〈九〉星読
五条へと向かう車中は気まずい沈黙に包まれていた。
いつもの美夕姫であれば、通りがかる屋敷の庭木を褒めたり、大路を行き来する者たちの様子を興味深く観察したりで退屈しないよう会話を楽しむのだが、小雪がいなかったあいだに来ていた小次郎と何かあったらしく、ずっと黙っている。
「──軽蔑いたしますわ、小次郎さま」
自分の女主が確かにそう言ったのを小雪は聞いた。つまり、貴族というよりは武者な体格をした人は善いが鈍感男が何かやらかしたのだ。
時折、思い出したように美夕姫は握った拳で口元を押さえている。そのたびに思索が深まるのに比例して眉間のしわが厳しくなる。
──尚侍さまが無理をおっしゃらないと良いのだけれど……。
気立てはいいのだが活発すぎて少し我儘だと思われがちな梓に振り回されてきた美夕姫を、小雪は思いやる。
ほどなく牛車は兵部卿宮邸に到着し、主従は梓のいる東の対屋に通された。
「ああ、美夕姫!」
礼儀正しく挨拶する間もあらばこそ、座る前にもう梓は従姉妹にすがりついてきた。
「ちょ、梓? 尚侍?」
とりあえずは抱きとめ、落ち着かせようと美夕姫は梓の顔をのぞきこむ。その凛々しい男ぶりに、見とれてぽうっとする妹をさし置き、室内にいた若者がおっとりと話しかけた。
「葵の前、よくぞ、来てくだされた」
「おお、あなたが葵どのか。思いもよらぬ頼みを、ようきいてくれた。この未知仁、感謝いたしますぞ」
「は? ええっ?」
なぜ従姉妹の部屋にその兄どころか父宮までいるのか? ふたりともお勤めはどうしたのだ?
良からぬ策謀でもあるのかと、美夕姫は身構える。
梓の女房の早緑が巧みに小雪を局の外へと誘導しているのが見えた。
「梓、これはいったい?」
一旦、乙女心知らずの大うつけ野郎のことは意識の外に追いやり、美夕姫は兵部卿宮のいう頼みとは何なのか、真剣に聞くことにした。
「んん、その、わたくし……この美貌でしょ。言い寄ってくる殿方が多くて、ちょっと困っているのよね」
梓が照れくさそうに明後日の方を見ると、橘王がそれに続けた。
「あなたもご存知のように梓はこの性格です。好きでないものはそうと、はっきり断ってきたのですが、とうとう、断りきれないおかたが現れてしまって」
「どなたですか?」
「右近中将源貞高どのじゃ」
父は右大臣、母も宮腹という超貴公子である。
「それで? そのことが何か」
自分に関係あるのかと伯母の夫に視線で問うと、兵部卿宮はごまかさずに言った。
「葵どの、そなた一時、梓の許婚ということにしてくれぬか」
「はぁ?」
「聞けば、そなたは娘が心に決めた御仁と瓜二つだとか。とうに想う相手がおるのだと、筋を通せば道理も通ろう。のう、おわかりであろう?」
──いや、待て伯父上、そんな青臭い理由で上流貴族の正式な求婚が断れると本気で思っているのか?
