レキュール辺境伯エリオット
俳優の純斗がうちの大学の学生だという噂は、その日あっという間に学内に広がった。ジョセフになりすましても違和感がなかったのは、俳優力のなせる技かもしれない。
アパートの純斗の部屋に合流した私たちは、次の手を考えなければならなかった。
大家さんが用意した炭酸入りレモネードは、今日も美味しかった。暑い日にぴったりで、純斗と私はごくごく喉を鳴らして飲んだ。ヒューもサミュエルも美味しそうに飲んでいたが、魔導師ジーニンだけは炭酸が苦手だと言って遠慮して、純斗が用意したアイスコーヒーをいただいていた。
「まず、マルグリッドは大丈夫になった。でも、彼女一人で聖女を処刑に持ち込めるわけがない」
純斗は腕組みしてホワイトボードを睨んでいた。私は少しドキドキする思いで純斗の一挙一足等に飛び上がりそうになる程だった。レモネードのグラスを純斗から渡されて指がかすったぐらいで赤面してしまった。指の体温がとても温かった。
「ヒュー、誰か聖女は無実だと訴えた人がいませんでしたか?」
純斗はヒューを見つめた。
「あ、そういえば!」
ヒューは眉間にシワを寄せて考え込んで、ハッとしたように叫んだ。
「レキュール辺境伯が、隣国のカール・ハンリヒ大帝の弟であるルノー・ガクセン・ハンリヒがマルグリッドと結託して謀反を企てていると言ってきたことがあった。でも、俺はその日頭に来ることがあって、彼の話をちゃんと聞けなかった。その後、ヴァイオレットが捕まって……」
「レキュール辺境伯?」
私はその言葉にビクッとした。たびたび頭に浮かぶあの辺境の地のことだ。
――エリオット・アクレサンデル・レキュールの地だわ。
私は一瞬、彼の瞳を思い出した。なぜか純斗が「にぶいな」と私にそっけなく言ってきた瞬間の顔がよぎって私はカッと赤面した。
「私があなたに責められて婚約破棄されるとき、あなたはその名前を出したわ」
私は何かの胸騒ぎを感じて、ヒューに聞いた。
「君は……レキュール伯爵領で一度、帰らなかったことがあった。行方がわからなくなったんだ。その時、その……君と彼が夜を共にしていたという複数の証言があったんだ」
そうなのだ。色々言われた中に、その内容が確かにあったのだ。私の目から涙が込み上げてきた。鼻の奥がツンとして痛い。私の心の中にエリオットが助け出してくれたあの夜のことがまた蘇った。
私とエリオットは純粋な友達だったはずだ。あの地の再建計画を話し合って夜を明かした日のことを思いだした。焚き火の明かり越しに星空を見て、笑って話し合った。確かに楽しかった夜だ。でも、彼とは友達だった。
聖女でもなく、公爵令嬢でもなく、一人の18歳の女性として私はその夜そこにいたと思う。星々の明かりと焚き火の明かりの下で、私はとても幸せだと思った記憶があった。
「でも、君はそんなことをしていないんだろう?レキュール辺境伯とは何もなかったのだろう?」
ヒューは苦悶に満ちた表情を浮かべた。喉がヒクヒク震えている。私はあの時否定した。でも、ヒューは信じてくれなかった。私の指にはヒューのくれたダイヤの指輪が光っている。
それはもう過去のことで、過去をやり直すために集まっている。ヒューは反省して泣いて謝ってくれた。私は誰かに仕返しをするためではなく、ヴァイオレットの人生を救うために頑張っている。私は今度はヒューと結ばれて幸せの絶頂を感じた。結婚を申し込まれた時を上回る女の幸せを感じた。マルグリッドが真っ黒なのを確認して、確実にやっつけた。困っていた学費も払えた。何もかもが最高だ。そう、最高なのだ。全てが最高なのだ。
かつて最愛だった人に再び恋して体の関係を結んだ。大切な初めてを捧げた。
でも。マルグリッドに取られるという思いがなければ、私はその行動に出たのか自分でも自信がない。
とてつもなく最高で醜悪な気がする。私に婚約破棄をあれほど強く言い渡した張本人と寄りを戻した?
私の心を再起不能なレベルにズタボロに傷つけた人とよりを戻した。
魔導師ジーニンは私とヒューを交互に見て、心配そうにしている。沈黙を破ったのは純斗だった。
「もう一度戻ってみよう。気になることがあるんだ。レキュール辺境伯領と隣国のあの男が気になっている」
「カール大帝の弟のこと?」
「そうだ」
「その方がいいかもしれません。マルグリッド一人であの騒ぎを起こせるとは思えないですし」
「ジーニンもそう思う?」
「えぇ、ヴァイオレットお嬢様を完全に救ったと確信が持てるまでは予断が許されないと思います」
「ならば、決まりね。17歳でいいかしら?」
「良いと思いますよ」
こうして、純斗と私はまた戻ることになった。明日の朝、アパート前のブルーリバーとピンクリバーのスーパートレニア カタリーナの涼やな花の前で再集合と決まった。
ヒューは何かを言いたそうだったが、黙って私たちは解散した。サラリーマンの佐々木さんが帰宅するのに偶然合って、大家さんも2階のおばあちゃんも一緒になって私たちは雑談を交わした。
純斗のことは皆分かっていたのだろうと、私がこの時知った。彼が有名な若手俳優だと知っていて、皆そっとしてくれているのだと悟った。
私の写真を狙っている近所の例の中学生がやってきて、スマホを構えたので私は「コラッ!」と追い払った。
「聖女なら何かやってみてよー!」
男子中学生はそう言って走ってどこかに行った。
いつの間にか私と純斗の二人だけがアパート前に残っていた。
なぜか純斗はアパートの向こうの空の方を見ていた。少し悲しげな目だと思った。そういえば、純斗は人気俳優だったなんて一言も言ってくれなかった。私がドラマや映画を見る暇もなくバイトに明け暮れているのが問題なのかもしれないけれど。
「仕事、頑張っているんだね」
私は純斗を心底えらいと思った。すごいと思った。
「すごいよ、今日は学内の女子がみんな騒いでいたよ。純斗は人気が凄いんだね。頑張っていてえらいよ。尊敬する」
私は純斗に力強く微笑んだ。
「好きだと言ってくれて本当に嬉しかった。意識してしまって挙動不審になってしまって本当にごめんなさい。これは私が未熟なせいだから」
私はそう言って純斗に頭を下げた。
「謝んなって。俺の気持ちは言ったから。わかっているならいいよ」
純斗はそう言って、優しい目をして笑った。いつの間にか、私と純斗の間には同志のような絆が生まれていたようだ。ただ、私はもしかすると、ヒューに惹かれながら、純斗にも心惹かれているのかもしれない。最低だ。私は赤らめた顔を見られたくなくて、とっさに後ろを振り向いて、サミュエルのフェラーリを探した。
「馬車じゃなくて、フェラーリだとはサミュエルも出世したもんだ」
純斗はぼそっとつぶやき、私たちが思わず吹き出した。私たちはそれぞれ自分の部屋に戻った。
私はついでに王立修道院の聖女養成機関でちゃんと修行を積んでいるか、自分の状況をチェックしたいと思っていた。心の修行も必要だ。私は恋人に振られたぐらいで力を失うような偽物の聖女であってはならない。私は成長しなければならない。私は今度こそ、何事にも動じずに、自分の力を全うできる人物に成長する必要がある。感情に振り回されてはならないのだ。
私に必要なのは、悲しみと怒りのコントロールだ。




