が徐々に判然し、自分を見下ろしている人の像をクッキリさせた。
店主のエチカだ。
金色の長い髪。
黄金の双眸。
前髪を細いヘアピンでむりやり掻き分け、気位の高い美人といった体の凛とした美貌を惜しみなくさらしている。
年は十八だそうだが、ハデな色の袖なしにレザーのミニスカート、はやりのブーツに身を包んだ出で立ちはもう三、四歳彼女を大人に見せた。
全体的に艶やかな風采の中でただ一点、彼女の両手に嵌まった作業用の白グローブだけが地味で質素で、妙にちぐはぐだ。
「起きろっつーの」
ゴンッ。
杖の先端が小夜子の黒い頭をぶった。
赤い石が上端の台座にはまった、柄の長い杖だ。
うらみがましい目つきになって、小夜子はエチカを睨みつけた。
背中までのばした黒髪が、初夏の暑さでかいた汗で湿っている。
そのことに更に嫌な気持ちになりながら、もたれかかっていたイスから身を起こした。
「なんですか、人が気持ちよくお昼寝してるところに」
「あんたいい気なものね、店番の分際で」
カウンターの向こう――陳列棚の並んだ側から、エチカは「はっ」とあきれとも挑発とも取れる息を吐いた。
「……は! そうだった」
小夜子は自分の白い顔を手で覆う。
ここ数日の出来事が頭の中によみがえってくる。
(わたし……この店に雇われて、エチカの仕事を手伝わなきゃならないんだった)
小夜子がフィーロゾーフィアに来たのは、二週間ほど前である。
アルバイトなんて願い下げだったが、右も左もわからぬ異界の地であり、しかも衣食住の確保もなかったため、唯一の引き取り先であるエチカの店に居候させてもらうしかなかった。
もちろん、どこの馬の骨とも知れぬ得体の知れない人間を雇い入れるなんて、エチカのほうも大迷惑。
最初は彼女も乗り気ではなかったのだが――それは今も同じだが――この国の若き王様が何事かを言った末、やむなしとあいなった。
ただし、従業員として雇用するのには、テストを受け、合格しなければならない。
乗り気でないエチカであり、小夜子であったが、なんとテストは通ってしまった。
とはいえ、結果は『合格』ではなく『保留』。
しばらくしたら再試験をするとのことだが、これについては小夜子はきれいさっぱり忘れている。
なお、回答した小夜子には、なぜ一時的にであれ採用が決定したのかがいまだに分からない。
ともあれ、はじめは慣れない環境というのも手伝って尻込みしたものの、住めば都とは言ったもので、店の二階に当てがわれた寝室は、せまいながらも居心地がよく、ごはんは美味しく、なにより朝食にココアが出る。
「そうだっ! お客さんは……」
「来てたわよ。で、あんたが寝てるあいだに買いものをしていった。お金は置いてってくれてるわよ」
「わおー、ド田舎の無人販売所なみのマナーのよさですね」
「ド田舎とは言ってくれるわね。つーかあんた、どっからそんな知識が出てくんのよ。前の世界の記憶は、すっぽり無くなってるんじゃなかったの?」
(ぎくっ)
小夜子は言いわけを考えた。
「……な、ないです。ないんです……けどほら、よく言うじゃないですか。記憶にはいくつかの種類があって――」
「エピソード記憶の都合のいい部分だけがキレイさっぱりなくなってるってわけ? あんたの場合」
蟀谷をひきつらせてもう一発小夜子の頭を殴ってから、エチカは肩を落とした。
「たく、眠ってばっかでなんの役にも立ちゃしない。見込みちがいだったかしら」
「育ちざかりなんです。お昼寝は見逃してくださいよ」
「育ちざかりねー」
ジトッ。
金の瞳をすがめて、タータンチェックのワンピースをまとった小夜子の小柄な体格を一瞥してからエチカはつづけた。
「はあ……。あんたの記憶がもどったら、すぐにでも元の世界につっ返してやれるのに」
(ギクギクッ)
小夜子は身をすくめた。
元の世界の記憶。
これが小夜子が最も忌避し、警戒しなければならないワードだった。
「う~。気長に待ってくださいよう」
「じゃあ、ちったあ良いとこ見せてほしいものね。私が本気で追いだす気持ちにならない内に」
「埋め合わせはしますよ。だいたいそうさせるつもりでわたしを起こしたんでしょう?」
「あら、察しがいいわね。その頭の回転の速さは美徳よね」
上機嫌になってエチカはくるくる人差し指を玄関に向けた。
夕日のオレンジ色が曇り硝子の外から透けて、店内の床を暖めている。
「おつかいに行ってほしいのよ。《リーマジハの森》から《香閃草》を採って来てちょうだい。モンスターも出るから、気をつけて行きなさいよ」
「えーそんな危ない所にわたし一人で?」
「ひとりで行きたきゃそれでもいいわよ?」
すっ。
エチカが杖を差し出す。
椅子から腰を上げがてら、小夜子は嫌々受け取った。
しゅううう……。
たちまち杖の石の色が赤から黒に変わる。
それは所持者の《錬金術師》としてのレベルが、最高位から最底辺に移行したことを意味するのだと小夜子は知っていた。
「死んじゃったらどーしてくれるんですか」
「火葬してあげるわ。急な依頼が入ってね、私のほうはそっちの準備でいそがしいの。怖かったらスピノザんとこの双子も誘って行きなさい。ああ見えてあのふたり、あんたより腕は立つから。はい手袋」
スモールサイズの採取用軍手をピシャリと顔にたたきつけられて、落ちかけたそれを受け取って小夜子は装備した。
指先が少しだけ余る。
「うう……元より拒否する権利なんて、わたしには無かったんだ」
「よく分かってんじゃないのよ」
「ううう……」
ブツクサ唇を尖らせつつ、小夜子はエチカに言われるままにおつかいに出ていった。