美夕姫は切実な気持ちでため息をついた。しかもこの後、五条邸にはその右近中将が訪ねてくる予定だという。
中将の目的は当然、梓との縁談の話をするためだ。父である兵部卿宮との話し合いの頃合いを見計らって、梓と許婚(美夕姫)の仲睦まじい姿を見せつけ、実は幼き頃より言い交わした相手がいるのだと決定打を突きつける。比翼の鳥か連理の枝か、想いあうふたりの仲を裂くことはできぬとせつせつと訴え、中将に諦めさせるというのが筋書きだ。
「上手くいきますことか……」
梓とふたりきりにされた釣殿で、愛用の笛を吹く合間につぶやいた。
が、果たして貞高中将は言ったのだった。
「わたくしは、かねてより月読尚侍さまに心を寄せておりましたが、あのように睦まじい許婚がおられるのならば……仕方ありませぬな」
だが、上手くいったのはここまでであった。
様子を見に行かせた女房から話を聞いた梓はうきうきと釣殿を後にした。
ふたりの相性を見せつけるために梓が合奏に使った十三弦の音色に惹かれ、許可を得て弾いていた美夕姫は、つい夢中になった。もとは一条宮家にあった名器蒼風は、梓の母によって兵部卿宮家に持ち込まれたものだった。
触れただけで華やかな音色がはずむように鳴り渡る。しかも張りがよく響く。
うっとりと余韻に聴き惚れた。
と。渡殿のかすかな軋みに美夕姫は顔を上げた。
逆光のため顔がよくわからぬが、若い男がすぐそこまで来ている。
「よきところへ、橘王。わたしの高麗笛と合わせて聴きたいので、壱越を押さえてくれぬか?」
それはそれはいい笑顔で従兄に頼んだが、望む返事がこない。
「火宮建どのとは、お身か?」
その一言で、微笑がこわばった。
「源の……貞高どのか」
「いかにも」
うなずくと男はずかずかと入ってきて美夕姫の真向かいに腰を下ろした。無遠慮な視線を美夕姫に浴びせ、かすかに笑う。
「何か?」
意識して低い声を出す。貞高はまだ笑っている。
「いや、伊津良の少将の話によると、あなたの妹御は今末摘花のような姫だとか」
失礼なことをずばっと口にする。
「妹?」
「葵御前と呼ばれていると」
不快感が美夕姫の表情に現れた。それをさらに煽るように、貞高はとりなす言葉をしれっと吐く。
「しかし、兄のあなたがこのように美形であるからには、本当は愛らしき姫なのだと推察するのだが」
美夕姫は何とも応えなかった。
「ときに建どの、いくつになられる?」
嫌な予感に美夕姫の口元がひきつる。
「…………十七ですが」
「ほぉ~、十七歳」
貞高の目は、束ねた美夕姫の長い髪に向けられている。
「元服なさらぬのか? その髪ではまるで白拍子のようだ」
先祖よりの家訓で遅らせているとか何とか、言い逃れるつもりだったが尋常ではない中将の目ぢからに、言葉が出てこない。
「それにその美しさ、ぜひとも何か舞っていただきたいものだな、白拍子のように」
白拍子とは男装して舞う俳優である。二度も言われ、美夕姫は察した。
遠目では誤認識させられたが、近くでまじまじと見られてしまえば、疑いを持つ目で見分すれば、自分が女性である事実はたやすく露呈してしまう。
素早く高麗笛を懐に入れて跳ねるように立ち上がる。そのまま駆け出そうとしたところを背後からがっちり、羽交い締めされた。
「何をする!」
必死に逃げようともがく美夕姫の胸に、貞高の手のひらががっちりと嵌まった。
ふっくらとした柔らかな感触に、確かめるように指が動く。
「こっこの慮外者、どこ掴んでんの!」
がっ、と束縛を振りほどき振り向きざまの掌底がずばんと貞高の顎を叩き上げた。
「ぐ……っ!」
男の目に、星が散る。
突き飛ばして尻餅をつかせた男の上に箏の琴で重しをして、美夕姫は釣殿から走り出た。足音は極力おさえ、記憶を頼りに途中で目くらましに無関係な局を経由しながら梓の部屋へとひた走る。
「あっ梓ぁ!」
なりふり構わず、御簾をくぐって局に飛び込むと、几帳に抱きつく勢いで美夕姫は座り込んだ。
「どうしたのよ、美夕姫?」
「ばれた。女だと、ばれたっ」
「ええっ?」
思わず、梓は美夕姫に取りすがる。
「なんで? どうして? 本当に?」
「嘘でこんなこと言えるか!」
気が動転して、男言葉になっている。その凛々しさに、状況を忘れうっとりする梓……。
「それで葵の君、どうされてきたのだ?」
冷静な問いかけの声に、ついそちらを見てしまった美夕姫が固まる。驚きのあまり、声が……しばらく声が出ない。
「お、かみ……?」
「逃げてこられたのか?」
心配そうに尋ねる男に、美夕姫はうなずく。
貞高が追ってくる気配はなかった。
何とか呼吸が整うと、美夕姫は真面目に進言した。
「わたくしのような者がこのようなこと、申し上げるも無礼とは存じまするが、主上、お忍び歩きはほどほどになさってくださいませ。どうせ梓が面白がってお手引しているのでございましょうけれど」
図星をさされた梓は
「だって、主上が女御さまがたのお相手は嫌だと我儘おっしゃるからぁ」
責任を国主になすりつけた。
「我儘なのか、これ」
「そうでしてよ。しかもすでに綺羅星のごとく女御さまも更衣もお揃いでいらっしゃるのに、お気に召した姫を入内させようと画策してるし」
「あ、そうだった。葵の君、これを姫に渡してくれないかな」
ちゃっかりこんと文使いまで頼まれた。
「撫子さまは、まだ十二でいらっしゃるのに」
とりあえず受け取るが、ちくりとやらずにはいられない。
「大臣には裳着を急がせるよう言ってある。葵の君、わかってほしい。他の女御らとあの姫とは違う。姫のあの素直さ愛らしさをわたしは損ねることなく残したいのだ。狡い駆け引きも計算ずくの囁きも、知らぬままの姫の無垢にまみえたいのだ」
美夕姫の反論を制して主上は続けた。
「決まったことなのだよ。あなたが反対したところで、あなたにはそれを覆す力はない。それに……心配ならば、あなたも共に来れば良い」
「それ、いいわ。そうしましょうよ、美夕姫」
はしゃぐ梓とは対照的に、美夕姫の声は沈んでいた。
「いえ、それは……わたくしは伺えません」
「まあ、どうして? まだ北の方をお迎えでない公達で管弦に秀でたかたと、会わせてあげられてよ? それとも、怜さまのような美丈夫がいいかしら」
「摂関家だけではなく、宮家、大納言家、選り取り見取りでお薦めできるよ、葵の君?」
いや、現時点で婿がねは募集していないのだが。
帝の妃への出仕による婚期の遅れを気にして返事を渋っているわけではないことを納得させるには、やはり真実を話さねばなるまい。
「撫子さまのお勉強より、わたくしがお役目を外れることを許されるのでございましたら、わたくしは兄を捜しに行きとう存じます」
「「兄を捜す?」」
そういえば、親しい縁者のなかの年長者として兵部卿宮に知らせたついでに橘王も怜の行方不明を知ることになったが、宮中にいた梓は知らないことだった。
「実は──」
旅先で行方不明になったことだけを、簡単に伝える。
「似た者がいるようだとの消息が見つかりました。それを手繰ってみようと思います。もし、それが誤りであったとしても、大和、紀伊、和泉、河内……可能性は有り余るほどにあります」
「美夕姫、あなた……」
すでにその目は、京の外へと向けられている。どれだけ言葉を尽くして止めたとて、やはり行くのだろうと主上、そして梓は思った。
美夕姫が三条の左大臣家に戻ると、案の定、西の対屋では撫子が泣いていた。
水干を女房装束に着替え、美夕姫はすぐに撫子の局に向かう。
「いや! 女御さまなんて、ぜったいに、いやっ!」
簀子の端まで、はっきりと拒絶の言葉を述べるのが聞こえた。
「撫子さま」
声をかけて室内に入ると、女房たちがほっとしたように美夕姫を見た。目配せをして彼女たちを下がらせる。
撫子の傍に座ると、耳打ちするように体を寄せて囁いた。
「青駒の君からですよ」
淡い下地に白く花模様を散らしたかわゆらしい料紙の包みを手渡すと
「青駒の君から?」
撫子の瞳が輝いた。
文を開く撫子に、つい、美夕姫は声をかける。
「撫子さま」
「なあに? 葵の君」
「あ、いえ……もし、青駒の君が姫に妻問いなさったら?」
「もちろん、青駒さまの北の方にしていただくわ」
それを聞いた美夕姫の口元に笑みが浮かぶ。撫子は気づいていない。
「どうしてそんなことをきくの?」
「撫子さまは……青駒の君のことが、お好きなのですね?」
ただ、その“好き”は……果たして恋愛的なものなのか、単純に楽しい兄のような存在への好意にすぎないのか──。
それは自分が決めることでも、促して決めさせることでもない。
恥ずかしげに頬を染めて文を読みはじめた撫子は、徐々に真っ赤になっていった。
「葵の君!」
撫子は小さく叫んだ。
「青駒の君は、主上なのね?」
しっかりとした筆致によって記されたやさしい言葉を、撫子は胸に搔き抱く。幼くとも、一人前に立派な恋する乙女である。
「お話を、お受けしてよろしいのですね?」
姫の乳母か綾子に伝えれば左大臣にもすぐに通じ、最速で事は運ばれるはずだ。
撫子自身があの垂れ目を好いているというのであれば、美夕姫としては反対する理由はない。そっと部屋から抜けようとすると、目敏く撫子の視線がそれを追った。
「葵の君、あなたはどうして、小次郎お兄さまの北の方にならないの?」
「ご冗談はおやめくださいな」
目に見えて無理をして応えたのだと、現役恋する乙女は見抜いている。
「お兄さまが見つめているのは、葵の君だけなのに?」
「いいえ、あのかたが見ているのはわたくしではありません」
続く言葉は、撫子には微かにしか聞こえない。
「小次郎さまは……わたくしを通して違う人間を想っておられるのです」
自分の局の前まで来て、美夕姫は立ち止まる。中から話し声がしていた。
──小次郎さまが来ている!
話をしているのは小雪だ。
「なあ小雪。美夕姫どのと建どのは、同じ人なのではないか?」
都合よく美夕姫がいない隙に訊いてくる内容に、小雪はいらっときた。
「俺は……美夕姫どのは男子ではないかと思っているのだが」
「とんでもない! 美夕姫さまは正真正銘、姫君であられます。乳姉妹ですもの、間違いありません」
何というひどい誤解をしているのだ、この男は!
小雪が懸命に反論している現場へ、ふらりと美夕姫は入っていった。
「みっ美夕姫どのっ」
みっともなくも、小次郎は顔ばかりか全身を赤く染めた。
美夕姫は何ら熱を帯びぬまなざしをぼうっとそれに向けていたが、やがて言った。
「小次郎さま……わたくしは女ですわ、建ではありません。そもそも、火宮建などという者は存在しないのです」
涙声になっていた。
「美夕姫さま?」
驚いて小雪が傍へ寄ろうとすると、美夕姫はゆっくりとその場に頽れた。
〈九〉星読──ほしよみ──
〈七〉月読に呼応しての〈九〉星読です。
月の異称が“月読”ならば星の異称は“星読”だろうという安易な判断だったのですが(どこかでそう書いてあるのを見た気がしたので)……古語辞典にも広辞○にも“星読”という単語がありませんでした(^.^;
ライトノベルが市民権を得て、オリエンタル風味のFTが多くの作家さんによって書かれるようになると、職業としての“星読み”が台頭してきましたが。
月=梓=派手な美人、星=美夕姫=地味な(?)美人という対比だったのですが、宇宙レベルで考えると月のほうがはるかに存在としては小さいんですよね、ホントは。
顔を知る人間が多いから、いまは梓のほうが美人評価が多いんですが、もし撫子にくっついて後宮入りしたら、美夕姫は女官さんたちにキャーキャー言われてたような気がします(笑)
古い設定資料をほじくり返したら、思いがけず梓のパパ上のお名前が発掘されました。
未知仁(元は未知人。ハマりすぎなので人→仁に変更)さん。ふーん。ミッチーですな(笑)